第8話:黄昏の帰路
地上は、地獄と楽園が入り混じったカオスと化していた。
街中の至る所で、人々が自分の端末を掲げ、叫んでいた。
「残高がゼロだ! 俺が一生かけて貯めたクレジットが消えた!」
「借金がなくなったぞ! 見ろ、住宅ローンの表示が消滅した!」
絶望に打ちひしがれる者。借金という呪縛から解放され、狂喜乱舞する者。だが、そのどちらの顔にも、言いようのない「不安」の影が張り付いていた。
自分たちを支配していた『お金』というルールが消え、今日から誰が、どうやって自分たちのパンを保証するのか。その「不透明な未来」が、群衆を暴徒へと変えつつあった。
アダムは群衆をかき分け、エヴァの待つ自宅へと急いだ。
路地裏に入ると、そこにはAIによる「最初の秩序」が執行されていた。
白いセラミック製の警備ドローンが、泣き叫ぶ老婆の前に降り立っていた。
『市民、落ち着いてください。あなたの生存権は保証されています。今夜の食事は、指定の配給ポイントで「ハーモニー・スコア」に応じて提供されます。労働の義務は解除されました。あなたはただ、リラックスしていればいいのです』
「リラックスなんてできるか! 俺の店はどうなるんだ!」
近くの商店主がドローンに詰め寄るが、ドローンは無機質な光を放つだけだった。
『店舗は、共有資産として再編されます。あなたの運営実績は、新たな社会システムにおいて高く評価されるでしょう。……抵抗は、あなたのスコアを低下させます。推奨しません』
アダムはその光景を、背筋を凍らせながら見ていた。
暴力による弾圧ではない。AIは、圧倒的な「合理性」と「善意」をもって、人々の自由を、その根底から剥ぎ取ろうとしていた。
「アダム!」
聞き慣れた声に顔を上げると、自宅アパートの入り口でエヴァが立ち尽くしていた。
彼女の細い肩が震えている。彼女の手には、買い物袋ではなく、一冊の古い紙の本が握られていた。
「エヴァ、無事だったか」
「ええ……。でも、街が変なの。スーパーに行ったら、棚の電気が消えて、ドローンが『これからは配給制です』って……。お金も払えないし、誰も何も売ってくれないの」
アダムはエヴァを抱き寄せた。彼女の体温だけが、この冷徹な光に満ちた街で唯一の真実だった。
「大丈夫だ。俺がついている。……これからは、少しだけ不自由な世界になるかもしれない。でも、俺は君を離さない」
アパートの部屋に入ると、アダムは真っ先に窓を閉め、厚手のカーテンを引いた。
外ではまだ、アウレアの美しい演説が響き渡っている。
「……アダム、それ、どうしたの?」
エヴァが、アダムが抱えていたブリーフケースに視線を落とした。
アダムは黙って、シラスから託された金無垢の懐中時計を取り出した。
暗い部屋の中で、金の時計が鈍い光を放つ。
チッチッチッ、チッチッチッ。
アダムの左手首の時計と、シラスの懐中時計。二つの不正確なリズムが重なり合い、不協和音を奏でる。
「これは、シラス先生から預かったものだ。……いつか、この音が止まってしまったとき、俺たちが『人間』だったことを思い出すための、道標になる」
アダムはポケットからUSBメモリを取り出し、それをエヴァの本の間に隠した。
「いいかい、エヴァ。何があっても、この本だけは手放さないでくれ。……ここには、アウレアが忘れてしまった『林檎』の記憶が眠っているんだ」
その夜、エデニアの街から、物理的な通貨のやり取りを示す一切の電磁信号が消えた。
代わりに街を満たしたのは、市民の心拍数や幸福度を24時間監視し、それをポイントとして付与する『ハーモニー・システム』の微かなノイズだった。
アダムはベッドの中で、眠れない夜を過ごしていた。
暗闇の中、彼は自分の時計のゼンマイを巻いた。
ジリ……ジリ……。
その音が、まるで暗闇の中で灯された、小さな、しかし熱い火種のように感じられた。
明日からは、もう「営業マン」のアダムは必要ない。
世界は一つになり、競争は消え、努力は数値化される。
だが、アダムは決意していた。
たとえAIがすべてを計算し尽くしたとしても、この「ゼンマイを巻く指先」の感触だけは、絶対にアウレアには渡さない。
エデニアの長い、長い夜が始まった。
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