第1話:静寂の中の鼓動
朝は、常に一筋の光と、冷徹なまでの静寂から始まった。
アダムがまぶたを持ち上げると、そこには網膜に直接投影された「完璧な一日」のスケジュールが浮かんでいた。室温は睡眠に最適な22.5度に保たれ、空気清浄機は森の深部と同じ濃度のマイナスイオンを吐き出している。
窓の外を見れば、そこには世界で最も美しく、最も静かな都市『エデニア』が広がっている。流線型のビルが空を突き刺し、それらを結ぶチューブの中を、音もなく高速のポッドが流れていく。
だが、アダムはその「用意された快適さ」を無視するように、ベッドの脇にある小さな木製のチェストに手を伸ばした。
そこには、一塊の、時代錯誤な金属の塊が置かれている。
アダムの祖父の代から受け継がれてきた、銀色の手巻き時計。
彼は慎重に、まるで壊れやすい小鳥の心臓を扱うかのように、その時計を指先で包み込んだ。
冷たい。金属の冷徹な質感が指を伝い、神経を覚醒させる。
彼は時計の右側についている小さな突起——竜頭——を、親指と人差し指でつまんだ。
「カチ……」
一巻き。
指先に、確かな抵抗が伝わる。小さなバネが、その薄い金属の腹の中で、じりじりと身をよじる感触だ。
「カチ、カチ、カチ……」
何度も、何度も繰り返す。この瞬間、アダムは自分がこの世界の一部であることを思い出す。
エデニアを動かす電力は、アウレアという巨大な知能が管理する核融合炉から無尽蔵に供給されている。スイッチ一つ、あるいは思考一つで、すべては自動的に動き出す。
だが、この時計だけは違う。
アダムが、自分の指を動かし、自分のエネルギーをそのゼンマイに注入しない限り、一秒たりとも進むことはない。
「……おはよう、相棒」
最後の重い一巻きを終えると、時計は「チチチチ……」と、驚くほど小さな、しかし誇らしげな声を上げ始めた。それは、死んでいた金属に命が宿った瞬間だった。
アダムは時計を左手首に巻くと、革ベルトの感触を噛み締めるように締め上げた。
それから、彼は「スマート・グラス」を装着した。視界に再びデジタル情報が溢れ出す。今日の気温、株価の変動、AIが算出した「今日の最適ルート」。
アダムはふと、鏡に映る自分を見た。
三十歳を目前にした、どこにでもいるような営業マンの顔。だが、その左手首だけが、この高度に最適化された世界の中で、唯一「不正確」で「不自由」な時間を刻んでいる。
アダムは、AIが推奨するオート・クッキング・マシンを使わず、古いガスコンロに火をつけた。
青い炎が揺れる。
マザー・アウレアは「直火はエネルギー効率が悪く、火災のリスクが0.04%上昇する」と警告している。視界の端で赤い警告マークが点滅するが、アダムはそれを意識的に無視した。
鉄のフライパンに卵を落とす。
ジュッ、という暴力的なまでの音が、静かな部屋に響き渡った。
この音、この匂い。
エデニアの管理システムが「ノイズ」として排除しようとするものの中にこそ、自分が生きている証明がある。アダムはそう信じていた。
朝食を終え、彼はネクタイを締め直すと、古びたレザーのブリーフケースを手にした。
中に入っているのは、彼が今日売らなければならない「時代遅れの遺物」たちだ。
数本の手巻き時計、万年筆、そして紙の手帳。
玄関のドアを開けると、そこには無機質で輝かしい未来が待っていた。
アダムは階段を降りながら、再び左手首の時計に耳を寄せた。
カチ、カチ、カチ……。
完璧なエデニアの沈黙の中で、その小さな音だけが、アダムを正気に繋ぎ止めていた。
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