白線
朝のホームは、いつも同じ色をしている。
少し湿ったような灰色の床と、やけに乾いた白線。
その白だけが、毎日塗り直されているみたいに新しく、浮いて見えた。
人はその内側に、きちんと並ぶ。
誰も指示していないのに、乱れることはほとんどない。
暗黙の了解のように、決して白線の向こうに行ってはいけないと誰もが認識していたからだ。
肩と肩の間隔も、足の向きも、まるで最初から決められていたみたいに揃っている。
不思議だと思ったことはなかった。
気づいたのは、ほんの些細なきっかけだったはずだ。
いつからか、あの線の向こう側が気になるようになった。
向こうに何かがあるわけではない。
あるのはレールと、暗い溝と、その先に続く同じような風景だけだ。
それでも、線のこちらと向こうとでは、何かが違っているような気がした。世界が変わるかもしれない、という微かな希望さえ見出していた。
白線のこちら側には、「いなければならない」という感じがある。
向こう側には、それがない。
ただ、それだけの違いだった。
会社では、似たような毎日が続いていた。
同じ時間に席に着き、同じ画面を開き、同じような数字を眺める。
それが終われば、また同じ道を通って帰る。
誰かが何かを言っていたはずなのに、言葉はうまく思い出せない。
会議室の空気や、蛍光灯の白さだけが、ぼんやりと残っている。
ある日、後輩が何かを間違えたらしかった。
書類だったのか、数字だったのか、それとも別の何かだったのか。
はっきりとは分からない。ただ、周囲の空気が少しだけ濁った。
その濁りは、ゆっくりとこちらに流れてきた。
「……君にも、責任はあるよね」
声は、驚くほど平らだった。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、事実を置くように、そこに置かれた。
私は、それを拾わなかった。
拾えば、形が決まってしまう気がしたからだ。
決まってしまえば、それに従うしかなくなる。
だから、ただ頷いた。
「…はい」
それだけ言って、あとは何も言わなかった。
帰り道、駅に着く頃には、空はもう暗くなっていた。
ホームには人が少ない。
昼間の規則正しさは薄れて、ところどころに隙間がある。
白線は、朝よりもはっきりして見えた。
周りが暗いせいで、そこだけがぼんやり光っているようだった。
私は、その縁に立つ。
靴の先を揃えて、白のぎりぎりに合わせる。
「ふっ」
笑みがこぼれた。
ほんの少しでも前に出せば、簡単に越えられる距離だった。
向こう側は、やはり何も変わらない。
レールがあって、暗い溝があって、その先に続く夜があるだけだ。
それでも、こちらとは違う。
こちらには、並ぶべき位置がある。
立つべき場所がある。
越えてはいけない線がある。
向こうには、それがない。
ああ、と思う。
これを越えたところで、何かが劇的に変わるわけではない。
明日がなくなるわけでも、過去が消えるわけでもない。
ただ、ひとつだけ。
今まで守っていたものが、消える。
それだけだ。
それで十分なのではないか、という気がした。
私は両手を広げてみせた。深く息を吸い込み、吐き出す。
風が、先に来た。
遠くから、低い音が近づいてくる。
レールがわずかに震え、空気が押し出される。
私は、足先に力を込める。
白の縁が、やけにくっきりと見えた。
その線は、まっすぐで、正確で、どこまでも続いているようだった。
その正確さが、少しだけ滑稽に思えた。
こんな線ひとつで、こんなにもきれいに人が分けられるのか、と。
電車の風が、身体に当たる。
一瞬、すべての音が混ざる。
一歩、前に出た。
(完)




