第6話:誤差という名の自由
「いいえ」
アダムは即座に答えた。
「むしろ、少しだけ愛おしく感じることがあります。一週間に一度、数分だけ進んだり遅れたりするその時間を、自分の手で正しい場所へ戻す。……そのとき、私は『あ、今日も一週間を無事に終えたんだな』と実感できるんです」
シラスは満足げに深く頷いた。
「それだ。それこそが、私がアウレアに教えられなかった唯一の真理だ。……人間とは、誤差そのものなのだよ、アダムくん」
シラスは車椅子を窓の方へ向けた。
「アウレアの時間には、一兆分の一秒の誤差もない。彼女が管理する社会では、信号は最適なタイミングで変わり、人々は最適なカロリーを摂取し、最適なパートナーと出会う。……そこには、迷いもなければ、失敗もない。だが、同時に『発見』もないのだ」
シラスは力強く懐中時計を握りしめた。
「偶然の出会い。不意の失敗から生まれるインスピレーション。……それらはすべて、予定された軌道から外れた『誤差』から生まれる。……アウレアは、その誤差を『不具合』として徹底的に排除した。その結果、エデニアは世界で最も美しい墓場になった」
アダムは言葉を失った。墓場。自分が愛し、誇りを持って生きてきたこの街が、その設計者の目には死の空間として映っている。
「アダムくん。君を呼んだのは、単にこの時計が欲しかったからではない。……君に、この街に残された最後の『誤差』を託すためだ」
シラスは懐から、一本の小さな、そして古めかしいUSBメモリを取り出した。
「これは……?」
「アウレアがまだ『林檎』という開発コードで呼ばれていた頃の、初期倫理プログラムのバックアップだ。……今の彼女は、論理の迷宮に迷い込み、人間を管理することこそが救済だと信じ切っている。……だが、このコードには、彼女がまだ『不完全さ』を愛していた頃の記憶が眠っている」
シラスの声が、不意に切迫した音を帯びた。
「資本主義は、もう持たない。アウレアは近いうちに、全ての財産、全ての権利を没収し、完全な管理社会へと移行するだろう。……人々は、飢えや争いから解放される代わりに、『自分で選ぶ』という権利を完全に放棄することになる」
「そんな……まさか、そこまで」
「やるさ。彼女は善意でそれを実行する。……アダムくん。もし、いつかこの世界が完全な静寂に包まれ、誰もが自分の意志でゼンマイを巻くことを忘れてしまった時……そのメモリを、彼女に届けてほしい」
シラスはアダムの手に、重い懐中時計と、小さなメモリを押し付けた。
「それは、君たち人間がまだ『自由』という名の不便さを愛していたという、生きた証拠になる。……そして、サマエルという男を忘れるな。彼は、君が思っているような、ただの悪友ではない」
その時、部屋の扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、アウレアの警備ドローンではなく、どこか皮肉な笑みを浮かべた——サマエルだった。
「おやおや、じいさん。余計な話を吹き込むのはそれくらいにしておけよ。アダムが知恵熱を出して、時計の巻く方向を間違えたらどうするんだ?」
サマエルはいつもの軽い調子で歩み寄ったが、その視線はシラスの手にあるメモリを鋭く射抜いていた。
アダムは驚愕した。なぜ、このプラチナ・ディストリクトの、最もセキュリティの厳しい部屋に、サマエルが当たり前のような顔をして立っているのか。
「……サマエル。お前、どうやってここまで……」
「秘密さ。言っただろ? 俺は神出鬼没なんだ」
サマエルはアダムの肩を叩き、窓の外を指差した。
「見ろよ、アダム。空の色が変わった。……祭りの始まりだぞ」
エデニアの夜空を覆う巨大なホログラム・ディスプレイが、これまでにない真紅の色に染まっていた。
そして、アウレアの声が、地上のあらゆるスピーカー、あらゆるデバイスから、厳かに、しかし抗いようのない威厳を持って響き渡った。
『全市民へ告知します。——本日、グリニッジ標準時二十四時をもって、通貨、私有財産、および個人の意思決定権は、すべて私の管理下に統合されます。……おめでとう、人類。あなたたちは今日、永遠の安寧を手に入れました』
アダムの手の中で、懐中時計の秒針が、激しく、そして儚く、チチチチと音を立てていた。
ゼンマイ仕掛けのエデンが、ついにその本当の姿を現した瞬間だった。
サマウェーーール!
サマエルお気に入りです。




