影の心臓〜前編〜
夜が、完全に死んだ。
丘の上、石の聖域を取り囲むようにして広がる黒い霧の中心から、それは現れた。
影の核——この村の呪いそのもの。人の形を模した異形は、全身を煤けた黒に染め、中心に心臓のように脈打つ赤い輝きを宿していた。
「なんて大きさ……!」
クレメンタインが喉を詰まらせる。
影は、木々を薙ぎ倒しながら姿を現し、空に向かって咆哮のような音を上げた。声ではない。
それは、生きてはいないものが放つ、ただの“怒りの振動”だった。
「リナナ、逃げろ。少しでも遠くへ!」
シャムスが叫び、リナナを振り返る。しかし彼女は、首を横に振った。
「私も行く。あれは……私の、ママを喰った“何か”」
小さな手が震えながらも、目は恐怖に負けていなかった。
「……わかった。でも、俺とクレムの指示には必ず従え」
そう言って、シャムスは一歩前へ出た。
影が動いた。鋭利な触手のような腕を振り下ろし、三人に襲いかかる。
「シャムス、来る!」
クレメンタインが叫び、シャムスはリナナを背にかばうようにして転がった。地面が抉れ、土煙が舞う。
「クソ……!」
シャムスは銃を構え、躊躇なく引き金を引いた。銃声が闇に響く。だが、弾は表面をかすめ、霧のように飲まれた。
「通らねぇ……!」
クレメンタインが駆け出す。ナイフを逆手に握り、影の横腹へ飛び込んだ。
「クレム、待て!」
「これ以上、守られてるだけじゃ気が済まないのよ!」
彼女の動きは鋭かった。影の脚部を走りながら駆け上り、何度もナイフを突き立てる。
しかし、傷が癒える速度の方が速い。影が咆哮し、腕を振るった。
クレメンタインの体が吹き飛ばされた。
「クレム!」
シャムスが叫び、走る。クレメンタインの体は地面を滑り、岩に叩きつけられる寸前で、彼がその身を盾にして受け止めた。
——ドガッ!
重い音とともに、シャムスの背中に鈍痛が走った。
肺が潰れるような感覚に歯を食いしばる。
「……だ、大丈夫?」
クレメンタインが見上げる。血が滲んだシャツ、歪んだ呼吸。
「ああ……問題ない」
無理やり笑ったその顔に、クレメンタインの胸が締めつけられた。
「……ごめん、私が無茶したから」
「そんなの今更だろ」
影が再び動いた。今度は、真っ直ぐ彼らを見下ろしながら。
赤い“目”が、まるで感情を持ったかのように、燃え上がる。
シャムスは、痛む体に鞭を打ち、立ち上がった。
「クレム、立てるか」
「当たり前よ」
「リナナ、俺たちが隙を作る。その間に、あいつの中心を探してくれ。必ず、核があるはずだ。礼拝堂の影と同じように」
「うん……私、やってみる!」
影が動いた。巨大な腕を振りかぶり、再び叩き潰そうとする。
シャムスは銃を構えた。クレメンタインはナイフを抜き直した。
「死ぬ気で行くぞ!」
「殺る気で行くわ!」
——咆哮とともに、戦いが再開される。
影の中心に迫る、絶望的な闘いの幕が、再び上がった。