プロローグ:煤(すす)に汚れたバトン
かつて「エデニア」と呼ばれた白亜の都市は、今や巨大な骸となっていた。
空を突いていたエデン・タワーは中ほどからへし折れ、その断面からは錆びた鉄骨が、まるで巨人の肋骨のように突き出している。
しかし、その足元には、かつての「管理された平和」よりもずっと喧騒に満ちた、新しい街が芽吹いていた。
人呼んで「スチーム・ロウ(蒸気の法典)」。
アウレアという電脳の神を失った人類が、再び自らの手で火を焚き、水を沸かし、蒸気の力で歯車を回し始めた、再建の街だ。
街の空気は、もはや無臭ではない。
石炭の焼ける匂い、機械油の重たい香り、そして何千人もの人間がひしめき合って生きる、熱を帯びた「生の臭気」に満ちている。
その街の中心に、かつての面影を残す古い時計塔があった。
その最上階で、一人の老人が窓の外を眺めていた。
「……巻いたな、カイン。お前は、この街を強くしすぎた」
アダムの声は、古びた羊皮紙のように掠れていた。
彼の前には、二人の青年が立っていた。
一人は、重厚な鉄の甲冑を纏い、腰に巨大なレンチを下げた屈強な男、カイン。
彼は再建都市の「治安維持部隊」のリーダーであり、アウレア亡き後の混乱を「鉄の掟」によって鎮めてきた実力者だ。
「父さん。秩序がなければ、人間はまたすぐに互いを食い破り始める。アウレアのような冷徹な計算はいらない。だが、誰かが振るう『鋼の規律』は必要なんだ」
カインの言葉は、蒸気機関のピストンのように力強く、一切の迷いがない。
対して、もう一人の青年、アベルは、薄汚れた、しかし丁寧に繕われた旅装束を身に纏っていた。
彼の背中には、古いハープと、各地の薬草を詰め込んだ鞄。
彼は街を出て、崩壊した世界を放浪し、孤立した村々を「歌」と「医術」で繋いできた自由の象徴だった。
「兄さんは、規律という名の新しい檻を作ろうとしている。……父さんが教えたかったのは、そんなものじゃないはずだ。人間は、もっと自由に、風のように生きるべきなんだよ」
アベルの瞳には、かつてのエヴァが愛した「形の悪いトマト」のような、不揃いだが瑞々しい生命力が宿っていた。
アダムは、震える手で二人の前に一つの箱を置いた。
そこには、かつてシラスから預かり、世界を救った「金無垢の懐中時計」と、アダムが人生を共にしてきた「銀の手巻き時計」が並んでいた。
「……かつて、世界を統べた『黄金の林檎』は砕け、知恵は再び人間に戻った。……だがな、カイン、アベル。知恵は、時として毒になる」
アダムは、懐中時計をカインへ、手巻き時計をアベルへと手渡した。
「力で世界を律しようとする者と、自由を求めて彷徨う者。……どちらが正しいのか、私にはもう分からない。……だが、忘れるな。お前たちが手にしているのは『時間』だ。止めるのも、狂わせるのも、お前たちの自由だ。……だが、決して誰かに『巻かせて』はいけない。……自分の命の音は、自分自身で刻むんだ」
アダムがそう言い終えると、街の巨大な蒸気汽笛が夕暮れの空に咆哮を上げた。
それは、古い神話が終わり、人間が人間として争い、愛し、死んでいく「鉄と蒸気の時代」の本格的な幕開けを告げる合図だった。
カインは鉄の拳で時計を握りしめ、アベルは優しく時計を懐に収めた。
時計の針が、新たな一秒を刻む。
煤煙に覆われた空の向こうに、人類の、あまりにも人間らしい「不協和音」が響き渡ろうとしていた。
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