02.次の仕事
重い打撃音が、倉庫の薄汚れた壁に反響して消える。
拳を打ち込み、蹴りを差し込み、また間合いを取って——
レイチェルとの小競り合いは、もう何度目だったか。
お互い本気。手加減する余裕なんてない。だが、殺し合う気もない。
「……悪の組織は……」
またそれか。
こいつはいつだって、そればかりだ。
俺たちが“悪”かどうかなんて、どっちだっていいだろうに。
命のやり取りをしてる最中に正義を語られると、苛立ちよりも虚しさが先に立つ。
「クソ……フラフラする……」
ぐらりと揺れて、レイチェルの小さな身体が床に崩れ落ちた。
そのまま、動かない。
……終わったか。
俺はゆっくり息を吐き、手袋を拾い上げ、右手にはめ直した。
拳の関節がじんじんと熱い。こっちも限界だったんだな。
その場に腰を下ろし、倒れたレイチェルの顔をしばし見つめる。
(……死んじゃいないな。ただの気絶か)
荒く上下する肩。頬に浮いた薄い擦過傷。
呼吸のリズムが落ち着いてきている。とりあえず命に別状はない。
放っておけばいい。
こいつは俺を殺しに来た。
もし逆の立場だったら、間違いなくトドメを刺していただろう。
それが“正義”ってやつの皮を被ってる以上、ブレないのがこいつのいいところで……悪いところだ。
―—だが。
なぜかその夜、俺の足はその場を離れなかった。
殺す気はない。
だが助ける義理もない。
それでも、ほんの少しだけ目を離したら、こいつはそのまま二度と起き上がらないような気がした。
(……なんでだ)
そう思うと、つい小さく笑いが漏れた。
俺は、昔から“戦う意思のない女や子ども”には手を出さない。
どんな世界にいようと、それだけは絶対に守ってきた。
レイチェルは戦っていた——だが、どこかで知っていた。
こいつの中には、自分をすり減らしてでも「明日」を守ろうとする何かがある。
まるで、あの日の“俺”を見てるみたいでさ。
「……まったく。死ぬなよ、正義の味方」
あいにく、手持ちの荷物に傷薬も応急処置の道具もなかった。
血の滲んだシャツだけが、こいつが無茶をした証拠みたいに胸元に貼り付いている。
せいぜいできることといえば、倒れた少女を壁際に寝かせ、風が直に当たらないように段ボールと木箱で囲ってやる程度。
俺はそのまま、近くにあった木箱に腰を下ろした。
しばらく何もせず、ただ静かに——ただ静かに、彼女を見つめる。
拳を交えたのは、これで何度目だ?
イリュドに流れ着いてからずっと、レイチェルとやり合ってきたが、こうしてじっくり顔を眺めるのは初めてかもしれない。
……若いな。
俺よりも三つ、四つは年下か。
だが、戦い方は悪くなかった。どこで誰に教わったか知らんが、独学でここまでやってきたのなら大したもんだ。
とはいえ、俺もこいつの年齢にはもう構成員だった。
毎日が死と隣り合わせで、盗って、騙して、殺して、裏切って……
レイチェルと違って、俺は何も守るものがなかった。
——あの頃は、それでよかったと思ってた。
「……ん……」
微かに、彼女が声を漏らす。
その瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
「おい。立てるか?」
声をかけると、レイチェルは数秒、焦点の合わない目で俺を見たあと、はっと何かを思い出したように、いきなり身体を起こしかけた。
「ああああ、悪の組織は!」
ああ、これだ。
目が覚めてもまずそれ。戦闘態勢。思考が短絡的ってわけじゃない。
むしろ、筋が通りすぎていて、逆に不器用なんだ。
「黙ってろ」
軽く指先で彼女の額を小突き、水筒を一本投げて寄越す。
受け取りながらも、レイチェルは警戒を隠さなかった。
「は? お前たちの施しなんて要らない」
強がる声。けれど、喉が焼けるように乾いてるのは、顔を見ればすぐにわかる。
「施しじゃねぇよ。……普通に、喉、乾いてんだろ。飲めよ」
あくまで事務的に。あくまで「俺はお前に興味なんてない」という態度で。
だが、こいつは知る由もない。
俺がどれだけ、“明日を諦めるには若すぎる奴”を見捨ててこなかったかを。
レイチェルは警戒を解かぬまま、水筒のキャップをひねり、そっと中身の匂いを嗅いだ。
毒でも仕込まれてると思ってるんだろう。……まあ、正しい警戒だ。俺が逆の立場でもそうする。
それでも渇きのほうが勝ったらしい。
一口だけ含んで舌の上で転がしたあと、安全と判断したのか、勢いよくグビグビと飲み干した。
喉が鳴る音がやけに大きく響いた。
「……ほらな。やっぱり喉乾いてんじゃねえか」
俺がそう言うと、レイチェルはぷいと顔を背け、気まずそうに水筒を投げ返してきた。
俺はそれを片手で受け止め、軽く回して空っぽなのを確かめる。
「こ、今回は……今回だけだ。次はないからな」
悔しさを押し殺すような口調だったが、顔はすっかり火照ってる。
ああ、素直じゃないやつほど厄介だ。
「はいはい。そうだな。……じゃあ今日は引き分けってことでどうだ?」
「……!」
レイチェルの目がカッと見開かれる。
「誰も血を流す必要はない。命を取り合うのはまた今度だ」
「今日は帰ってやる。だが……次は壊滅させるからな。悪の組織は根絶やしにする」
「何度でもかかってこい。組織を潰したいなら、まずは“倉庫番”の俺を倒すんだな」
そう言って立ち上がり、倉庫の鉄扉に背を向ける。
レイチェルが追ってこないことは、わかっていた。
追ってこられないほど、ダメージは蓄積してる。だけどそれだけじゃない。
あの目には、悔しさだけじゃなく……まだ言葉にならない葛藤みたいなものが見えていた。
そのうちまた来るだろう。
何度でも、噛みつくように。壊れそうなほど真っ直ぐに。
だから——
「……元気でいろよ、正義の味方」
誰にも聞こえないように、独りごちて俺は夜の倉庫街をあとにした。
*
アジトに戻った俺は、扉を閉める間もなく呼び出された。
落ち着く暇もないのはいつものことだ。
「《ウェアハウザー》、やけに遅かったな」
兄貴分が椅子にもたれ、くわえ煙草のまま俺を見上げていた。
俺は無言で近づき、ポケットから火を取り出してその先端に差し出す。
チリ、と音がして火が移る。これがこの世界での礼儀だ。
「ええ。あいつ、異様にタフでして。今日も、惜しいとこで逃げられました」
「本当に、毎度毎度……いつか殺してやるさ」
吐き出された煙の向こうで、兄貴の額に青筋が浮かぶのがわかる。
無理もない。あの正義バカは、ことあるごとに組織の取引を潰して回っている。
目障りなだけじゃなく、実害も大きい。
「……で、呼び出しってのは、そっちの件ですか?」
「いや、別の仕事だ」
兄貴はテーブルの引き出しから、小さく折りたたまれた紙を一枚、二本の指で摘まんで俺に差し出す。
俺はそれを受け取り、丁寧に広げた。
「……女?」
一見して若い女だ。水色の髪が肩にかかるくらいの長さで、清潔そうな身なりをしている。
どこか高貴な雰囲気がある。生まれか、育ちか——たぶん両方だろう。
「そいつを、誘拐してこいとさ」
「誘拐? ……ってことは、何かやらかしたんですか?」
「やらかしたのは本人じゃねぇ。親父だ」
兄貴は煙を吐きながら、あっさり言った。
「ノイマン商会。あの女の親父が、組織とのパイプ役だった。……が、騎士団にマークされててよ。先週、捕まりやがった」
「パイプ役……」
なるほどな。
情報を流す裏ルートの仲介者か。あの規模の商会なら、商品の仕入れや相場操作、抜け道の確保といった“便利な仕事”も腐るほどある。
組織としては重宝してたはずだ。
でも——
「それで、なぜこの娘を誘拐する必要が?」
俺は写真の女をもう一度見た。
背後に写った看板からして、撮られたのはトラヴィスの裏通りか。
つまり、すでにマーク済みというわけだ。
だが、疑問は消えない。
「本人はシロだろう。人質か?」
兄貴は煙をふっと吹き出して笑う。
「いや、パイプの穴埋めよ。親父の代わりに、娘を使う。そういう話さ」
「……冗談だろ」
「向こうの頭は本気だよ。血縁なら利用価値もあるってな。まあ、口が堅けりゃ使えるだろ」
兄貴は煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。
「お前にしか任せられねえ。連れてこい、《ウェアハウザー》」
俺は一つ息を吐いて、折りたたんだ写真を胸ポケットに仕舞った。
胸の奥に、わずかな違和感が残る。
ただの仕事だ。……そういうことにしておく。
無実の女を拉致する。
その一文を、心の中でゆっくり反芻してみた。
やっぱりどうにも、喉の奥に小骨が引っかかったような気分になる。
けど、それでも俺は頷いた。
これが、今の俺の“正しい”身の振り方だ。
「……すぐに見つけます」
そう言いかけて、ふと思い出したように尋ねる。
「そうだ、女の名は?」
「ミリアだ。ミリア・ウォルター」
ミリア。
名前の響きだけじゃ、どんな女か想像もつかない。
写真では大人しそうに見えたが、案外芯の強いタイプかもしれない。
だが、どちらでも構わない。任務に感情を挟む余地はない。
俺は軽く片手を挙げて踵を返し、そのままアジトを出た。
昼間の熱気がわずかに残る裏路地の空気が、妙に肌にまとわりつく。
——まったく、どうしてこうも、女に振り回されるんだか。
苦笑いが喉までこみ上げたが、顔には出さない。
足取りはただ冷静に、次の仕事に向かって進んでいた。