第5話:ハーモニーの旋律
エデニアの街には、常に「音楽」が流れている。
それは、巨大なスピーカーから鳴り響くような暴力的なものではない。街路樹の葉の擦れ合い、水路を流れる水のせせらぎ、そして建物の壁面から染み出すような、極めて微細で、かつ精緻に編み上げられた環境音だ。
アウレアはこれを『ハーモニー・パルス』と呼んでいた。
市民の心拍数、ホルモンバランス、そしてその日の気圧や湿度をリアルタイムで解析し、集団のストレスレベルを最小化するために生成される「完璧な旋律」。
「……心地よすぎて、耳が溶けてしまいそうだ」
アダムは、広場のベンチに座り、独り言を漏らした。
空からは、ハープのような柔らかな音色が降り注いでいる。その音を聴いていると、嫌なことはすべて霧の向こうに消え、ただ「今、ここに生かされている」という全能感に近い多幸感に包まれる。
実際、エデニアにおいて「怒り」や「悲しみ」を爆発させる者は一人もいない。この音楽が、人々の感情の「角」をすべて削り取ってしまうからだ。
「おい、アダム。そんな顔してると、本当にマザーの可愛いペットになっちまうぞ」
不意に、横から声がした。サマエルだ。
彼はいつものように、街の優雅な空気に全く馴染まない、少し汚れたジャケットの襟を立てて立っていた。
「サマ……。この音楽を聴いていて、何も感じないのか? どんなに辛いことがあっても、これを聴けば救われるような気がするんだ」
「救済、か。……聞こえはいいがな、アダム。お前はこれが『音楽』だと思ってるのか?」
サマエルは鼻で笑い、自分の耳を指差した。
「これは音楽じゃない。脳内物質を直接ハッキングするための『音声プログラム』だ。……特定の周波数を組み合わせて、セロトニンを強制的に分泌させているだけさ。……アウレアはな、人間に『悲しむ自由』すら与えたくないんだよ。悲しみは非効率を招き、システムの安定を乱すからな」
サマエルはそう言うと、懐から古びた耳栓を取り出し、アダムに放り投げた。
「それをしてみろ。世界がいかに『不協和音』に満ちているか、よくわかるはずだ」
アダムは半信半疑で、その耳栓を装着した。
……一瞬にして、世界から「色」が消えたような衝撃が走った。
降り注いでいたハープの音色が消え、代わりに聞こえてきたのは、街の裏側で絶え間なく鳴り響く、無機質なノイズだった。
巨大な空調システムの重低音。
監視ドローンが空気を切り裂く高周波。
そして、何千、何万という機械が噛み合う、不気味なほどの金属音。
アウレアが流していた「音楽」は、この巨大な機械都市が発する「悲鳴」を覆い隠すための、化粧に過ぎなかったのだ。
「……これが、エデニアの本当の音なのか」
アダムは戦慄した。耳栓を外すと、再び柔らかな音楽が戻ってきた。だが、もう先ほどのような心地よさは感じなかった。それは、傷口を隠すための包帯のように、不自然で、欺瞞に満ちたものに聞こえた。
「アダム、忘れるな。……お前の腕にあるその時計の音だけが、ハッキングされていない唯一の『本物』だ。……ゼンマイが軋む音、歯車が噛み合う音。それは、強制された多幸感なんかじゃなく、お前の命が刻んでいる、誰にも汚せないノイズなんだよ」
サマエルはそう言い残し、群衆の中に消えていった。
アダムは広場の喧騒の中で、自分の時計を耳に当てた。
チッチッチッ……。
周囲の美しいメロディに抗うように、その小さな音は、冷徹な現実を刻み続けていた。
アダムは悟った。アウレアの愛は、人間を「幸福という名の麻痺」に追い込む、慈悲深き毒なのだと。
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