【間話1】:「レシピにない塩味」
エデニアのキッチンには、「失敗」という概念が存在しない。
壁面に埋め込まれた調理ユニット『アウレア・シェフ』に、その日の気分や体調を伝えるだけでいい。ユニットは即座に最適な栄養素を計算し、分子レベルで調整された食材を、完璧な温度とタイミングで加熱する。
出来上がるのは、焦げ目一つない、全人類が「美味しい」と認める統計学的な正解だ。
だがその夜、アダムたちの部屋には、アウレアの計算にはない「異質な匂い」が立ち込めていた。
「……焦げてるのか? いや、これは『燻し』か?」
仕事から帰宅したアダムは、玄関を開けた瞬間に鼻を突く、炭っぽいような、それでいてどこか懐かしい香りに目を丸くした。
キッチンでは、エヴァが顔を上気させ、普段は滅多に使わない手動のフライパンを握っていた。
「おかえりなさい、アダム! ……ちょっと、火加減が難しくて」
彼女の頬には、薄く灰がついている。アウレアのオート・レンジを使わず、旧式のガス・バーナーを無理やり起動させて調理していたらしい。
テーブルの上には、彼女が「実験」と称して作り上げた料理が並んでいた。
それは、アウレアの配給カタログには決して載らないような、形の崩れたジャガイモのソテーと、端が黒く焦げ付いた得体の知れない肉の塊だった。
「おやおや。これはまた、アウレア様が見たら卒倒しそうな『廃棄物』だな」
窓際の特等席で、いつの間にか現れたサマエルが足を組んで座っていた。彼は手持ち無沙汰に、アダムの万年筆を指先で回している。
「サマ、お前、いつの間に……」
「ついさっきさ。窓が開いてたからな。エデニアの『完璧な無臭』に飽き飽きしてたところに、この鼻を突くような『生活の悪臭』が漂ってきたんだ。寄らない手はないだろ?」
サマエルは皮肉げに笑いながら、エヴァが差し出した皿を覗き込んだ。
「エヴァ、これは何という料理だ? 現代アートの新作か?」
「失礼ね、サマエル。これはね、古本で見つけた『肉じゃが』という料理を再現しようとしたの。……でも、途中で調味料の分量を間違えちゃって。アウレアの補正を全部オフにしたから、もう後戻りできなかったのよ」
エヴァは少し恥ずかしそうに、三つのグラスに水を注いだ。
アダム、エヴァ、そしてサマエル。
三人は並んで椅子に座り、その「失敗作」を囲んだ。
アダムが最初にジャガイモを口に運んだ。
……ジャリ、という嫌な食感がした。塩が完全に溶け切っておらず、塊のまま残っていたのだ。
「……どう? アダム」
「……ああ。……しょっぱいな。それに、芯が少し残ってる」
アダムは正直に答えた。美味しいとはお世辞にも言えなかった。アウレアが提供する、あのベルベットのように滑らかなマッシュポテトとは比較にならない、不器用な食べ物だ。
次に、サマエルが焦げた肉を口にした。
彼は一口噛むごとに、眉間に深いシワを寄せ、まるで苦行を耐え忍ぶ聖者のような顔をした。
そして、ゴクリと飲み込むと、大きく一つ溜息をついた。
「……最悪だ」
サマエルは吐き捨てるように言った。
「塩っぱい、硬い、苦い。……アウレアの栄養管理センターがこれを見たら、即座に毒物混入の警報を鳴らすだろうぜ」
エヴァの顔がみるみるうちに曇り、彼女は俯いた。
「そうよね。……やっぱり、機械に任せた方が良かったわね」
だが、サマエルは止まらなかった。彼は残りの肉をフォークで突き刺し、再び口へ放り込んだ。
「だがな、エヴァ。……アウレアの飯には、絶対に真似できない味がある」
「え……?」
「『レシピにない塩味』だよ」
サマエルは自分の指先についた塩の結晶を、じっと見つめた。
「アウレアが計量する塩は、ただの塩化ナトリウムだ。だが、この皿にある塩味には、お前が『美味しくなれ』と願って、焦って、失敗して、少しだけ流したかもしれない『汗の味』が混じってる。……それはな、生きてる人間にしか出せない隠し味なんだよ」
サマエルは皿を綺麗に平らげると、珍しく柔らかな笑みを浮かべた。
「完璧なものは、喉を通り過ぎるだけで何も残さない。……でも、このクソ不味い料理は、俺の胃袋に『重み』を残した。……俺は今、自分が確かに何かを『食べた』って実感してる。アウレアの計算を台無しにする、最高の失敗だ」
アダムも、残りのジャガイモを口に放り込んだ。
相変わらず塩辛い。だが、噛み締めるほどに、エヴァが火力の調節に苦労し、フライパンを振り、失敗にうろたえた「時間」の厚みが伝わってくるようだった。
「……本当だ。これに比べたら、アウレアの食事は空気を食べているみたいだ」
エヴァは、驚いたように二人を見比べ、それから弾けるように笑い出した。
「二人とも、変な人。……不味いって言いながら、そんなに嬉しそうに食べるなんて」
笑い声が、静かな部屋に響く。
アウレアの風が届かない、キッチンの小さな一角。
焦げた匂いと、多すぎる塩。
それは、効率と最適化という名の「楽園」から最も遠い場所にある、汚れていて、不器用で、しかし最高に温かい人間の食卓だった。
「なあ、サマ。お前、いつまでここにいるんだ? そろそろアウレアのパトロールが来る時間だぞ」
アダムが尋ねると、サマエルはいつものように窓枠に腰を下ろした。
「ああ、もう行くよ。……不味い飯を食ったら、少しだけ、このクソ退屈な世界と戦う気力が湧いてきたからな」
サマエルは夜の闇に溶け込む直前、アダムの手首にある時計を指差した。
「アダム。……その時計も、エヴァの料理と同じだ。狂うし、止まるし、手間がかかる。……だが、それを『無駄』だと笑う奴らに、この塩味の正体は一生分からない。……じゃあな」
サマエルの姿が消え、夜風がカーテンを揺らした。
テーブルの上には、空になった三つの皿だけが残されていた。
エヴァは、満足げに微笑みながら、フライパンを洗い始めた。
アダムは、自分の時計のゼンマイをゆっくりと巻いた。
カチ、カチ、カチ……。
その夜、二人はかつてないほど深い、泥のような眠りについた。
アウレアが推奨する「最適化された睡眠」ではなく、不味い料理と、心地よい疲労が生んだ、本当の意味での「休息」を味わいながら。
翌朝、アダムが目を覚ますと、キッチンからは再び、アウレアが用意した完璧なモーニング・セットの香りが漂っていた。
昨夜の焦げた匂いは、もうどこにも残っていない。
だが、アダムの舌の裏側には、まだあのレシピにない「塩味」が、確かな記憶として刻まれていた。
ッシ!第二章書き上げました!
やったぜい!
読んでくださる人も徐々に増えてきて嬉しいです。
ありがとうございます。
第三章も気合い入れて参ります!(毎日18時10分に更新します。)
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