クレメンタインの痕跡
地下広間を抜けた先の通路は、急に冷たさを増した。石壁の表面にはひびが走り、どこからか水が染み出している。
リナナが濡れた床に足を滑らせそうになり、シャムスがとっさに腕を伸ばして支えた。
「大丈夫か」
「うん、ありがと……」
リナナの頬がわずかに赤くなる。だが、それに気づいたのか気づかないふりか、シャムスは前を向いたまま歩を進めた。
やがて通路は左右に分かれた。右は崩れて瓦礫で塞がれている。左には、古びた扉がひとつ。木の板が重ねられた簡素な造りで、鉄の取っ手には手の跡のような泥がこびりついていた。
シャムスが慎重に開ける。軋んだ音とともに、扉の向こうに小部屋が現れた。
その中央に、見慣れたものが落ちていた。
「……これは」
床に散らばっていたのは、黒革のノートだった。
シャムスはそれを拾い、埃を払ってページをめくった。
見覚えのある筆跡。几帳面で、でもどこか強引な字。
──クレメンタイン・ハミルトンの手による記録だった。
《7月4日》
私は“それ”を見た。霧の奥に立つ、黒い影。最初は気のせいかと思ったけれど、声が、した。
《7月5日》
村の人は皆、それを知っている。知っていて、隠している。
《7月6日》
私の友達、ソフィの名前を聞いた老人が震えた。彼女も、影を見たのか。
《7月7日》
礼拝堂の地下に入る。影はここで、かつて“人”だった何かに変わった。
私はそれを確かめる必要がある。彼女は、きっとまだ……
──ごめん、シャムス。あなたを巻き込むわけには──
「クレム……」
ノートの最後のページに書かれていたのは、破かれた文字と、かすかな血痕だった。まるで書いている途中で何かに襲われたかのように、筆跡はそこで止まっていた。
リナナが、床の隅に落ちた銀の弾薬筒を見つけた。
「これ、シャムスのと同じ……?」
「いや、違う。俺のはもっと軽い。これは、軍用だな。クレムが持ってたやつか……」
「じゃあ、クレメンタインはここに来てたんだね。影と、接触してたかも……」
シャムスは唇を噛んだ。ノートの端に、書きかけの文字が見える。
“人に戻す方法が、あるかもしれな──”
「……戻す方法?」
影を“倒す”のではなく、“戻す”。
その一文に、シャムスは頭を抱えた。自分が撃ったあの影も、もしかしたら、誰かだったのかもしれない。村で消えた誰か。彼女の友人だった可能性もある。
「シャムス……どうするの?」
リナナの声が小さく響く。
「もし、あの影が人だったら……殺したら、もう戻れないよ」
沈黙。長い、重たい沈黙が落ちる。だがその中で、シャムスはゆっくりと顔を上げた。
「だったら、やれることをやる。戻せるなら戻す。できなきゃ、倒す。それだけだ」
短いが、真っ直ぐな答えだった。
リナナはその横顔を見て、ふっと息をついた。
「……うん。やっぱり、シャムスはそう言うと思った」
そのとき、通路の奥から、かすかな音が聞こえた。
──コツ、コツ、コツ。
足音。人間のようで、だが何かが濡れた石を引きずるような、不快な響き。
「来るぞ……!」
シャムスは銃を構えた。リナナはノートを抱きしめる。
まだこの地下の奥には、影がいる。だが、その先に――クレメンタインがいるかもしれない。
そして彼女が何を見て、何を選ぼうとしているのか。その真実が、近づいていた。