後
整頓された部屋、明らかに見えるような、二人分の空気感。
それは私とカコさんのではなく、カコさんと誰かがいた空気感。
「振られたばっかだからなぁ。お嬢さんには悪いけど元カノのカップ使ってね。あとまぁ……ベッドにでも座っといて」
「恋愛の目線が違う相手に言う言葉じゃ無いですし、その前に着替えてきてくださいよ」
彼は流石に配慮してくれたのか、服を持って部屋から出ていく。
その間に部屋を眺めていると、カコさんが絵を描く人だという事が分かった。
というよりも、部屋に入って最初に感じたのが絵の具の匂いだったのだ。空気感は、物の置き方で思っただけのこと。
「潮の匂いよりは、良いか」
小さく呟いて、ガサゴソと着替えているカコさんの気配に、少しだけ心がほっとした。
ちょろいと思われるのも、軽いと思われるのも御免だけれど、やっぱり誰かがいるというのは、私の心には重要な事なのだなと、思ってしまった。
それも、初対面の人ですら、良い人そうなら心を許してしまいそうになるくらいに、それをちょろいと言うのかもしれないけれど、変な事をされそうになったら、まだ手に持ったままの傘で急所を貫いて帰ろう。
「あー、待たせたね。つまらんもんを見せて悪いなぁ」
カコさんが頭をぐしぐしとバスタオルで拭きながら、さっきの服を高速で乾燥させたかのような似た服を着て部屋から出てきた。口には煙草が見える。
「煙草、良い?」
「まぁ……いいですよ」
彼は歩きながら紙煙草に火をつけて咥えタバコのまま奥が見えるキッチンに立ちつくして、ボウっとキッチンの周りを眺める。もしかしたら、即席ココアの袋でも探しているのかもしれない。
彼は煙草の灰をシンクに落として、改めて煙草を咥え直し、少し長い髪の毛を後ろで一本に束ねて、ヤカンを沸かし始める。
「あー、あったあった。丁度、これで最後か」
彼はキッチンの下に消えて、ブツブツと呟きながら、顔を出した。
そうして、煙草に指を深く吸い込んでから、その煙を吐き出しながらシンクへとグシャリとその紙タバコを押し付けていた。
「こういうのもさ、嫌われたんだよ」
「まぁ……行儀よくは見えないですよね」
彼はココアを持ちながら、苦笑しつつテーブルに
「言うねえ君、しかし俺は、それ以上にどうにも、浮気性でね」
「……? そうは、見えないですけど」
この人が女をとっかえひっかえしているようには、見えない。
そもそも、振られて泣くような人が浮気をするとも、思えなかった。
「その、つまらんもん……絵に色目を使ってるんだとさ、浮気だって」
色目……彼女さん、もとい元彼女さんもまた上手い事を言う。けれど、それを浮気というのは言い過ぎでは無いだろうか。
「でも、綺麗な絵ですね。浮気しても仕方ないかも……しれないです」
その絵は、おそらく、海の絵だった。少し不思議な感じでわかりにくいけれど、私の嫌いな海の絵。なのに、その複雑な色彩は、絵を知らない私からは何の言葉で説明することも出来ないけれど、少なくとも綺麗に見えた。
「そりゃあ……嬉しいな。ココをぶっ飛ばした甲斐があったよ」
そう言って、彼はまた自分の頭を、今度はコップの縁で自分の頭をコツンと叩く。
ちなみに彼が自分の頭を叩いたコップと、色違いのお揃いだった。
「私、海が嫌いなんです。潮の匂いも、喧騒も。でもこの海は、なんだか綺麗」
「まぁ、俺だって好きじゃないさ。ほら、窓のほうを見てみ」
そう言われて窓を見ると、逆に吊るされた照る照る坊主。
「俺はね、雨の振る海が好きなんだよ。だから濡れるのは慣れっこっていうか……」
そんな理由であの豪雨に気づかなかったのかと思うと、思わず私は吹き出してしまった。
「だからって! 変質者か何かだと思われてましたよ?」
「いやまぁ、実際どうかしてるからね、俺は」
詳しく聞くのは憚られた。だけれど何処か悲しみを帯びているような海の絵は、私の心を惹き付けるのに充分だった。
この人だから描けたような、そんな感覚、何も絵の事なんて知らないのに。学校の教科書で見るゴッホのひまわりを見ているような、不思議な気分。
「雨は、私も好きです。それにこの絵も」
「そこまで褒められると照れるけれどね。雨はなんだか、良い。明るいと自分の良くない所が照らされて駄目になる」
分かるような気もするけれど、私はそこまで卑屈じゃない。なんだかどっちが年上だかわからないような気分に、少しだけ笑えた。
「また、来ていいですか? 今度、描いてる所見せてくださいよ」
彼は少しだけ困ったような顔をして、こちらを見る。
「いいっちゃいいけれど、俺は結構嫌なヤツだよ? 放って置くし、それに犯罪じみた事もしたくない」
「構いません、誰かいないと、寂しいんでしょ?」
これもまた立派な火遊び、海に、雨に、流されるようなすぐに消える火遊び。
だけれど、その度につけ直せるような、気楽な提案。
「そうだな……まぁ、良いよ。そのうちいなくなるだろ?」
その言葉が、どうにも寂しく思えた。私以上に、きっと彼は沢山の寂しさを知っているのだろう。
「どうでしょう。でも、一人きりで潮の匂いに悩まされるより、この部屋で絵の具の匂いをかいでいた方が、楽かもしれないです」
私はベッド脇のテーブルに、ココアが入っていたコップを置いた。それを彼はそっと手に取り、台所へと歩く。その姿もまた寂しげだ。
「じゃ、帰りますね。ココア、ごちそうさまでした」
「気をつけなね、それと傘。ありがとうね……あ、そうだ」
玄関で少しジメッとした靴を履いている私の後ろで、カコさんがガサゴソと何かしている音が聞こえた。
「はい、これお礼。雨好きなんでしょ?」
そうして渡されたのは逆にされた照る照る坊主だった。こんなお礼があるかと思って、私は笑いながら、それを受け取って、鞄へしまう。
「さっきよりはもう少し、優しい雨の方が好きですけどね。それじゃ、また今度」
「あぁ、連絡は……いらないか。いつでもいるよ。いなかったら、残念って事で」
一瞬スマホを出しかけて、確かに家の場所は覚えたし、私の家からもそう遠くない。
アパートの一階にはカコさんの部屋しか無かったのも覚えやすかったから、連絡先は交換せずに、私達は別れた。
「はぁ……変な日だったな」
私は、いつの間にか晴れていた空を見て、もうジメジメしている靴で、水たまりを避けて家路についた。
それがまるでスキップをしているようだなと思って、少しだけ笑えた。
明くる日、雨の匂いで目を覚ました。世間の皆々様は、せっかくの土日が雨で潰れて残念がっている事だろう。
残念ながらそれは、私のせいだ。私は逆照る照る坊主がくくりつけてある窓を見て、少しだけ微笑む。
それ以上に、制服に少しだけ残り香として染み付いた、ほのかな煙草の香りが、私の心の隙間を少しだけ埋めるような気がして、それでもやっぱりちゃんと洗濯しなきゃな、なんて事を考えていた。
いつもと少し違う朝、だけれどいつものルーティンといつもの光景、だけれど、今日はいつもと違う日常の始まり。
同じ事を繰り返しているように見えて、同じ雨粒は一つも無い。おかしな話だけれど、変わってみる事、踏み出してみる事も、大事だったんだなと思う。
今日も一人ぼっちの家を出るけれど、誰もいない部屋に挨拶は、もうしない。
玄関先に立って、私は昨日買ったばかりの新品の靴と、長靴を見比べる。
「ん、まぁこっちでいいや」
お洒落も何も無い、長靴を履いて、私は水たまりをパシャリパシャリと踏みつけながら、彼の家へと歩いた。
茜は火遊びなんて言っていたけれど、それが恋だの愛だのに限定されてたまるものか、と思う。
それに、私のそれを言うならばきっと、勇気だ。蛮勇とも言うのかもしれない。
それでも、私の心に巣食っていた寂しさは、雨粒が弾けるように、水たまりが音を立てて飛び散るように、無くなっていた。
「おはよーございます」
おはようが言える暖かさを、私は運良く手に入れる事が出来た。
色気も何も無い、長靴での冒険は、あっというまに終わって、絵の具の匂いに包まれる。
「あー、ほんとに来たんだ。どうぞ、ご飯とか、食べてく?」
きっとカコさんは私の足元すら見ていない。でもそれでもいいのだ。
彼がいる空気感に、私は少しだけ、心がポッと暖まった気がしたから。
「雨、降りましたね」
「降ったね、吊り下げてくれた?」
「そりゃあもう、大成功でした」
他愛のない、会話。
そのうちに無言になっていく、私は私で何かする事を考えようかな、なんて事を思い始めていた。
「……暇じゃないの?」
「一人よりかは、マシです。まだ絵を描いてるのを見るのも新鮮ですし」
「はは、確かに言えてる」
雨音に消されるくらいの静かな会話の中で、私の心の中に灯った小さな火は、渚で揺れる波のように、揺れ続けていた。