変わりゆく声
濡れた通路を抜けた先に、空間が広がっていた。崩れかけた柱と染みだらけの石壁に囲まれた地下の広間──かつて礼拝堂の聖域だったその場所は、ひんやりとした空気に満ちていた。
中央には朽ちた祭壇。そして、その前に一人の人物が立っていた。
黒髪のポニーテール、泥と血に染まったタンクトップの背中。少し痩せたように見えるその姿を、シャムスは一目で認識した。
「……クレム!?」
その名を口にすると、彼女はゆっくりと振り返った。
顔はやつれていたが、間違いなくクレメンタイン・ハミルトンだった。
だが、その目の奥には、何か深い影が宿っていた。
「……シャムス?」
彼女の声は確かに聞き覚えのあるものだったが、どこか迷いを帯びていた。
「無事だったのか……クレム。何があったんだ」
シャムスが駆け寄ろうとした瞬間、クレメンタインは手を挙げて制した。
「待って。ここは……まだ安全じゃない」
その視線は広間の奥を見据えていた。
後ろでリナナが顔を覗かせる。
「クレメンタイン……会えてよかった……!」
彼女はリナナに小さくうなずいた。
「大丈夫。私は生きてる……でも、前と同じじゃないの」
シャムスが眉をひそめた。
「どういう意味だ。何を見た」
クレメンタインは答えず、祭壇の裏へと歩いた。そこには古びた石板があり、その表面にはぎっしりと文字が刻まれている。
リナナが懐中電灯を照らす。
「これ……見たことある。小屋で見つけたノートに、同じ文様が描かれてたの。村の子どもたちが描いたって……多分、ずっと前に」
「ノート?」
「数日前、あの納屋の奥で拾ったの。埃まみれだったけど、たぶん昔の住人が残した記録よ。ずっと読んでたけど、やっと意味がわかってきた気がする」
リナナがノートを取り出し、震える手で最後のページを開いた。
「“影は心の罪より生まれ、核により縛られ、欲によって増殖す。されど心残る者あらば、光により還る道あり”……って書いてある」
「核に縛られてる……ってことは、あの時、俺が撃った影の“中心”……」
シャムスは思い出す。あのときだけ、銃弾が確かに効いていた。
「そういうことだったのか」
クレメンタインが続けた。
「この村の人たち、影に飲まれた。でも全部が消えたわけじゃない。中には、自分の意思を残したまま影と共にある人もいる。そうすれば、影は“自分”に従うの」
「じゃあ……影を制御してるのか?」
「制御というより……共存、かな。でもそれには代償がいる。時間が経てば、心が侵食されて、いずれ“本物の影”になってしまう」
クレメンタインは袖をまくり、手首を見せた。そこには、黒い筋が浮かび上がっていた。
「私……ソフィを追って、この地下で“核”に触れた。そしたら……影が、少しだけ入ってきた」
「……!」
リナナが小さな声で叫んだ。
「でも!まだ大丈夫なんでしょ?クレメンタインは私たちのこと、覚えてる!」
クレメンタインが優しく微笑む。
「うん。でも……もう長くはない。だから……」
彼女が懐から、細い鎖のついたペンダントを取り出す。それはソフィからもらった十字架のものだった。
「これが……ソフィの“心”なら。何か……変えられるかもしれない」
その瞬間、通路の奥から異様な唸り声が響いた。
ぐにゃりと空間が歪み、石壁を突き破って黒い“影”が姿を現した。
「来た……!」
クレメンタインの顔が強張る。
「たぶん私を止めに来た。影に“裏切り”の意思が伝わったのかもしれない」
「なら──守るだけだ」
シャムスが銃を構え、リナナを背にかばう。
影が咆哮と共に迫ってきた。咄嗟にリナナを抱きかかえ、石柱の影に飛び込む。
すぐ傍を影の腕のようなものが叩きつけ、床が粉々に砕けた。
「クレム、目だ!中心を狙え!」
「分かってる!」
クレメンタインは跳躍し、影の腹部に銀色のナイフを突き立てた。黒い霧が立ち昇る。
シャムスがその隙を見て銃を撃つ。銃声とともに、中心部が白く火花を散らした。
「効いてる!」
影が呻き、膝をついた。クレメンタインは一気に距離を詰め、胸のペンダントを“核”に突き立てる。
石の祭壇が光を帯びる。その中心で、影が震え始めた。
「お願い……ソフィ、まだそこにいるなら……!」
光が広がり、黒い塊が崩れ落ちた。崩れゆく影の中から、ひとつの小さな“人影”が立ち昇り、そして消えた。
静寂が戻る。
シャムスがゆっくりと銃を下ろした。
「やったのか……」
クレメンタインは肩で息をしながら、小さくうなずいた。
「核に“心”が残ってた……ソフィの、声が聞こえた気がした」
リナナが駆け寄り、クレメンタインの手を握る。
「私たちがいるから。絶対に、戻れるようにするから」
クレメンタインの瞳が揺れた。
「……ありがとう」
三人の間に、確かな光が灯った。
だがその先には、まださらなる“根源”が眠っている。エルムレイクのすべての影を生み出した、本当の災いが──。