クレムの影
エルムレイクの夜は、静寂の中に異様な緊張感が漂っていた。
シャムスはリナナに案内され、村の北端にある古びた墓地へと足を踏み入れた。
「ここが、クレメンタインさんが最後に向かった場所……」
リナナの声は、夜の空気に溶け込むように小さく響いた。
墓地の中央には、朽ちた石碑が立ち並び、その周囲には雑草が生い茂っている。
シャムスは足元に目をやり、泥にまみれた髪留めを見つけた。
「これは……クレムの……」
彼はそれを手に取り、じっと見つめた。
黒髪のポニーテールを束ねていた、彼女の愛用品。
その瞬間、背後から冷たい風が吹き抜け、シャムスは身震いした。
「リナナ、ここは危険だ。戻ろう」
リナナは首を横に振った。
「影が来る前に、真実を知ってほしいの」
その言葉と同時に、墓地の奥から不気味な音が響いた。
シャムスは即座に腰のホルスターから銃を抜き、音のする方向に構えた。
「……誰だ!」
声を張り上げたが、返事はない。
重い沈黙。だが、風もないのに木の葉がざわりと揺れ、地面に落ちた枯れ枝がぱきりと音を立てて折れた。
何かがいる——確かに、そこに“何か”が。
目を凝らして闇を見つめた。懐中電灯の細い光が木々の影を引きずり出し、歪な輪郭を作っていく。
そのときだった。
一瞬、確かに見えた。
木と木のあいだ、霧が立ちこめる奥に、人のような、けれど“人ではない”細長い影が、こちらを見ていた。
黒く、ぼやけた輪郭。顔は見えない。ただ、その“存在”だけが空間を濁していた。
「……なんだ、あれ」
額に汗がにじんだ。銃を構える手がほんの少し震える。
シャムスは自分の動揺に気づいて、すぐに歯を食いしばった。
「落ち着け……ただの人影だ。たぶん、見間違いだ」
だが心のどこかで、そうでないことを知っていた。
あれは、“人間”じゃない。
後ろでリナナが小さくつぶやいた。
「……影、来ちゃった」
「リナナ、後ろに下がれ」
彼は目を凝らした。懐中電灯の光の先、霧が濃く漂う中に、不自然な“穴”のような影が見えた。
人の形をしているが、輪郭がにじんでいる。頭がどこで胴体がどこなのか、判然としない。
ただ、一つだけ確かだった。
それはこっちを見ている。
「クソッ……!」
シャムスは一歩後ずさった。
そのとき、影が動いた。音もなく滑るように接近し、まるで地面から伸びる煙のように、足元に絡みついてきた。
「うわっ!」
彼はとっさに銃を撃った。鋭い発砲音が夜の静寂を裂いた。
だが、影は怯む様子もない。
弾は確かに命中したはずなのに、まるで霧を撃ったかのように空を切るだけだった。
「効かないのかよ……!」
リナナが叫んだ。
「シャムス、早く!あそこ、小屋がある!」
シャムスはリナナの腕を掴み、振り返って全速力で駆け出した。背後では、影がずるりと這う音が迫る。ぬるり、ぬるりと地面を這う粘着質な音。そのたびに空気が重くなり、肺に入る息さえ冷たく感じられる。
シャムスは肩で小屋の扉を突き破るように押し開け、中へ飛び込んだ。
「入れ!」
リナナが滑り込んだ瞬間、シャムスは扉を閉めて内側のボルトをかけた。
壁の外で何かがぶつかった。木板が軋み、ドアがわずかに震える。影はそこまで来ていた。
「くそっ……」
シャムスは息を荒げながら、リナナの無事を確認した。彼女は床に座り込んでいたが、しっかりと彼を見上げていた。
「今のが……影か」
「そう。あれが人を連れていくの。私、何度も見た」
「クレムも、あれを追っていたのか」
彼はポケットから髪留めを取り出し、そっと握りしめた。黒髪を束ねていた、見慣れたもの。
彼女が、あんなものに近づいていたという事実が、喉の奥を冷たく締め付けた。
「無事でいてくれよ、クレム……」
外は静まり返っている。だが、その静けさがかえって不気味だった。
影が去ったのか、それとも扉一枚隔てた向こうに潜んでいるのか、それすらわからなかった。