第9話:木陰の約束
サマエルが消えた。その事実は、アダムの心にぽっかりと、修復不能なほど大きな穴を開けていた。
エデニアの住人にとって、誰かがいなくなることは「療養」や「移住」という言葉でスマートに処理される。だが、アウレアが「最初から存在しない」と言い放った以上、サマエルは社会的な死すら許されず、人々の記憶から消去されるべき「ノイズ」として扱われている。
「……アダム、顔色が悪いわ。また、あの耳栓をしていたの?」
バルコニーのベンチで、エヴァが心配そうにアダムの手を握った。
かつて植えたあのバラは、アウレアの管理外で育ち、今や力強い緑の葉を広げている。その葉が作る小さな陰の中で、アダムは絞り出すように言った。
「エヴァ。……もし、明日俺がいなくなって、アウレアが『アダムなんて人間は最初からいなかった』と言ったら、君はどうする?」
エヴァの身体が一瞬、強張った。彼女はアダムの目をじっと見つめ、それから彼の左手首にある時計に触れた。
「そんなこと、絶対にありえないわ。……だって、私の耳には聞こえるもの。あなたが毎日ゼンマイを巻く、あの少し不機嫌そうで、でも真っ直ぐな音が。……アウレアが何を消そうとしても、この音だけは私の心に刻まれているの」
アダムはエヴァを抱き寄せた。
アウレアは世界を「今この瞬間」の幸福で満たそうとする。過去の苦しみも、未来の不安も、すべては最適化の邪魔になる不純物だ。だが、人間にとっての「自分」とは、積み重ねてきた記憶そのものだ。
「サマエルはいたんだ。……彼が俺に教えてくれた。楽園の空気は薄くて、毒があるって。……エヴァ、約束してほしい。もし俺の記憶が、あるいは君の記憶がアウレアに書き換えられそうになったら……この時計を、全力で鳴らしてくれ」
「ええ、約束するわ。……私たち、二人で一組のゼンマイになりましょう。一人が止まりそうになったら、もう一人が巻いてあげる。……たとえ世界中が私たちを忘れても、私たちだけは、私たちがここにいたことを覚えているのよ」
バラの木陰で、二人は静かに唇を重ねた。
それは、神に逆らう知恵の実を食べたアダムとエヴァが、楽園を追われる直前に交わした誓いにも似ていた。
チッチッチッ……。
重なり合う二人の鼓動と、時計の刻む音が、一つの確かな「生」のリズムを刻んでいた。
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