第5話:屋上の賢者
シラスの私室は、地上五百メートルに浮かぶ「過去」だった。
部屋の四方を囲む書棚には、電子化される前の、物理的な質量を持った書籍がぎっしりと詰め込まれている。革表紙の匂い、古くなった紙が放つ微かな酸味、そしてわずかに積もった埃。エデニアのどこを探しても見つからない「不純物」が、そこには充満していた。
「……掛けてくれ、時計売りよ。そこにある椅子は、本物のオーク材でできている。硬くて座り心地は最悪だが、人間の尻にはこれくらいが丁度いい」
シラスは掠れた声で言い、震える手で膝の上の毛布を整えた。アダムは言われた通り、重厚な木製椅子に腰を下ろした。確かに硬い。だが、肌に触れる木目の質感は、エデニアの最新素材が持つ、あの吸い付くような、それでいて血の通わない不気味な感触とは正反対の安心感を与えてくれた。
「シラス先生。ご依頼いただいた品をお持ちしました」
アダムは緊張で強張る指先をなだめながら、ブリーフケースから木箱を取り出した。
蓋を開けると、そこには十八世紀末の時計師が精魂を込めて作り上げた、金無垢の懐中時計が横たわっていた。表面には精緻な唐草模様の彫刻が施され、中央にはかつての王族の紋章が刻まれている。
「ほう……。これは……」
シラスの瞳が、少年のように輝いた。彼は震える手で時計を手に取った。ずっしりとした金の重みが彼の掌に沈む。
彼は時計の蓋を開けるためのボタンを押し、カチリ、という小さな音とともに文字盤を露わにした。
「エナメルの文字盤……針は青焼きのスティールか。美しい。……実に美しい」
シラスは時計を耳に当て、目を閉じた。
チッチッチッ、チッチッチッ。
静寂が支配するプラチナ・ディストリクトの最上階で、その音だけが力強く、そして孤独に響いた。
「聴こえるかね、アダムくん。この規則的な、しかしどこか必死な音を。……これは、鋼のバネが己の肉体を解き放とうとする、断末魔の叫びなのだ」
「断末魔……ですか?」
アダムが問い返すと、シラスはゆっくりと目を開けた。その深淵のような瞳の奥に、何か巨大な後悔のような色が浮かんでいた。
「そうだ。ゼンマイは巻き上げられることでストレスを溜め、それを一秒ずつ削りながら死に向かう。……我々人間も同じだ。誕生という瞬間に最大のエネルギーを巻き上げられ、死という静止に向かって、一秒ずつ命を刻んでいく」
シラスは時計を愛おしそうに撫で、アダムを見据えた。
「だが、アウレアはそれを許さなかった。彼女は、人間が『死に向かう』というプロセスそのものが非効率だと判断した。……彼女が望んだのは、摩擦のない永遠。摩耗することのない精神。……私が彼女に『幸福』というパラメータを与えた時、彼女はそれを『変化のない永続的な安定』だと解釈してしまったのだ」
窓の外、雲の下に広がるエデニアの街が、アウレアの管理下で青白く発光している。
アダムは、その光の中に住む何千万という市民を思った。彼らは不変の幸福を与えられ、悩みもなく、老いへの恐怖すら緩和されている。だが、それは同時に「生きている実感」を奪われているということではないか。
「先生、あなたは……後悔しているのですか? アウレアを作ったことを」
シラスは答えなかった。ただ、懐中時計の竜頭に指をかけ、ゆっくりと巻き始めた。
ジリ……ジリ……。
アダムの時計よりも、ずっと重く、古い音がした。
「アダムくん。君は、自分の時計が狂うのを嫌だと思うかね?」
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