1話
――2026年。
世界は二十年前とは大きく変わっていた。2005年から始まった「ダンジョン顕現」という異常現象により、地球上のあちこちに亀裂や穴が開き、そこから異世界とも言える空間が出現するようになったのだ。内部には未知の生態系が存在し、モンスターと呼ばれる危険生物が棲息。時として外界へ流出し、人的被害をもたらすため、政府は顕現地点の周辺に厳重な警戒区域を設定している。
日本政府は内閣府ダンジョン対策本部を中心に、国土交通省ダンジョン管理局(DMK)などの専門部署を設置して対応にあたっていた。顕現地点の周辺には立入規制をかけ、必要に応じてモンスター討伐や安全確保を行うために日本冒険者協会(JAA)に所属する冒険者を活用している。
一方で、ダンジョンから産出される魔晶核や魔力結晶といった希少資源は、新エネルギー源として注目を集めていた。大型プラントや研究機関では一定の実用化が進みつつあり、インフラ関連のコストは徐々に安定・低下傾向にあった。
しかし、ダンジョン関連の資源はインフラか研究開発、軍事関連に回ることが多く、一般に出回ることは少ないし、市民が入手して役に立つものも多くないので、一般市民の生活はそこまで大きく変化していない。というわけで食品や日用品の物価が劇的に下がるようなことはないが、ダンジョン関連のニュースが日々メディアを賑わせている。特に冒険者たちの活躍は連日報道され、モンスターの襲撃から市民を守った英雄として持ち上げられることも多い。
僕は十四歳のとき――2019年の秋に、大阪・門真の住宅街に突如顕現したダンジョンに巻き込まれた。あの日、住宅密集地に突然開いた亀裂からゴブリンが大量に流出し、一帯は一夜にして地獄と化した。僕の両親を含め、多くの犠牲者を出した日本でもトップクラスの大惨事だ。今では地下鉄工事用地を利用した迂回路が整備され、全国的に顕現をいち早く察知するための検知システムも設置されているというが、あの日の記憶は今でも鮮明に残っている。あれ以来、忘れた日は本当にただの一度たりともない。
今日も、曇天だった。
灰色の雲が重く垂れこめ、明るさをすっかり奪っている。東京の秋は本来もう少し冷たい風が吹くはずなのに、どこか蒸し暑い生温い空気がまとわりついていた。
帝科大の正門を出た僕は、ふと足を止め、どこか虚ろな気分で空を見上げる。わざとらしく揺れた雲が、まるで不機嫌そうに唸っているように思えるのは気のせいかもしれない。時刻は午後四時過ぎ。だけどこの灰色の空の下では、もう夕暮れ時のような薄暗さだ。
「……もうちょっと明るくならないかな」
独り言を呟いたところで、当然ながら空模様は変わらない。相変わらず雲は分厚く、視界の端にちらりと高層ビルが見えるだけ。道ゆく人々は大半がスマホを見たり、誰かと談笑したりしていて、僕の存在など眼中にないようだ。
それでも僕は、小さく息を吐いて歩みを再開する。大学から駅までは徒歩十分ほど。特段大した距離じゃないのに、今日はやたらと遠く感じる。
――
帝科大。東京都内に本部を置く私立の総合大学だ。僕――小林月斗――はその情報工学部に籍を置く三年生で、年齢は二十一歳。
だが、正直な所大してやる気はなく、惰性でたまに通っているだけだ。七年ほど前から、いやもっと前からかもしれないが、どこか僕は自分の人生から幽体離脱して眺めているような感覚が抜けない。
僕は門真の災害で両親を喪い、親戚の家に引き取られた。といっても、あちらも迷惑そうだったし、僕も最初から歓迎されていないのを察していたから、互いに冷めきった関係だった。結局、高校を卒業するのを待つようにして「もう出ていってくれ」と背を押される形で上京。奨学金とエンジニアのバイト代でなんとか学費と生活費を工面した。
門真ダンジョンの惨状は、テレビでも何度も特集された。住宅街にいきなり開いた亀裂からゴブリンが大量流出し、あの一帯は一夜にして地獄と化した。七年前の記憶は曖昧だが、血の匂いとパニックに包まれる街の光景は、今でも頭の片隅にこびりついている。
「まあ、こんな生活でも生きてはいけるし……」
曖昧な独り言が口をつく。
今日は1週間ぶりの外出デーだ。大学に顔を出すのは週に一度で、今日も二コマぶん受講しただけで帰るところだった。別にサボっているわけではない。すでに卒業必要単位の大半は揃っているし、教授たちもよほどのことがなければ僕を咎めたりはしない。
ただ、ここまで無気力なのは最近のことではある。数年前、大学入学当初よるべのなかった自分は、足りない学費をスタートアップでエンジニアとして働き補っていた。並行して自前のアプリ「Pairu」を開発し、大学2年の冬にある程度の額で売却した。
開発と売却は、ある程度の達成感と自己実現をもたらしてくれた。自身の脳みそを活かして、自分の力で何かを作り上げ、それが評価されたことは、確かに喜びだった。
でも、稼いでしまった後は気が抜けてしまった。今はもう仕事もせず、最低限の授業にだけ出ているだけだ。空いた時間はマンガを読んだり動画を眺めたりで終わっている。
――
僕は駅へ向かう道すがら、スマートフォンを取り出す。画面をスワイプすると、『ViewTube』の再生リストが表示された。
そこには僕がいつもチェックしているチャンネル――S級ギルド『守護者連盟』の広報動画が並んでいる。特に、メンバーの一人であるアイリス・ホワイトヘイヴンの活躍映像は、昔から欠かさず見ているのだ。
アイリス・ホワイトヘイヴン。
彼女は当時十九歳ながら、大混乱の門真ダンジョンから多くの人を救い出した“英雄”として一躍有名になった。そのとき僕は十四歳。ダンジョンに飲み込まれて右手を負傷し、倒れ込んでいたところを、彼女が助けてくれた。
といっても、直接的に僕を助けてくれたわけではない。彼女は最前線で戦い、ゴブリンの群れを次々と薙ぎ倒していた。僕は遠くからその姿を見ていただけだ。でも、あの混乱の中で彼女が見せた圧倒的な強さは、絶望に打ちひしがれていた僕に救いだった。
彼女にとっては単なる任務の一環だったのかもしれない。でも僕にとってあのときの出来事は、人生の数少ない救いだった。
思えば、ダンジョンという存在自体が人々の運命を大きく変えてきた。今ではダンジョン顕現があればすぐにDMKや冒険者が出動する仕組みができている。だけど、現実にはまだまだ予兆の把握は難しく、突発的な顕現も珍しいものの十分起こり得る。特に市街地で起きれば、たちまち大混乱になるのが常だ。
大学があるエリアはダンジョン対策も手厚いし、ここ数年は大規模災害が起きていないと聞いている。もちろん、統計的に見れば全国的に顕現数が減ったとは言えず、何度も言われているとおり予測不能が常だ。でも、どこか心のどこかで「自分の日常には関係ない」と思いたい気持ちがあるのかもしれない。顕現が頭によぎると、思考を辞めてしまう。
――
画面を見ると、アイリスが氷のダンジョンを攻略する動画が新しくアップされていた。ちらっと再生してみると、彼女が氷の塊を眩い刃で一刀両断するシーンが映る。例によって広報担当の男性が声を張り上げ、ギルドの強さをアピールしている。
画面の端に映るアイリスの後ろ姿は、あのときと変わらず凛としていて、彼女の金髪が淡く光を反射しているように見える。あれから七年も経つのに、どこか僕にとっては変わらず「英雄」のイメージなのだ。
「凄まじいな……」
僕は小さく呟いて、画面を見つめる。僕とアイリスの間にはきっと大きな隔たりがある。そもそも、あのとき彼女は十九歳でS級ギルドに所属していた天才冒険者。僕はただの一般人の子どもに過ぎない。今だって彼女はトップクラスの冒険者として、名実ともに国内屈指の存在になっている。
ネットでは、アイリスの性格を揶揄する記事も時々見かける。「実は冷酷」「英雄の仮面をかぶった拝金主義」といった見出しの週刊誌記事が出回ることもある。
でも、僕はそんな彼女の一面も含めて、尊敬している。あの日、混乱の中で見せた圧倒的な強さと、今も変わらず第一線で戦い続ける姿勢。それは紛れもない事実だ。メディアの前で作られた笑顔を見せようが何をしようが、僕にとっては関係ない。ただ淡々と応援するのみだ。
――
そんなふうに、ぼんやりとスマホ画面を眺めながら歩いていたときだった。
画面が不意に乱れた。ノイズが走り、アイリスの動画が止まる。電波障害か? そう思って足を止めようとした矢先、頭の中がズキリと痛む感覚に襲われた。
「……っ」
思わず顔をしかめる。まるで周囲の磁場が歪んだみたいだ。空気の重さが一気に変わった。
そして、すぐにその理由がわかった。
歩道の先で、地面のアスファルトに亀裂が走っているのが見えたのだ。まるで地震でも起きたように、幅十センチほどの隙間がグググと広がりはじめていた。
「嘘だろ……」
人々がざわつき始める。驚いた声、悲鳴、慌てた足音。
視線をそちらに集中すると、亀裂から白いモヤのようなものがふわりと噴き出し始めているのがわかる。何とも言えない嫌な気配が立ちこめていて、周囲の空気すら妙に冷え込んだ気がした。
手早くスマホを確認してみても、やはり通信が安定しない。画面がちらつき、動画再生は止まったままだ。ダンジョン顕現時には、磁場や重力が乱れることがあるという話を聞いたことがある。まさかこんな至近距離で遭遇するとは思わなかった。
僕の右手の甲が、ズキリと痛んだ。
ファントム結晶症――幼少期に強烈な魔力被曝を受けたことで、体内の魔力がうまく循環せず、過剰な魔力が結晶化してしまう病気だと診断された。いまも僕の右手の甲には、小さなクリスタルの痕跡がこびりついている。
普段の生活にそこまで支障はない。触れたら少し硬さを感じる程度だし、見た目も「あざがあるのかな?」くらいに思われる程度だ。だけど強い魔力に晒されるとこうして痛むのだ。
通常、魔力にさらされても右手の甲が痛むくらいで、せいぜい倦怠感が出る程度だ。しかし、今は全身に痛みが走っている。まるで僕の体が結晶と化してしまうのではないかと感じるほどに...。
嫌な汗が額に浮かぶ。
地面の亀裂は、ゴリゴリと低いうなりを立てて広がっていく。僕のほかにも数人の学生らしき人たちが、その光景に呆然と立ち尽くしている。ビジネススーツのサラリーマンやOLも混じっており、皆が一様に混乱していた。
通常であれば、誰かがすぐDMK(ダンジョン管理局)へ通報する。もしも通報が届けば、警察やDMK職員、さらにJAA経由で冒険者が現場に急行する手筈だ。
しかし、ここの繁華街はかなり人口密度が高い。周囲には商業ビルや飲食店が立ち並び、警備車両が来ようにも人混みと交通渋滞で大混乱になることが予想される。
「逃げろ、逃げろ!」
誰かが叫び、別の誰かが「警察呼んだ! DMKは?!」とスマホをかざす。だけど、多くの人はただ茫然と立ち止まってしまっている。こうした突発的な顕現は滅多にないとはいえ、「まさか自分の目の前で起きるとは思わなかった」という驚きが、行動を鈍らせているのかもしれない。
さらに、最近この辺りはリスクが低いと思われていたこともあり、個人で魔力警棒などの護身アイテムを持ち歩いている人は少ないようだ。そもそも魔力関連の装備は高価で、一般人が簡単に入手できるものではない。
「まずいな……」
僕は緊張で唾を呑み込む。七年前の記憶が痛みと共に甦る。門真ダンジョンの顕現で見たあの悪夢。周囲が血に染まっていく光景。
右手の結晶がチリチリと鳴るような錯覚を覚える。こんなときこそ逃げなきゃならない。それは頭でわかっているのに、体が硬直して一向に動かないのだ。
亀裂から現れる、禍々しい気配。
僕は視線を逸らせない。まるで悪趣味なホラー映画を見ている気分だ。音を立てて地面が裂け、そこから茶色の小柄な影が這い出してきた。背丈は子どもほどだが、皮膚は粗い鱗で覆われ、爪は汚れた黄土色をしている。赤い瞳がぎょろりとこちらを睨んだ。
「ゴブリン……」
呆然とした声が聞こえる。いや、言ったのは僕だったのかもしれない。小型の人型モンスター。知能は低いが凶暴性は高く、特に集団で襲われると厄介極まりない。
かつての門真ダンジョンでも、一斉にゴブリンが溢れ出した記憶がある。まだ十四歳だった僕にとっては、それがこの世の終わりに思えるほどの惨劇だった。
嫌な音を立て、地面の裂け目から次々とゴブリンが湧き上がってくる。数は少なくとも三匹、四匹……いや、奥にはもっといるかもしれない。彼らは獲物を求めて人間を見つけると、ためらいなく襲いかかってくる。
「まずい、逃げろ!」
誰かが声を上げ、周囲の学生や通行人がパニックのように散り散りに走り出す。とはいえ、道幅はそれほど広くなく、どこへ走れば安全なのかもわからない状況だ。
そのとき、サラリーマン風の男性が足をもつれさせて転んだ。彼は地面に尻餅をつき、青ざめた顔を上げている。手にはスマホが握られたままだ。たぶん連絡を取ろうとしていたのだろう。
ゴブリンの一匹が、その男に狙いを定めた。ギシャアッ、と甲高い声をあげて、体を低く構える。
僕は息を呑む。どうにか止めたい。けれど足が動かない。心臓がバクバクするだけで、体に力が入らない。
ゴブリンが地面を蹴って跳躍した。鋭い爪を振り下ろし、そのままサラリーマンの首元に噛みつく。
「ああ……!」
悲鳴が周囲に響く。男の血が噴き出し、ゴブリンの口が真っ赤に染まっていく。信じがたい光景だが、これが現実。ダンジョンから溢れ出たモンスターは、容赦なく人の命を奪う。
思わず胸が詰まる。耳鳴りがひどく、周囲の声も遠く感じられる。撮影していた人や絶叫していた人たちが一斉に後退し、さらに混乱が広がっていく。
DMKや冒険者がまだ到着していない以上、ここは完全に無防備な街の一角だ。魔力をまとった武器を持たない一般人がゴブリンの群れに立ち向かうのはほぼ不可能。むしろ自分自身もすぐにでも逃げるべきなのに、僕の足は微動だにしない。
――痛みが走る。
右手の甲。ごく小さな結晶の欠片が脈打つように軋んでいた。
「くっ……」
過去のトラウマ、そして結晶化の痛みが僕を縛っている。あのとき、門真ダンジョンで僕は両親を失い、自分自身も瀕死の重傷を負った。もう二度と、あんな思いはしたくない。頭ではそう叫んでいるのに、体が固まって動かない。
ゴブリンは血を滴らせながら、獲物を仕留めたことを確認すると、次の犠牲者を探すようにきょろりと辺りを見回した。そして、ぎょろりと赤い瞳が僕を見つめた――。
「……あ……」
声にならない声が漏れる。ああ、このまま僕もやられるのか。七年前の悪夢が再現されるかのように、僕は逃げ場を失っている。
「助けて! 冒険者はまだなの?!」
遠くで悲痛な叫びが上がっている。確かに緊急連絡はもう飛んでいるはずだ。だけど、都心部とはいえ初動対応には時間がかかる。DMKの車両や警察がすぐ近くにいたとしても、モンスターが現れた瞬間から現場に着くまでのタイムラグをゼロにはできない。僕が通報したところで、間に合うかどうか――。
ゴブリンが僕の方へじりじりと歩を進める。さきほどの男を襲った時点で、やつの血の興奮は最高潮に違いない。子どもほどの大きさとはいえ、人間を噛み殺すには十分すぎる凶暴性だ。
視界がぐらりと揺れる。僕の右手は結晶化の痛みで焼け付くようだ。内臓まで軋みそうな不快感が全身に回っているのに、指先さえまともに動かせない。心のどこかで、「もうダメだ」と諦める声がしていた。
――これまでの人生、まともに夢を見たことがあっただろうか。
僕は幼いころから厄介者扱いされ、青春らしい青春はなかった。大学に入り、エンジニアとして成果を出したときは多少誇らしかったが、結局何をしたいのかわからないまま気力が抜けてしまった。アイリスへの憧れだけが、僕を生かしているようなものだった。
そう、あのヒーローのような女性が、再び目の前に現れてくれるならどんなにいいだろう。だけど、そんな奇跡が二度も起こるはずがない。
ゴブリンが唸りを上げ、今まさに飛びかかろうとする。
僕はかすかに息を呑んだ。足元が崩れていくような感覚。右手の甲がさらにひび割れるように痛む。
「……ああ……」
それでも口から声にならない声が漏れるだけ。力を込めるどころか、逃げることすらできない。
逃げ場を失い、気力もないままモンスターに喰われて終わる。それが僕の人生の結末なのだと、どこか冷めた気持ちで受け入れていた。
ゴブリンが跳んだ。
大きく口を開け、まるで獣のように牙を剥きながら突進してくる。ほんの一瞬だけ世界がスローモーションになる。
──結局、僕の人生はこうなるのか。
次の瞬間、耳が割れるような衝撃音が響いた。