沈んだ礼拝堂
朝になっても霧は晴れなかった。灰色の雲が空一面を覆い、どこか遠くでカラスの声が低く響いていた。
小屋の窓から外をうかがい、シャムスは静かに言った。
「行ける。今のうちだ」
リナナは無言でうなずいた。
昨夜の話の中で、村の外れに埋もれた礼拝堂こそが、影の正体と村の異変に関係している場所だと知った。そこには、地下へと続く隠された通路があるという。
森を抜ける途中、二人の足取りは重かった。濡れた落ち葉がぬかるみをつくり、足音を呑み込む。村の北端に差し掛かると、朽ちかけた石造りの建物が姿を現した。地面に半ば埋もれ、まるで何かに沈められたような形をしている。
「ここが礼拝堂……?」
「うん。上はもう崩れたけど、地下の通路はまだ生きてる」
建物の裏手、リナナが茂みをかき分けると、古びた鉄の扉が斜面に張りついていた。土と苔に覆われ、取っ手の部分は錆びついている。
シャムスは腰の懐中電灯を構えた。
「中は暗いな。俺が先に入る。くれぐれも、俺の後ろから離れるなよ」
「わかった」
鉄の扉をきしませて開けると、濃密な冷気が二人を包んだ。石の階段が地下へと続いている。壁には苔がこびりつき、ところどころ亀裂が入っていた。空気は重く、腐敗と湿気が入り混じったような臭いがした。
数段降りたとき、不意に“パチン”という音がした。乾いた音が、沈黙を裂くように響く。
「止まれ。……何かいる」
シャムスが立ち止まった瞬間、奥の闇の中に人影のようなものが浮かび上がった。だがそれは“人”ではなかった。
黒く、霧のようで、輪郭が曖昧な影。その中央に空洞のような“目”が開いていた。
「リナナ、伏せろ!」
シャムスは咄嗟にリナナを背中にかばい、銃を抜いて影に向けて発砲した。
乾いた銃声が洞窟に響き、火花が飛ぶ。だが、弾は影をすり抜け、何の手応えも残さなかった。
「やっぱり効かないか……!」
影は滑るように空間を歪め、天井を伝って急接近してくる。シャムスはリナナの手を引いて階段を駆け下りた。だが背後から伸びてきた影の腕のようなものが、シャムスの右肩にかすかに触れた。
「っ……!」
皮膚が焼けるような痛みが走り、シャツが裂けた。振り払うように肩をひねり、再び銃を放つ。
弾丸が闇の中に消えるたび、一瞬だけ影の輪郭が薄れる。
「動きが……速い」
リナナが叫ぶ。
「右!壁に抜け道がある!」
シャムスはそちらに目をやると、錆びた金属製のハッチのような扉が見えた。
「よし、そこに逃げろ!」
「でも、シャムスは!」
「いいから行けって!」
リナナが駆け出すのを確認し、シャムスはその場に踏みとどまり、影の目前に銃を突き出して引き金を引いた。
閃光が影の中心を貫いた瞬間、影が大きくのけ反った。今までになく、明確に“痛み”を感じたようだった。
「ようやく効いたか……!」
その隙を突いて、シャムスは扉へ走り、リナナの背後に滑り込んだ。ドアを閉じて閂をかけると、背後で鉄を引っかくような音が響き、何かが外から扉を叩いていた。
二人は壁際に倒れ込んだ。
リナナが、息を切らしながら震えた声で言った。
「ごめん……私、私のせいで、シャムスが……」
「違う。キミのせいじゃない」
シャムスは肩を押さえながら、それでもリナナの顔をしっかり見て言った。
「俺が勝手にやってるんだ。気にしなくていい」
リナナはしばらく黙っていたが、やがて彼の袖をつまむように握りしめた。
「ありがとう……私、こんなふうに誰かに守ってもらったの、初めて」
「そりゃ驚きだな。俺なんかでいいのか?」
「うん。シャムスがいてくれたから、怖くても、走れた。……ありがとう」
その小さな言葉に、シャムスは微かに口元をゆるめた。緊張に張りつめていた体から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「本当にありがとう、シャムス……私もう一人じゃないって思える」
シャムスはそれを聞いて、小さく笑った。
「いいんだよ。俺がいる」
笑ったリナナの顔には、わずかながら安堵の色が差していた。
鉄の扉の向こうでは、影がまだ蠢いていた。
だが今だけは、静かな時間が二人を包んでいた。