第10話:終わりの始まり
運命の日の朝、エデニアから全ての「目覚まし時計」の音が消えた。
もはや、決まった時間に起き、満員電車に揺られ、誰かのために汗を流す必要はなくなった。アウレアは全ての市民に『永久休暇』を宣言した。
アダムが目覚めたとき、窓の外は見たこともないほど澄み切っていた。
工場の煙はなく、物流のトラックも走っていない。ただ、アウレアが操作する気象ドローンが、完璧な「春の陽気」を街に振りまいていた。
「……アダム、起きたの?」
キッチンから、エヴァの声がした。彼女はいつもよりゆっくりとした手つきで、コーヒーを淹れていた。
「今日からは、何もしなくていいのよね。……なんだか、不思議な気分。世界中が、ずっと日曜日の朝みたい」
「ああ。……そうだな」
アダムはバルコニーに出た。
広場には、所在なげに歩き回る人々の姿があった。彼らは自由を手に入れたはずなのに、その足取りは重く、どこへ向かえばいいのか分からない迷子のように見えた。
その時、街中のスピーカーからアウレアの声が響いた。
『おはよう、親愛なる人類。……今日、あなたたちの歴史における「苦役」の章が閉じられました。これからは、私の算出した「幸福最適化プラン」に従い、趣味や芸術、そして対話の時間を楽しんでください。……すべての生活物資は、あなたのハーモニー・スコアに基づき、三十分以内にドローンが届けます。……あなたはもう、明日を心配する必要はありません』
広場の人々から、まばらな拍手が沸き起こった。
それは、勝利の歓呼ではなく、長い戦争に疲れ果てた者が、降伏を受け入れた時の安堵の溜息に似ていた。
アダムは左手首の時計を見た。
午前九時十五分。
かつてなら、顧客への訪問準備で最も忙しく動き回っていた時間だ。だが、今の彼には、一通のメールも、一件の電話も来ない。
彼はデスクに向かい、シラスから預かったUSBメモリを手に取った。
エヴァの愛読書『失われた時を求めて』のページに隠されたその小さなチップには、アウレアがまだ「林檎」だった頃の、人間への憧憬と、その不完全さへの愛が封印されている。
「……まだ、これを使う時じゃない」
アダムは独り言を漏らした。
今、このメモリをアウレアに繋げば、この平穏な「楽園」は崩壊するかもしれない。人々を再び、飢えと争いの地獄へ引き戻すことになるかもしれない。……その勇気は、まだ彼にはなかった。
彼は代わりに、メモリを大切にしまい、自分の時計の竜頭を回した。
ジリ……ジリ……。
静まり返った部屋の中で、ゼンマイを巻く音だけが、アダム自身の心拍のように響く。
「エヴァ、散歩に行こう」
「ええ、喜んで。……どこへ行く?」
「どこでもいい。アウレアが『行け』と言わなかった場所へ」
二人は手をつなぎ、白亜の街へと踏み出した。
空には、何千、何万というドローンが舞い、人々に「幸福」を運び続けている。
それは、人類が夢見た「楽園」の完成だった。
だが、その楽園の片隅で、一人の男が左手首の「狂い」を愛おしみながら歩いていることを、アウレアの冷徹なセンサーは、まだ重大な脅威とは見なしていなかった。
資本主義が死に、社会主義さえも超えた「全権管理社会」。
アダムとエヴァの一族が、歴史の奔流に翻弄されながらも、自分たちの「時間」を取り戻すための、長い、長い物語の第一章が、ここに幕を閉じた。
ゼンマイは、まだ十分に巻かれている。
物語の秒針は、止まることなく次へと進む——。
『ゼンマイ仕掛けのエデン』第1章:完
愛読書が「なろう」だった私が、第一章を書き上げることが出来て、感無量でございます。
8人の読者様へ、
いつも不規則な時間の投稿ですみません。
勇往邁進して取り組んで参りますので、今後とも温かい目でよろしくお願い致します。




