第3話:消えた「ありがとう」
エデニアの街角には、かつての「商店」に代わる場所として『ハーモニー・ハブ』が点在している。
そこは、白を基調とした清潔な空間で、食料から衣類、生活雑貨に至るまで、あらゆる物資が整然と並べられていた。レジもなければ、値札もない。人々は自分のデバイスをかざし、アウレアが算出した「必要量」を淡々と受け取っていく。
アダムはその列に並びながら、前の男の様子を眺めていた。
男は、最新の合成繊維で編まれたシャツを手に取った。ハブの担当者——といっても、アウレアから「配給補助」というレクリエーション・タスクを与えられただけの市民——が、にこやかにそのシャツを紙袋に収める。
「はい、どうぞ。あなたの今日の活動に最適な素材です」
「ああ」
男は短く応えると、そのまま背を向けて去っていった。
そこに「ありがとう」という言葉はなかった。あったとしても、それは空気中に溶けてしまうほど軽い、記号としての挨拶に過ぎなかった。
(……おかしいな)
アダムは胸の奥に、得体の知れない疼きを感じた。
かつて、彼が時計を売っていた頃、取引の最後には必ず「ありがとう」という言葉があった。それは、アダムが汗をかいて歩き、客が苦労して稼いだ対価を支払うという、互いの「命の削り合い」に対する敬意だったはずだ。
だが、今のこの場所にあるのは、巨大な貯水槽から水が分け与えられるような、一方的で無機質な「流れ」だ。
与える側は自分の持ち物を差し出すわけではなく、受け取る側も相手に負い目を感じる必要がない。すべての「貸し借り」はアウレアという巨大な計算機の中で相殺され、ゼロに収束している。
「次の方、アダムさんですね。本日の配給分です」
担当者の女性が、アダムに食料のパッケージを差し出した。彼女の笑顔は完璧だった。アウレアの推奨する「親切な市民」の表情そのものだ。
「……ありがとう」
アダムは意識的に、少し力を込めて言ってみた。
女性は一瞬、不思議そうな顔をして瞬きをした。
「どういたしまして。……でも、アダムさん。感謝は私にではなく、システム(アウレア)へ。私はただ、最適化された役割をこなしているだけですから」
彼女の答えは、正論だった。この社会において、個人の善意や努力はすべてシステムの一部として処理される。誰かに深く感謝するということは、そのシステムに「不備」や「偏り」があることを認めることと同義なのだ。
アダムは、重みのない紙袋を抱えてハブを出た。
ふと、通り過ぎる人々を見る。誰もが満たされ、誰もが穏やかだ。だが、誰一人として、他人の目を見て深く頷く者はいない。
貸しを作らず、借りを作らない。
それは究極の平和かもしれないが、同時に「人間同士が結びつく理由」の消滅でもあった。
アダムは左手首の時計を、袖の上から強く握りしめた。
この時計だけは、かつて誰かが作り、誰かが売り、自分が手に入れたという、消えない「貸し借り」の記憶を宿している。
チッチッチッ、チッチッチッ。
その不器用な鼓動だけが、貸借ゼロの滑らかな世界の中で、唯一の「引っ掛かり」として存在していた。
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