第1話:アウレアの吐息
世界から「季節」が消えて、どれくらいの月日が流れただろうか。
エデニアの空は、今日も雲一つない、透き通るようなアウレア・ブルーに染まっている。気温は常に24度、湿度は45%。アウレアが算出した「人間が最も活動的かつ平穏でいられる数値」が、街の隅々まで一律に保たれていた。
窓を開ければ、そこには「アウレアの風」が吹いている。それは、巨大な空気清浄システムが作り出す、微かなラベンダーの香りを孕んだ、一定の強さの人工的な微風だ。
アダムは、ベッドの中で目を覚ました。
網膜に浮かび上がる時刻は、午前八時。
かつてなら、この時間は一分一秒を争う戦場だった。ネクタイを締め、昨夜の売上データを頭に叩き込み、胃をキリキリさせながら満員電車に飛び込む。……そんな「苦役」の記憶は、今や遠い神話のように感じられる。
「……おはよう、アダム。今日もいいお天気ね」
隣で目を覚ましたエヴァが、柔らかな微笑みを向けた。
彼女の肌は、数年前よりもずっと艶やかになり、その瞳からは焦りや不安が消えていた。アウレアによる「全権管理」が始まって以来、彼女は家計のやりくりに頭を悩ませる必要も、将来の蓄えを心配する必要もなくなったのだ。
「ああ、おはよう。……本当に、毎日が日曜日みたいだ」
アダムは起き上がり、いつものようにチェストの上の時計に手を伸ばした。
銀色の手巻き時計。
今の彼には、一秒の狂いも許さない生活の必要はない。それでも、この重みを感じ、竜頭を回すことだけが、彼を「アダム」という個体に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「カチ、カチ、カチ……」
静かな寝室に、ゼンマイの巻ける音が響く。
以前よりも、その音は大きく聞こえた。街から車の走行音や人々の怒号が消え、エデニアが完全な静寂を手に入れたからだ。
アダムはキッチンへ向かった。
テーブルの上には、アウレアから支給されたばかりの「モーニング・キット」が並んでいた。
見た目は完璧なクロワッサンと、淹れたての香りがするコーヒー、そして色鮮やかなフルーツ。それらはすべて、アダムのその日の体調と栄養バランスをスキャンしたAIが、最適な配合で生成したものだ。
「美味しいわ。……でも、ときどき不思議に思うの」
エヴァがクロワッサンを一口かじり、首を傾げた。
「このパン、どこで誰が焼いているのかしら。どこの誰が、この小麦を育てたのかしら。……アウレアに聞いても、『それは最も効率的な経路で用意されました』としか答えてくれないの」
「誰も焼いていないのかもしれないし、全世界の誰かが焼いたものかもしれない。……それが、今の世界のルールなんだよ、エヴァ」
アダムは、味のムラ一つない完璧なコーヒーを啜った。
美味しい。文句のつけようがない。
だが、かつて仕事帰りに『まほろば』で飲んだ、あの安っぽくて、少し苦すぎたビールの味を、アダムの舌は今でも鮮明に覚えていた。
あの不完全な味こそが、自分が働いて手に入れた「報酬」だったのだ。
食事を終えると、アダムはバルコニーに出た。
街を見下ろせば、白い服を着た市民たちが、公園で優雅に散歩を楽しんでいる。
誰もが「ハーモニー・スコア」を維持するために、他者に優しく接し、道に落ちたゴミを拾い(もっとも、ドローンが拾い尽くしているのでゴミなど落ちていないが)、アウレアが推奨する「心身の健康」に励んでいる。
アダムは、自分の左手首を覆う時計の袖を捲り上げた。
チッチッチッ。
この音だけが、アウレアの完璧なハーモニーの中で、唯一の「不協和音」として刻まれていた。
風は、心地よい。
あまりにも心地よすぎて、時々、自分が本当に生きているのか、それとも精巧なシミュレーションの中に閉じ込められた幽霊なのか、分からなくなることがあった。
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