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隣人のドアノブに残るメモが、だんだん恋文みたいになってきた  作者: 螺旋


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第1話

夜十一時過ぎ、自分の部屋の前に知らない段ボールが置かれていた。


仕事帰りで頭が回っていなかった僕は、一瞬、自分でも何か頼んでいたかと考えた。けれど、宛名を見てすぐ違うとわかる。そこに書かれていたのは、隣室の表札と同じ名字だった。


小鳥遊。


同じ階に住んで三か月になるが、その住人の顔を僕はまだちゃんと知らない。

たまに玄関の開く音だけ聞こえる。朝方に洗濯機の音がして、昼間は静かで、夜になると控えめな足音がする。たぶん在宅中心の仕事をしている人だろう、と勝手に思っていた。


僕は段ボールを持ち上げ、隣のドアの前まで運ぶ。

インターホンを押したが、反応はない。もう寝ているのか、それとも外出中か。仕方なく、ポストの横に挟まっていたチラシの裏を使って短いメモを書いた。


『誤配されていた荷物を、玄関前に移動しておきました。隣の瀬戸より』


それをドアノブに挟み、ようやく自室に入る。


シャワーを浴びて、コンビニのパスタを食べて、ソファで少しだけ寝落ちしたあと、午前一時を過ぎてからふと思い出した。

なんとなく玄関を開けると、隣のドアノブに挟まっていたはずのメモはなくなっていた。


その代わり、僕のドアノブに小さな付箋がかかっている。


『ありがとうございました。助かりました。夜遅くにすみません。小鳥遊』


丸みのある、でも整った字だった。

たったそれだけなのに、妙にきれいに見えて、僕はドアの前で少しだけ立ち止まった。


翌朝、出勤前にその付箋を財布にしまいそうになって、我ながら気持ち悪いなと思ってやめた。


それで終わる話だと思っていた。

でも三日後、今度は僕のドアノブに小さな袋がかかっていた。


中には個包装のクッキーが二枚。

メモが添えられている。


『先日は本当にありがとうございました。お礼を受け取っていただけると嬉しいです。甘いものが苦手でしたらすみません』


思わず笑ってしまった。

丁寧すぎるだろ、と思ったのと同時に、この書き方をする人が少し気になった。


出勤前で時間はなかったけれど、僕は自室に戻って付箋を探した。

ドアノブに新しいメモを残す。


『ありがとうございます。甘いもの、大丈夫です。むしろ今日ちょっと疲れてたので助かります』


書いてから、疲れてたので、は余計だったかと思った。

隣人相手に個人的な情報を混ぜるな。


夜、帰宅すると、また返事があった。


『それならよかったです。お仕事おつかれさまです』


その一文に、なぜか思ったより救われた。


それから、僕と隣人のやり取りは、たまに続くようになった。

宅配ボックスが満杯だったとか、管理会社の紙が入っていたとか、ゴミ出しルールの変更を知っているかとか。最初はそんな実務的な連絡ばかりだった。


でも、少しずつ、それだけじゃなくなる。


『雨、強いので帰宅お気をつけください』

『ありがとうございます。小鳥遊さんも、外出するなら足元気をつけて』

『今日は一日部屋です』

『いいなあ。こっちは会議三本でした』


返事を書いたあとで、会議三本でした、はなんだその報告、と思う。

でもその日の夜、僕のドアノブにはこう返ってきた。


『会議三本はかなり大変そうです。甘いもの、まだ大丈夫なら今度もう少しまともなお礼をします』


まともなお礼、なんて書かれたら、次を期待してしまう。

実際、その次の週には、コンビニではなさそうな焼き菓子が一つ、またメモ付きでかかっていた。


顔はほとんど知らない。

声も聞いたことがない。

なのに、文字だけでその人の印象ができていく。


やわらかくて、気遣いが細かくて、少しだけ不器用。

そんなふうに感じていた。


ある土曜の夜、珍しく早く帰れた僕は、階段を上がったところで前方の部屋の扉が開く音を聞いた。

反射的に視線を上げると、隣室の前に女の人が立っていた。


長い髪を無造作にまとめていて、部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っている。思っていたより華奢で、でも姿勢がきれいだ。

向こうもこちらに気づいて、一瞬だけ目が合った。


たぶん、隣人だ。


「……こんばんは」

そう言ったのは、ほとんど同時だった。


それだけで終わるはずだったのに、彼女は少しだけ目を見開いたあと、手にしていたゴミ袋を持ち直して言った。


「瀬戸さん、ですか」

「たぶん。小鳥遊さん?」

「はい」


それきり、沈黙が落ちる。

ドアノブのメモではあんなに言葉があるのに、実際に顔を合わせると二人とも驚くほど不器用だった。


「その、いつも」

彼女が先に口を開く。

「メモ、ありがとうございました」

「いや、こっちこそ。お菓子とか、助かってます」


言いながら、自分の返事がひどく気の利かないものに思えた。

小鳥遊さんは少しだけ笑った。控えめで、でも付箋の文字から想像していた笑い方そのままだった。


「今、ゴミ出しですか」

「はい。明日の朝だと寝坊しそうで」

「わかる」


また会話が途切れる。

でも、その気まずさは嫌ではなかった。


彼女は軽く会釈すると、階段のほうへ向かった。

すれ違う瞬間、ふわっとせっけんみたいな香りがした。僕はしばらく自分の部屋の前で動けなかった。


夜遅く、落ち着かない気分のまま玄関を開けると、ドアノブに付箋がひとつ。


『さっきはきちんと話せなくてすみません。思っていたより緊張しました』


僕はそれを見て、少し長く息を吐いた。


それから自室に戻り、新しいメモを書く。


『たぶん僕も同じです。文字のほうが、もう少しうまく話せます』


書いて、ドアノブに挟む。

戻ろうとして、ふと足を止めた。


たった今、会えたばかりなのに。

次にまたメモが返ってくるのを、もう待っている自分に気づいたからだ。

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