第2話
隣人に会ってから、メモの文面が少し変わった。
いや、実際にはたぶん前から少しずつ変わっていたのだと思う。
ただ、顔と表情を知ってしまったせいで、一つひとつの言葉に温度を感じるようになった。
『今日は帰宅遅そうですね。廊下の電気、管理人さんに伝えておきました』
『助かります。昨日ちらついてましたよね』
『瀬戸さん、気づいてたんですね』
『毎日通るので』
『私もです』
“私もです”なんて、ただそれだけの言葉なのに妙に残る。
毎日通る廊下を、同じように気にしていたのかと思うと、それだけで隣に住んでいることが急に現実味を持つ。
仕事が立て込んで帰りが遅くなる日ほど、僕はポストより先にドアノブを見るようになった。
付箋がないと少しがっかりして、あるとそれだけで疲れが軽くなる。
ある金曜の夜。
ドアノブには小さな紙袋と付箋がかかっていた。
『今週もおつかれさまでした。甘いもの、まだ平気なら』
中には、クッキーが三枚。
前より少しだけ増えている。
僕は部屋の中に入ってから、しばらく紙袋を机に置いたまま眺めていた。
もったいなくてすぐ食べられない、という感覚をこの歳で知るとは思わなかった。
返事を書こうとして、何度も文面を消した。
結局書いたのは、ひどく無難な一言だ。
『ありがとうございます。週末これで生き延びます』
翌朝、その返事に対して彼女はこう残した。
『大げさです。でも少しうれしいです』
少しうれしい。
その一文を見てから、僕はまるで高校生みたいな気分で午前中を過ごした。
昼過ぎ、珍しく部屋の掃除をしていたら、玄関の向こうで物音がする。ドアを開けると、隣室の前に段ボールがいくつか積まれていた。
引っ越し業者のロゴが見えて、心臓が止まりかけた。
そのとき、たまたま通りかかった管理人の甲斐田さんが気さくに言う。
「ああ、小鳥遊さんね。今月中で移るらしいよ」
「……そうなんですか」
「仕事場変えるんだって。若い人は動きが早いねえ」
管理人は何でもない調子で去っていった。
僕だけが、その場に取り残される。
部屋に戻っても、仕事の資料を開いても、頭の中は妙に静かだった。
静かすぎて、逆に何も考えられない。
隣人。
たまたまメモをやり取りしただけ。
ただそれだけの関係だ。
そう言い聞かせようとして、うまくいかなかった。
ただそれだけなら、段ボールを見たくらいでこんなに息苦しくならない。
夜、帰宅すると、案の定ドアノブにメモがあった。
いつもより少し長い。
『急で驚かせてしまったらすみません。今月末で引っ越します。仕事の都合です。短い間でしたが、いつもやさしく返事をくださってありがとうございました』
やさしく、なんて、自分では一度も思ったことがない。
むしろ毎回もっと気の利いたことを書けたはずなのに、と後悔していたくらいだ。
でも彼女にとっては、そう見えていたらしい。
僕は付箋を持ったまま、玄関に座り込んだ。
引っ越すなら仕方ない。仕事の都合なら止める理由もない。
それでも、これで終わるのは嫌だと、あまりにもはっきり思ってしまった。
どう返せばいいかわからないまま、三十分くらい紙を前にしていた。
結局、書けたのはたった二行。
『こちらこそ、たくさん助かりました。終わるみたいに書かれるのは少し困ります』
書いたあとで、重いと思った。
困ります、は違うだろう。困るのはこっちの都合で、相手に背負わせるものじゃない。
外そうか迷っていると、タイミング悪く隣のドアが開いた。
小鳥遊さんが出てくる。
部屋着ではなく、外出用の薄いワンピースにカーディガンを羽織っていた。たぶんコンビニか、夜の散歩か。僕と目が合った瞬間、彼女の足が止まる。
僕はメモを持ったまま固まった。
最悪だ。今いちばん見られたくない場面だった。
「……こんばんは」
「こんばんは」
前に会ったときより、少しだけ自然に言えた。
でもその先が続かない。
彼女の視線が、僕の手元の付箋に落ちる。
それから、少しだけ困ったように眉を下げた。
「読みましたか」
「うん」
「急ですよね」
「急、っていうか……びっくりした」
そこで終わればよかったのに、僕は続けてしまった。
「嫌だった」
小鳥遊さんが息を止めるのがわかる。
「会えるようになったと思ったのに、もう終わりみたいで」
言ってしまってから、頭が熱くなる。
彼女はしばらく何も言わなかった。やがて小さく視線を落として、静かに言う。
「終わりにしたくなかったから、書けなかったんです」
「え」
「引っ越しのこと。ずっと前から決まってたのに」
廊下の非常灯の下で、彼女の横顔が少しだけ青く見える。
でも声は、ごまかさない人の声だった。
「会ったら、もっと言いにくくなると思って」
「じゃあ、今も言いにくい?」
「かなり」
その返事が少しだけ僕を救った。
自分だけが引き止めたいわけじゃないのかもしれない、と初めて思えたからだ。
「明日、休みですか」
気づけばそう聞いていた。
彼女が驚いたように目を上げる。
「はい」
「少しだけ、話しませんか。メモじゃなくて」
彼女はすぐには答えなかった。
でも逃げなかった。
「明日の午後なら」
「じゃあ、アパートの前で」
「……はい」
それだけ約束して、彼女は外へ出ていった。
僕は玄関の前に一人残って、手の中の付箋を見下ろす。
メモでは書けることがある。
でも、メモではもう足りないこともある。
その夜遅く、僕のドアノブには新しい付箋がかかっていた。
『明日、ちゃんと会って話せるの、少しうれしいです』
たぶんその一文だけで、明日の午後まで生き延びられると思った。




