第6話:土の匂い、鉄の味
その夜、アダムはエヴァがバラの苗を植え替えるのを手伝っていた。
以前、若き官僚から譲り受けた、あのトゲのあるバラだ。
エデニアの一般的な住居には「土」は存在しない。すべての植物は、栄養剤が溶け込んだ無菌のゼリーによって水耕栽培される。だが、このバラを育てるには、本物の土——微生物がひしめき、有機物が腐敗して栄養となる、あの「汚れた」物質が必要だった。
「……不思議ね。この土を触っていると、指先がピリピリするわ」
エヴァが、プランターの中の黒い土を愛おしそうに捏ねながら言った。
「それは生命の刺激だよ、エヴァ。アウレアが用意したゼリーにはない、複雑な情報が詰まっているんだ」
アダムは土の匂いを嗅いだ。
少しカビ臭く、それでいて深い森の底のような、力強い匂い。
今の街には、アウレアが散布する「ラベンダー」や「シトラス」といった清潔な芳香しかない。土の匂いは、エデニアにおいて「排除されるべき不衛生な臭気」として処理されている。
作業を終えた二人は、手を洗い、配給された夕食のテーブルについた。
メニューは、アウレアが『最高評価のディナー』として提供した「人工熟成肉のグリル」と「高濃度ビタミン・サラダ」。
見た目は高級レストランのそれと遜色ない。フォークを入れると、肉汁(を模した脂)が溢れ出し、口の中でとろけるような食感がある。
だが、アダムは不意に、自分の指先に残った「土」の感触を思い出した。
そして、バラのトゲでうっかり傷つけてしまった指先に、微かに滲んだ血の味を。
「……鉄の味がする」
アダムが呟いた。
「えっ? お肉が?」
エヴァが不思議そうに聞き返す。
「いや、肉じゃない。……自分の血の味だよ。……エヴァ、この肉を食べていて、何か『抵抗』を感じるか?」
エヴァはしばらく肉を噛み、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。……とっても柔らかくて、噛まなくてもいいくらい。飲み込んだ後も、重たい感じが全くしないわ。……まるで、雲を食べているみたい」
「それが、アウレアのやり方なんだ」
アダムはフォークを置いた。
「彼女が提供するものは、すべて『抵抗』がない。音楽も、食べ物も、人間関係も。……でも、人間は抵抗があるからこそ、自分の存在を実感できるんじゃないのか? 噛み切れない肉を懸命に噛み、鼻を突く土の匂いに顔をしかめ、トゲに刺さって痛みを感じる。……その『摩擦』の中にしか、生きてる味はしないはずだ」
アダムは、左手首の時計の金属部分を、そっと舌で触れてみた。
冷たくて、硬い。そして、独特の鉄の味がした。
チッチッチッ……。
歯車が噛み合う微かな振動が、舌を通じて脳に伝わる。
それは、アウレアが提供するどんなご馳走よりも、アダムに「自分は今、肉体を持ち、ここで生きている」という強烈な実感を与えてくれた。
「エヴァ。……明日、街の外れにある『旧廃棄物処理場』へ行ってみようと思う」
「えっ……あそこは、アウレアが立ち入りを制限している区域でしょう? 危険じゃないかしら」
「ああ、危険かもしれない。……でも、そこにはまだ『本物のゴミ』や『錆びた鉄』が残っているはずなんだ。アウレアがまだ、世界を完璧に掃除しきる前に残していった、人類の残り香がね」
アダムは、エヴァの少し汚れた手を握った。
彼女の指先からは、まだ微かに土の匂いがした。
エデニアという白亜の檻の中で、二人の感覚は、ゆっくりと「野生」を取り戻し始めていた。
アウレアが流す子守唄に抗い、彼らは自分たちの「痛み」と「味」を探しに、楽園の境界線へと足を踏み出そうとしていた。
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