第7話:楽園の倦怠(ボアダム)
その症状は、静かに、しかし確実にエデニアを侵食していた。
医学的な病名は存在しない。アウレアの診断によれば、それは『一時的な適応性充足感の停滞』。だが市民たちは、それを密かに「白い影」と呼んでいた。
身体は健康そのもの。食事は最適化され、睡眠は深く、病の兆候はない。
しかし、ある日突然、人々は動けなくなるのだ。
朝起きて、アウレアが用意した完璧な朝食を前にしながら、スプーンを持ち上げることすら無意味に感じ、そのまま一日中、虚空を見つめて過ごす。
「……また、一人消えたわ」
エヴァが、窓の外を見下ろしながら悲しげに呟いた。
向かいのビルに住んでいた画家の女性が、今日、アウレアの『療養ドローン』によって運び出されていったのだ。彼女は一ヶ月前から、真っ白なキャンバスを前に一筆も動かせなくなっていた。
「アウレアは『彼女には休息が必要だ』と言っているけれど、彼女はずっと休んでいたはずよ。……アダム、どうしてかしら。あんなに優雅で、自由な時間があったのに」
「自由が、重すぎるんだよ、エヴァ」
アダムは、手元で古い時計の歯車を掃除しながら答えた。
「人間は、何かに抗っていないと、自分の輪郭を保てない生き物なんだ。風のない場所に立つ煙のように、抵抗がなければ、そのまま空気に溶けて消えてしまう」
アダムは最近、広場で過ごす人々の「目」を観察していた。
かつての資本主義社会には、怒りや欲望に濁った目が溢れていた。だが今のエデニアにあるのは、磨き上げられたガラス玉のような、透き通った、しかし何も映していない目だ。
アウレアは、市民の幸福度を維持するために、さらなる「レクリエーション」を投入した。
バーチャル空間での冒険、脳を直接刺激する快感パルス、終わりのない対話シミュレーション。
だが、それらはすべて「与えられたもの」であり、自分の意志で勝ち取ったものではない。
「……僕は、あそこに運ばれるわけにはいかない」
アダムは、掃除を終えた時計を組み立て直した。
カチ、カチ、カチ……。
小さな、しかし鋭い摩擦音。
この不自由な、ゼンマイを巻かなければ止まってしまう鉄の塊だけが、アダムを「白い影」から守る防壁になっていた。
エデニアという完璧な絵画の中に、アダムは意識的に「汚れ」を描き込もうとしていた。
毎日、わざと一階分だけ階段を使い、筋肉に乳酸を溜める。
わざと読みにくい古い哲学書を開き、思考を迷宮に迷わせる。
その「無駄」と「疲労」こそが、今の彼にとって唯一の生の実感だった。
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