夜明けの境界
湿った空気の中、しんと静まり返った廃墟に、火がひとつ灯っていた。
小さな焚き火の前に三人が集まり、身を寄せ合っている。赤黒く染まった床には、かろうじて消毒と止血を終えたシャムスが、寝袋代わりの毛布にくるまっていた。
「……痛ぇ……背中ってのはな、何かにつけて動くんだよ……」
呻きながらそう言うシャムスに、クレメンタインがタオルで額の汗を拭いてやっていた。
「よく喋れるわね。その傷で」
「喋らなきゃ気絶するからな。そういうもんだろ……」
彼は薄く笑ったが、その顔色はひどく青白かった。
それでも、強がるように瞳はしっかりとクレメンタインを捉えていた。
「……あんた、無茶しすぎ」
彼女はぽつりと呟いた。
「一人で全部背負おうとしないでよ。私も戦えるんだから」
「戦ってたろ。俺が止め刺せたのは、お前のおかげだ」
「そういうことじゃなくて……!」
言いかけたその先の言葉を、クレメンタインは飲み込んだ。
口元をぎゅっと引き結ぶと、タオルを乱暴にシャムスの顔に乗せた。
「……汗かいてんだから、黙ってなさい。ほんと、うるさい」
「ありがとよ。……クレム」
その言葉だけは、彼女も否定しなかった。
焚き火の隣で、リナナは黙って座っていた。
膝を抱え、小さな胸元には例のポケットナイフがしっかりと抱かれている。
「リナナ……」
シャムスが彼女に声をかけると、彼女は顔を上げて小さく微笑んだ。
「ちゃんと、守ってるよ。これ」
「……ああ。お前のもんだ。お前が、それを守ってるかぎり……きっと大丈夫だ」
「うん。……でも、聞いてほしいことがあるの」
リナナの声が、静かな夜を裂いた。
「まだ……あの“根”みたいなの、残ってるの。もっと奥に。もっと……古いやつが」
焚き火の音が一瞬だけ大きくなったように感じた。
クレメンタインが反応する。
「どういうこと?あの化け物がボスじゃなかったの?」
「違うの。あれは、呼び水。たくさんの影を繋ぐための“口”だっただけ。もっと深いところに……“核の根”があるの」
彼女の目は、まっすぐだった。
怯えはあったが、言葉を濁さなかった。
「そこには……“彼女”がいる。私を、私だと思ってた、あの人が」
沈黙が落ちた。
シャムスが、薄く目を閉じた。
「“彼女”ってのは……」
「ママじゃない。でも、ママに似てた。……もしかしたら、ママの影だったのかも」
クレメンタインが息をのむ。リナナの言っている意味は、もはや常識の枠を超えていた。
「影は、元は人間だったって話だったけど……まさか、家族まで」
「ううん。違うの。ママは……もう死んでる。
でも、その人は、死んだママの姿で“私に優しくしようとした”。それが、もっと怖かった」
リナナの声は震えていた。
だが、恐怖だけではなかった。怒りと、悲しみが混ざっていた。
「だから、行かなきゃいけない。そこに」
「……!」
シャムスがゆっくりと顔を上げた。
「ふざけんな。お前一人で行ける場所じゃねぇ」
「私しか、場所を知らない」
「それでも、行かせるかよ」
シャムスは無理やり身体を起こそうとし、再び呻き声を漏らした。
クレメンタインが慌てて肩を押さえる。
「動かないでって言ったでしょ!」
「……だけどよ、クレム。あいつが一人であんな場所に行ったら、絶対に帰ってこねえ」
「分かってる!でも……だからって、今行くのは無理よ……!」
リナナはふたりのやりとりを黙って聞いていた。
そして、そっと言った。
「……夜が明けたら、案内する。
でも、その前に、シャムスは休んで。ね?」
シャムスはリナナの目を見て、しばらく黙っていた。
そして、力が抜けたようにうなずいた。
「……分かった。夜が明けたら、地獄の奥まで付き合ってやるよ」
「……うん」
リナナは笑った。
その手には、折れたポケットナイフが光っていた。