プロローグ
森の空気は、肺の奥までじっとりと冷たかった。
クレメンタインは、縮こまる肩に手をあてながら、泥まみれの山道を慎重に踏み進める。額に貼りついた前髪を払うたび、ぬかるんだ土の感触が靴の裏にまとわりついた。
これが最後の道だ。
彼女はそう確信していた。
ジャケットの内ポケットに入れた紙が、ごわりと衣擦れの音を立てる。
クレメンタインは立ち止まり、それを取り出した。くしゃくしゃになった便箋。何十回も読み返した手紙には、友人ソフィの乱れた筆跡が残されている。
『クレムへ。もし私の声が聞こえるなら、エルムレイクに来て。
……“あの人たち”に気づかれないように。夜に動く、“影”に気をつけて』
"影”? “あの人たち”?
最初は悪戯かとも思った。けれど、ソフィの文字は間違いなく本物だった。
それに——彼女の声がまだ耳に残っている。冗談を言うときの笑い声、泣きじゃくるような不安げな声。
クレメンタインは手紙を握りしめると、無言で前を見据えた。
「ソフィ……。あんた、何に巻き込まれてんのよ」
風が木々を揺らし、ぱちぱちと枝がはじける音が響く。まるで誰かが近くで歩いているような錯覚。
クレメンタインは肩越しに素早く振り返る。誰もいない。ただ風と、夕暮れに染まる林だけがそこにあった。
「気のせい。気のせい……じゃなかったら、どうするってのよ」
ひとりごとをつぶやきながら、歩を進める。
皮肉屋の幼馴染——シャムスなら、こんなとききっとこう言うだろう。
『お前、ホラー映画の脇役ムーブしてるぞ。真っ先に死ぬタイプだな』
彼女は、自嘲気味に鼻で笑った。
「……うるさいな、シャムス」
そう呟いたときだった。背後で、がさっと乾いた音がした。
彼女は息を呑み、即座に身を翻した。音の方向を睨みつける。だが、そこには何もいない。
風のせい? 動物?
けれど、何かがおかしい。空気の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。
——ひんやりしているのに、じっとりと重い。
息を殺し、森の奥へ目を凝らす。何も見えない。それでも、“何か”の気配だけが残っていた。
肌に刺さるような、得体の知れない
——やっぱり、ここは普通じゃない。
背中を押されるような感覚とともに、彼女は歩みを速める。
ほどなくして、木々の隙間から、わずかに光る人家の明かりが見えた。
そこには、道を挟んで並ぶ古びた家々。ランタンの灯りが揺れ、白い煙がどこかの煙突から細く立ち上っている。
この世の片隅に隠れるように——エルムレイク村が、そこにあった。
クレメンタインは深く息を吸った。震える指先をジャケットの袖に隠しながら、低くつぶやいた。
「行くよ、ソフィ。今度は私が、あんたを助ける番よ」
翌朝。
村の住人のひとりが、井戸のそばで泥まみれのジャケットを拾った。
それは袖が裂け、血のような黒い染みが乾いていた。
クレメンタイン・ハミルトン。その名を知る者は、村にはもう誰もいなかった。