黒い波動
湖畔の空気は澄んでいたが、その静けさの奥に、ひどく不穏なものが混じっていた。
シャムスは耳を澄ませる。風に混じるように、低く唸るような音が森の奥から響いてくる。
「……聞こえるか?」
クレメンタインが眉をひそめて首を振る。
だがリナナは顔をこわばらせ、小さく頷いた。
「……あの音、影の声だ。まだ……呼び合ってる」
シャムスは膝に手をつきながら立ち上がった。右腕の痛みはまだ鋭く、全身の疲労も抜けていない。
それでも、このまま放置すればまた村や人々が危険にさらされることは分かっていた。
「……場所は分かるか?」
リナナはナイフを胸元に握りながら、湖の北を指差した。
「森の奥、もっと……ずっと奥。たぶん山のふもと。影の“核”がまだ動いてる」
クレメンタインが息を呑む。
「ってことは……あれを潰さなきゃ終わらないってことだね」
「そうだ」
シャムスは短く答えると、深く息を吐いた。
「だが今の俺じゃ……まともに戦えるかどうか」
「だったら、私が前に出る」
クレメンタインはきっぱりと言い放った。その黒いポニーテールが風に揺れる。
「私が斬って、シャムスは援護して。リナナは……」
そこで言葉を切り、少しだけ笑ってみせた。
「シャムスを守って」
リナナは一瞬驚いたような顔をし、それから小さく頷いた。
「うん。今度は……私が守る」
シャムスは二人の言葉を聞き、少しだけ苦笑した。
「……なんか立場が逆になってきたな」
「たまには守られる側も悪くないでしょ」
クレメンタインが肩をすくめる。
湖面から反射した朝の光が、三人の顔を白く照らしていた。
その背後で、森の奥から黒い靄のようなものが、うっすらと立ちのぼっている。
休息は、もう終わりだ。
影の“核”を潰すため、三人は再び森へと足を踏み入れた。
森は、朝日を遮るほどの密度で生い茂っていた。
枝葉の間からわずかに差し込む光は、霧に飲まれ、灰色にくすんでいる。
シャムスは右腕の痛みをかばいながらも、足を止めなかった。
後ろからリナナが、彼の動きにぴたりと合わせてついてくる。
その小さな手には、渡されたポケットナイフ──シャムスの父の形見が、しっかりと握られていた。
やがて、空気が変わった。
湿った土の匂いの奥に、鉄錆のような匂いが混じる。
クレメンタインが前方を制し、低く呟く。
「……来る」
次の瞬間、黒い影が木々の間から溢れ出した。
靄のように揺れながらも、その輪郭は獣のように歪んでいる。
「リナナ、後ろ!」
シャムスが叫び、右手の銃を抜く。
だが影は散開し、左右から包み込むように迫ってくる。
クレメンタインが剣を振り抜くたび、影の形が一瞬だけ薄れる。
だが完全には消えない。
──この動き、核が近い証拠だ。
「奥だ!」
シャムスが叫び、木々の合間を駆け抜ける。
影は後方から、音もなく追ってくる。
開けた場所に飛び出した瞬間、視界の中心に黒い塊があった。
半透明の球状で、内部に渦巻く闇が脈動している。
──影の核。
だが、核の周囲には異様に濃い影が渦を巻いていた。
まるで自らを守るように、幾重にも壁を作っている。
クレメンタインが構えを取る。
「正面突破しかなさそうね」
「……あぁ」
シャムスは短く返すと、後ろを振り返り、リナナの肩に手を置いた。
「これを持ってろ」
そう言って、ポケットナイフを彼女の手に強く握らせる。
リナナが驚いたように顔を上げる。
「でも……」
「親父がきっとお前を守ってくれる」
その言葉とともに、シャムスは微かに笑った。
次の瞬間、影の壁が唸りを上げて襲いかかってきた。
戦いが、始まった。