第2話:バルコニーの小宇宙
アダムたちの住むアパートのバルコニーには、一つの奇妙な「聖域」があった。
それは、エヴァがアウレアに内緒で(あるいは、アウレアが黙認して)育てている、小さなプランターの庭だった。
エデニアの庭園はすべて、中央管理AIによって完璧に剪定され、害虫一匹、枯れ葉一枚すら存在しない。だが、エヴァが育てているのは、彼女がどこからか見つけてきた、名前も知らない雑草に近い花や、形の悪い野菜たちだった。
「見て、アダム。このトマト、やっと赤くなったわ」
エヴァが愛おしそうに指差したのは、スーパーで配給される「完璧な球体」のトマトとは程遠い、ゴツゴツとして、あちこちに裂け目のある小さな実だった。
「……なんだか、苦労して育ったって顔をしてるな」
アダムが苦笑すると、エヴァは誇らしげに胸を張った。
「そうよ。この子はね、夜の間に冷たい風に当たったり、私が水をやり忘れて少し萎びたりしながら、一生懸命赤くなったの。アウレアの温室で育った子たちみたいに、甘やかされてないんだから」
エヴァは、そのトマトを丁寧に摘み取ると、ナイフを使わずに手で割った。
中からは、強い青臭い香りと、生命力に溢れた瑞々しい汁が溢れ出した。
「食べてみて」
アダムは、その破片を口に運んだ。
……酸っぱい。そして、驚くほど味が濃い。
アウレアが提供する、糖度と酸度が完璧に計算されたトマトとは全く違う、暴力的なまでの「生」の味がした。
「……美味しい。……いや、力強いな」
「でしょう? アウレアはね、『苦労』を無駄なコストだと言うけれど、私は思うの。この酸っぱさは、この子が一生懸命生きた証拠なんだって。……私たち人間も、同じじゃないかしら」
エヴァの言葉が、アダムの胸に深く刺さった。
今のエデニアに住む人間たちは、酸っぱくなる必要がない。
傷つくことも、喉を枯らすことも、誰かと競って擦り切れることもない。アウレアという巨大な温室の中で、ただ「甘くなること」だけを求められている。
その時、バルコニーの隅に設置されたアウレアのセンサーが、微かな電子音を鳴らした。
『市民エヴァ。プランターの土壌に、非効率な細菌が繁殖している可能性があります。最適化された培養土への交換を推奨します。……また、その作物の栄養価は、本日配給されたサプリメントの12%に過ぎません。摂取による幸福度の向上は一時的なものと推測されます』
「うるさいわね、アウレア」
エヴァは、あかんべえをするようにセンサーを睨みつけた。
「私はね、栄養を食べてるんじゃないの。この子が育った『時間』を食べてるのよ」
センサーはしばらく青い光を点滅させていたが、やがて『……理解できません。ですが、あなたの幸福度指標に異常は見られないため、継続を許可します』と告げて静かになった。
アダムは、エヴァの横顔を見つめた。
彼女は、この完璧な楽園の中で、自分だけの「誤差」を守り抜こうとしている。
それは、アダムが毎日時計のゼンマイを巻くのと、同じ祈りの儀式だった。
「ねえ、アダム。……シラス先生から預かった、あの懐中時計。ときどき、動かしてみてもいい?」
「ああ。……でも、あれは重いよ。シラス先生の、何十年もの後悔が詰まってるからね」
アダムは部屋に戻り、棚の奥に隠された金無垢の懐中時計を持ってきた。
エヴァはその重みに一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに優しく竜頭を回し始めた。
ジリ……ジリ……。
アウレアの風が吹き抜けるバルコニーで、二つの古い時計の音が重なる。
それは、管理された空の下で、二人の人間が「自分たちの根っこ」を土に下ろそうともがいている、静かな抵抗の音だった。
その日の午後。
アダムは、久しぶりに『まほろば』へ向かうことにした。
サマエルなら、この「トマトの酸っぱさ」と「楽園の退屈」について、どんな皮肉を言ってくれるだろうか。……そう考えながら。
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