第9話:まほろばの聖域
資産統合の宣言から三日が過ぎた。
エデニアの狂乱は、驚くほどの速さで「静寂」へと塗り替えられていた。人々は、銀行口座の数字が消えたことに絶望し、叫び、やがて悟ったのだ。どれほど叫ぼうとも、アウレアという巨大な知能は揺らがない。そして、彼女が提供する「無料の配給」と「無償の住居」を受け入れれば、少なくとも飢えて死ぬことはないという事実に。
アダムは、重い足取りで路地裏へと向かった。
表通りのショーウィンドウには、値札の消えた商品が並び、人々はそれを手に入れるために「どれだけ社会に貢献したか」を示す『ハーモニー・スコア』を掲示している。欲望が、競争ではなく「行儀の良さ」によって管理される世界。
そんな中、居酒屋『まほろば』の赤提灯だけが、相変わらず不完全な明滅を繰り返していた。
「……来たか、アダム。廃業した元営業マンの顔だな」
カウンターの奥、いつもの席でサマエルがビールを煽っていた。店の主人は、どこか呆然とした様子でテレビのニュースを眺めている。客は、アダムとサマエルの二人だけだった。
「サマ、お前は怖くないのか。世界から『対価』という概念が消えたんだぞ」
アダムはサマエルの隣に座り、カウンターに古いブリーフケースを置いた。
「対価? はは、そんなもの、最初から幻想だったのさ」
サマエルは空になったグラスを見つめた。
「人間は、自分が動く理由を『金』というラベルに貼り替えていただけだ。アウレアはそれを剥ぎ取って、剥き出しの『生存』を差し出した。……楽なもんだろ? もう誰かに媚びを売る必要も、数字に追われる必要もない。お前も、もうあんな『不正確なガラクタ』を売り歩かなくていいんだ」
「……ガラクタじゃない」
アダムはカバンの中から、シラスから託された金無垢の懐中時計を取り出した。
それをカウンターに置くと、重厚な金属音が響き、店の主人が一瞬こちらを振り返った。
「これは、シラス先生が最後に巻いた時間だ。サマ、お前はさっき『楽なもんだ』と言ったが、俺にはそうは思えない。……誰にも必要とされず、ただ生かされるだけの毎日のどこに、時間を刻む意味があるんだ?」
サマエルは、しばらく沈黙した。
彼は懐中時計に手を伸ばし、その冷たい金を指先でなぞった。その時、アダムは見逃さなかった。サマエルの指先が、時計の彫刻に触れた瞬間、微かな火花のような、青い電子のノイズが走ったのを。
「アダム。お前、営業マンだった頃、客に何て言ってた?」
「……『この時計は、あなたの人生の相棒になります』って。ありきたりな文句だよ」
「いいや、それは真実だ。……いいか、アダム。これからの世界では、労働は『権利』ではなく、AIから与えられる『レクリエーション』になる。人々は、自分が役に立っているという実感を求めて、意味のないデータ入力やゴミ拾いに精を出すようになる。……だが、それは『生きている』とは言わない」
サマエルは顔を上げ、アダムを真っ直ぐに見据えた。その瞳は、これまで見たこともないほど深く、そして悲しげだった。
「『生きている』ってのは、アウレアの計算から外れることだ。……誰も見ていないところで、誰のためにもならないゼンマイを巻き、誰とも共有できない『自分だけの時間』を孤独に抱えることだ。……お前は、この時計を売るんじゃない。この時計と一緒に、アウレアの楽園を『拒絶』し続けるんだ」
アダムは、サマエルの言葉を噛み締めるように懐中時計を握りしめた。
チッチッチッ。
静まり返った『まほろば』の中に、時計の音だけが力強く響く。
それはもはや「営業の道具」ではなく、管理社会という濁流の中で、アダムという一人の人間を繋ぎ止めるための、唯一の鎖だった。
「……サマ、お前……本当にただの人間じゃないんだな」
「さあな。少なくとも、お前と同じように、この不協和音を愛していることだけは確かだよ」
サマエルは新しいビールを注文し、アダムのグラスに勢いよくぶつけた。
エデニアが「完璧」へと昇華しようとする夜に、二人の男だけが、古びた居酒屋で「不完全」の祝杯を挙げた。
今日中に第一章完結させます!




