霞ヶ丘
私は白い霧に覆われた、丘の上に立っていた。
何故自分が此処に居るのかは判らない。判らないが……不思議と恐怖は無かった。其処は美しい場所だったのだ。動く生き物の気配のない、静かな世界。薄墨を引いた様な無彩色の景色が、目の前には広がっている。
(……この先に、何が有るのだろう?)
日頃から消極的な私には珍しく、そんな好奇心が頭をもたげた。霧に覆われた世界で、自らの輪郭すら曖昧なまま、私は揃っているのかどうかすら判らない足を、前へと動かした。
「何も、見えて来ないな……」
自分の足が土を踏みしめているかどうかも、疑わしい程の霧なのだ。考えずとも予想は出来た筈なのに、何故私は歩き出してしまったのだろうか。明かりが有れば、違ったのかも知れないが――――……。
「……お困りですか?」
高いのか低いのかはっきりとしない声と共に、横からカンテラが差し出された。
「あ、ありがとうございます……」
無意識の内に其れを受け取ってから、相手の顔を見る。……見た、筈だ。その筈なのに、顔の印象が意識に上らない。まるで霞の様に霧散してしまう。
「……失礼ですが、貴方は……?」
「私の事など、如何でも良いでは有りませんか」
其れよりも、何故貴方は此処に居るのですか? とその人は私に問うた。
……何故? 其れは、私自身が、自身に投げかけるべき言葉だった。けれど。
「……さぁ。如何でも、良い事では有りませんか?」
私の唇は笑みさえ浮かべて、そんな事を口にしていた。
其の答えは予想外だったのか、彼、若しくは彼女は、息を呑む様な動きをした。……物の怪の類では、無いらしい。
「カンテラ、有難うございました。では……」
そう、言い置いて歩き出す。すると、物の怪の様な何か……誰かは、私の後を付いて来る。
「……何か?」
「偶々、私も此方へ用が有るのです」
……そうですか。と返して、私は進む。胸の内に生まれた不快感を押し殺して。心を落ち着かせる為に、周囲を見渡す。煩わしい、生き物の居ない、淡墨の世界。
……だと、思っていたのに。
急に、カンテラに照らされ、霧が開けた。
目の前には、旧制中学校の教室と、生徒達の姿があって。此方を憐れむ様な目で、見ていた。高等学校に行かれなかった、私を。……あぁ。大多数の人の様に、進学する為の資金が工面出来なかっただけなら、どれほど良かっただろう? そうでは無かった。そうでは、無かったのだ。私はただ、駄目だった。学力が足りなかった。ただ、其れだけだったのだ。拳を、強く握り締める。爪が手の平に食い込む感触すら遠くなる程に。……勿論、そんな事をわざわざ吹聴したりはしなかった。けれども、私の家は決して貧しくは無かったし、それどころか裕福な方で有った為、理由は自然と知れただろう。……いっそ、嗤ってくれれば良かったのに。そうすれば、私は見っとも無く当たり散らす事が出来ただろう。そうして、綺麗さっぱり堕落出来たのだろう。けれども、そうは為らなかった。
私の周りの人達は、皆、良い人達だった。
だから、私はずっと。
ふっ……と、カンテラの明かりが途絶えた。
「――――……が、切れてしまった様ですね」
何時の間にか、傍らに立っていた『誰か』が呟く。
『何が』切れてしまったのかは聞き取れ無かったが、そんな事はどうでも良い事だった。何だ。あの映像は。あれは――――……。
「――――……先に進みましょう。……さん」
そう言いながら『見知らぬ筈の誰か』は聞き慣れない音を発して、私に手を差し出した。
「……貴方は、私の知っている人、なのですか?」
「……進めばきっと、思い出せますよ」
其の答えは、私が求めているものでは無かったが、他に遣るべき事も有るまいと、私と誰かは、少しの距離を開けて縦に並び、歩き出した。
どうやら、記憶を無くしているらしい私と、余り喋らない誰かは、言葉少なに足を進めるばかりである。其れに、不安は無かった。……何より気が重いのは沈黙では無く、このランタンが見せる幻の方である。あれが何であるのか、何となく予想は付いた。だからこそ、嫌だった。其れでも、此の世界は美しい。生者の居ない音の無い世界。生活の臭いが消えた白色の世界は、予想よりもずっと心が落ち着く場所だった。此の場所を見て回りたいという欲求は、私の嫌悪感を覆いつくして行く。
そんな時、また、カンテラが輝いた。
今度は、小学校らしい。……此処にも、余り良い思い出は無かった。私は、多分、大人しい子供だったのだと思う。そして、運動神経も、当然の様に無い子供だった。そんな男がどんな扱いを受けるのかは、考えるまでも無い。……話題になる様な虐めは、無かった。其れがまた、私の自尊心を煽った。ただ、目の前で走り回り、遊びに興じる同級生達を、私はぼんやりと眺めて居た記憶ばかりが有る。遊びに混ぜて欲しいのだと、其の一言が言えなかった。混ぜて貰えたとしても、きっと迷惑を掛けていただろう。若しくは、興を冷めさせてしまっていただろう。そう。私はそんな事ばかりを考えてしまう子供だったのだ。……だからきっと、皆、私と居ても詰まらなかったのだと思う。虐めの対象にすらならない程に。興味が、無かったのだと思う。其れが悲しかったのかすら、私にはもう思い出せない。思い出したくも無い。ただ……自分自身が嫌になった事だけは、覚えている。
けれど。そんな私にも、大切な家族が居た。……居た、筈なのだ。私の側に、寄り添ってくれていた。そんな……。其れなのに、私はどうしても、その誰かの顔が思い出せない。何故だ。私にとって必要な記憶は其れだけなのに! 苛立ちの余り、私はカンテラを強く振ってしまった。当然の様に灯は消えてしまい、辺りには冷えた霧だけが立ち込める。其の時初めて、私は此の世界が怖ろしい物に見えた。
――――此の世界に、僕を馬鹿にする奴等は居ないけれど、僕に寄り添ってくれる人も、同じ様に居ないのだ。
「……っ、ひ……」
まるで子供の様に引き攣った声が漏れる。鼻の奥がずきずきと痛む。
其れすら、聞く人は――――……。
「……大丈夫、ですか」
控えめな言葉と共に『誰か』の白い手が、私の手に、触れていた。
指を絡める様ないやらしいものではなく、指を怪我した子供を労わる様な、優しい手付き。……あぁ、この手は女性のものだ。そう意識した瞬間に、頬が熱くなる。私は嗚咽を堪えていた事すら忘れて、手を引っ込めた。
「だ、大丈夫だ。迷惑を掛けて、済まない」
そう言いながら顔を逸らすと、微笑む様な気配がした。……其の目線は、幼子を見詰める母のものだった。
「……君は」
何か、気の利いた事を言いたかった。自分に付き添ってくれてありがとう、だとか。もう少し気障に決めるなら、良ければ並んで歩かないか、だとか。
私を見上げる其の真っ直ぐな視線を、まともに受け止める事すら出来ずに、私は口から言葉を吐き出した。
「君は……手が、冷たいな」
全く持って、喋る事が下手糞な男だったのだ、私は。
其れでも、彼女は微笑んで。
「申し訳有りません。……冷え性なものですから」
そんな風に、おどけてみせたのだった。
……けれど、私と彼女は、横に並んで歩く事は無かった。私が前で、彼女が後ろ。視線が交わる事は無い。私が其れを言い出せなかったのも有るし、彼女が自ら男の近くに寄って行く様な女性では無いのも有るし、何より――――……私に良い記憶が無い為だった。だから、何を話して良いのかが、判らない。霧が見せた幻は、私の記憶なのだろうが、あんなもの、どう人に話せと言うのだろう? 今も、思い返すだけで溶けた鉛を無理矢理喉に押し込まれているかの様な苦しさに襲われる、あんな記憶を。
……私には、あの様な記憶しか、無いのだろうか?
そんな筈は無いと、信じたかった。もし、そうで有ったのなら。
自分は、何の為に。
「――――……さん」
「……えっ、あっ、な、何か?」
背中から聞こえた音に、慌てて振り返る。声は裏返ってしまった。
「お腹が、空いていませんか」
「……お腹、ですか?」
いえ、別に……と答えを返して、ふと気付く。此処に来てから、時間の感覚が失われているだけで無く、肉体の感覚すら、失われている事を。……彼女の手が冷たい事は判るのに、肉体の疲労は、感じないのだ。奇妙な事だった。奇妙だと思うだけで、恐怖は無かった。そんな事が、恐怖になる訳も無かった。
「……空腹なんて、如何でも良い」
そう、呟く。傍らの彼女の存在すら忘れて。
私にとっての畏れとは「見限られる事」だった。周囲の期待に応えられない事、望みを口に出来ないまま、居ないものとされる事。私は……私が生き物の居ない世界を望むのは、生き物を嫌っているからでは無い。逆だ。私は、周囲の人から愛されたいのだ。けれど、愛されるには相応の資格が必要な事も、中途半端に学が有るが故に、理解出来てしまっていたのだ。価値の無い人間は、誰からも愛されない。必要とされない事と、愛されない事は、同じだ。……だから、私は誰かの役に立ちたかった。必要と、されたかった。そうする事で、初めて私は自分を愛する事が出来るのだ。……そんな事を、私は話した。名前も知らない彼女に。名前すら知らないから、せめて自分の事を、知って貰いたかったのかも知れない。酷く我が儘な男だったのだ、私は。
その癖、話し終えてしまってから「失敗した」と思った。
良く知りもしない相手に、何を言っているんだ、僕は。……いいや、良く知っている相手だったら、逆に、こんな事は言えなかったかも知れない。違う、そうじゃない。こんな事は、口に出すべきでは無いのだ。出した所で、どうにもなりはしないのだから。そして、只、忌み嫌われてしまうだけだ。
そんな事は、もう、何度も。
「……居ますよ」
「……えっ?」
呆けた声で聞き返すと、彼女はゆっくりと私の手を握って、繰り返した。
「きっと、貴方の傍に、貴方を必要としている存在は……居ましたよ」
居た。其の言葉が過去形なのが引っ掛かる。……矢張り、私はまだ一番大事な事を思い出せていない。
――――其れは、君なのか?
そう尋ねたいのを堪えて、私はそっと彼女の手を外した。
先に進まなければ、私の記憶は戻らないのだと、薄ら理解していたから。
カンテラの明かりだけを頼りに、私と彼女は進む。白い霧しか無い静謐な世界を歩く。其れはまるで巡礼の様だった。
「此処は……?」
辿り着いた先には、神木にもなれそうな大きさの大樹が有った。乾いた表皮はごつごつとしていて、ささくれ立っているのに、触れていると何処か優しさや温かみを感じさせる樹だ。その樹のうろの奥に、何かが見える。其れを見ようとして、カンテラを翳すと――――……。
「――――……ヒナ!」
そう呼ぶと「ヒナ」は僕の肩に乗り、きゅうきゅうと鳴いた。これは、文鳥が甘えている時に出す鳴き声なのだそうだ。「ヒナ」という名前は、小さかった頃の僕が雛だった頃のヒナを見て「これは何?」と親に尋ねた所「鳥の雛だよ」と返って来た為、其れが名前だと勘違いしてしまい、今に至ると言う訳だ。
とはいえ、文鳥のヒナは大きくなっても僕の手のひらに収まってしまう大きさで、やっぱり「雛」みたいだった。
普通の文鳥は白と黒と灰色が入ったのになるそうだけど、ヒナは珍しい真っ白な文鳥で、僕の好きな大福みたいな形をしていた。
両親は「飛んで行ってしまうといけないから、鳥籠から出すのはやめなさい」と僕に忠告したけれども、ヒナは僕の手のひらに乗りたがって良く鳴いていて、何だか可哀想だったし、部屋の窓や扉を閉め切っていれば、大丈夫だと思っていた。そう。過去の話だ。判っていた。私はこの後、ヒナがどうなるのかが、判っていた。
(――――おい、お前っ……後ろの扉は、閉まって無いぞ!?)
そう声を掛けたいのに、声は出ない。出せたとしても、届きはしなかっただろうが。扉を閉めたつもりで、きちんと閉まっておらず、一寸程開いていたのだ。良くある、話だった。そう。子供の油断によって籠から出した鳥が逃げてしまう……なんて事は、良くある話だった。
其れだけなら、どんなに良かっただろうか。
……鳥は、ヒナは、僕の目の前で廊下の窓から、空に飛び立って……カラスに食われた。いや、違う。カラスからしてみれば「いたずら」だったのかも知れない。ヒナは食われる事すら無く、ただ殺されたのだ。
ぽとりと、余りにも軽く、紙屑の様に、ヒナは落ちた。
其の後の事は覚えていない。
気が付けば目と喉が酷く痛んでおり、瞼は腫れあがり、声が出なくなっていたのが不思議だった。……さて、其れから、如何なったのだったか。鉄格子付きの病院に入れられたのだったか、そして一時家に戻って学業に励んではみたものの、結果か出せず、結局は家から逃げたのだったか、とんと記憶が無い。別に如何でも良かった。何もかもが如何でも良かったから。
――――死んだのだったか。
誰に聞かせる訳でも無い独り言に、応える声が有った。
「……いいえ、貴方はまだ、死んではいません」
仮死状態で、生と死の狭間の場所で、彷徨っているのです――――……。
そう聞いても、何とも思わなかった。だから如何したと言うのだ。私を慈しんで、必要としていてくれた「家族」はもう居ない。其れなら、もう現世とやらに、私の居場所は存在しない。君だって見ただろう? 振り返りながらそう説明すると、彼女は悲しそうな顔をした。
君が悲しむ事は何も無いよ。
……あぁ、でも、君の様な人に悲しんで貰えるのなら、死に掛けるのも、悪くは無いかも知れないな。
私は珍しくも微笑んで、信じられない程に、気障な言葉を吐いた。……もう、殆ど死んでいるのだから、恥も外聞も無かったのだ。其の序でに、もう一度、彼女の懐かしく冷たい手に触れたかった。
……懐かしい?
だらりと下げた左手にカンテラを持ったまま、私は彼女に、右手を差し出し、其の手に触れた。此の、冷たい手の感触。此れは……。
「此れは、あの時触れた、ヒナの身体の冷たさと、同じだ」
彼女が息を呑む声が聞こえる。
其れは、あの鳴き声と、似てはいなかったか。
「ヒナ」
「……いいえ、いいえ、違います。だから、手を離して」
彼女は僕に握られていない方の手で、呻きながら顔を覆った。
どうして、忘れていたのだろうか。……いや、忘れなければ、呼吸すら、出来なかったのかも知れない。別に、出来なくても構いやしなかったのに。だから、僕は今此処に居るのに。
「お前の居ない世界に、僕はもう帰りたくはないんだ、ヒナ」
彼女の言葉を無視して、繰り返す。
「……駄目です。私はただ、貴方に、生きて欲しくて――――」
彼女の想いすら無視をして、繰り返した。
「どうしたら、ずっと此処に居られるのか、教えてくれ、ヒナ」
……彼女は、俯いたまま、答えてくれなかった。
其れなら其れで良い。方法を、何とかして見付けてみせる。
そうだな。先ずは――――……。
私は、持っていたカンテラを、頭に思いきり振り降ろしてみた。
覚悟していた衝撃は無く、振り下ろした腕は、ヒナに掴まれていた。
「……離してくれないか?」
右手をヒナと繋いだまま、言う。怒りは無い。ただ、彼女は私を必要としていないのかと思うと、其れが少し悲しいだけだ。そう私が考えた事を感じ取ったのか、ヒナは首を大きく振りながら、私を見詰めた。
如何して判ってくれないのかと、言いたげな顔で。
其れは、僕の台詞だ。
君が何を望もうと、僕の考えは変わらない。
君だって、そうなんだろう? ヒナ。
其処まで考えて、僕は笑った。
……余り強く抵抗をして来ないという事は「この方法」は正しくない、という事だ。
「……判ったよ。もう、カンテラを振り回したりは、しないから」
そう、意識して優しい声を作ると、ヒナはほっとした様な顔をして、私の腕から手を離した。ごめんな、ヒナ。人間は、嘘吐きなんだ。
「……所で。君はさっき、お腹が空いたかどうかを聞いて来たけど……此処にも何か、食べる物が有るのかい?」
何気ない風を装って尋ねる。
「……いえ。単なる、雑談のつもりで言っただけです。気に為さらないで下さい」
すると、彼女は誤魔化す様に手を振った。……最初は表情に乏しい女性だと思っていたのだが、その代わり、仕草に感情が表れるらしい。そう思うと、益々「鳥」らしく見える。
……そうか。食べ物か……。
昔、何かの本で黄泉戸喫という言葉を、知った事が有る。
死者の国の食べ物を食すと、例え生きていても、生者の国には帰れなくなる。と。
要は、そういう事なのだろう。
……とはいえ。此の世界に、食べ物なんて、有るのだろうか。
……カンテラを翳して見てみても、此の大樹、明らかに果実は実っていない。……どころか、葉すら、生い茂っては居なかった。
(樹の皮でも剥がして、口にすれば良いのだろうか)
其の理屈で言うなら、其の辺りの石や砂でも、食べ物になってしまいそうな気がするが。さて……。何か無いかとカンテラ持ったまま、辺りを見渡す。そういえば、最初は樹のうろを見ようと思っていたのだったか。……虫も、広い意味で考えれば、食べ物、か……? もし此の世界にも虫が居るとすればの話だが。出来れば、最終手段にしたいものだと思いながら、カンテラを片手に爪先立ちをしようとすると。
ぐ、と腰に何かが巻き付いた。かと思うと、身体が強く後ろに引っ張られる感覚があった。
「う、わ……!」
危うく、転倒しそうになり、慌てて踏ん張る。
「……そんな穴、如何でも良いでは有りませんか」
彼女が、私の腰に両腕を回して、引っ張っていたのだ。私が踏ん張らなかったら、如何するつもりだったのか。いや、其れ以前に、此の密着の仕方は、不健全では無いのか。
「あ、え、いや、でも……一応、見て、みないと……」
意識してしまうと、もういけない。羞恥心で声が震えて、力が抜けてしまう。
其れ、でも。
此処まで嫌がるという事は、多分、中に、何かが。
「……あ、の……離して、くれまませんか……」
結局、私は彼女に負けた。
情けない事に、私には女性に対する耐性が、余りにも、無かった。
其れと、触れた身体の冷たさが、余りにも、悲しかったから。……彼女が例えヒナで無くとも。彼女が、大切な誰かをずっと此処で待っていた事実に、変わりは無いのだから。
「――――君は、僕に如何して欲しいんだ」
改めて向かい合って、そう尋ねる。ただ、生きてくれれば。と、さっきは言っていたけれど、其れだけで、良いのかと。ただ、私が「生きているだけ」で、満足なのか? と。
私にとって、生きる事は、最早苦痛なのだよ――――……。
先ほど言った言葉を、もう一度繰り返す。
ヒナが、俯いて、再び私の手を取った。
「……まだ、貴方のカンテラの灯は消えていません。だから、進みましょう?」
何が「だから」なのかは全く判らなかったが、彼女が見せたい物が、私の失った記憶が、この先に有るのかも知れない。記憶自体は如何でも良かったのだけれど。彼女が見せたい物なら、きっと美しいのだろうと、思ったから。
今度は、彼女が僕を先導して歩く。……手を、掴んだまま。
此れは、指摘した方が良いのだろうか? 何時言おうかと迷っている内に、再びカンテラが輝き始めた。
其処で、初めて私は、自分が美しい花畑に居る事に気が付いたのだ。
「……此処は……」
君が見せたかった物は、此の場所なのかい? そう、声に出す前に、また、私は記憶に襲われた。
――――そこには、白衣を着た医者と看護婦、崩れた顔を晒した若い男が、寝台の上に横たわった若い女が抱く、くしゃのくしゃの生き物を見詰めていた。良く見ると、若い女は酷く疲れた顔をしている。
(……何だ。此れは?)
一瞬、私は其れが何か、判らなかった。赤い肉の色をした、奇妙な物にしか見えなかったので。其の物体は。
「おわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
発情期の猫に似た、あの酷く煩い声量で泣き出したのだ。
其処で初めて私は、其れが赤ん坊なのだと気が付いた。
赤子が泣き出した瞬間に、緊張し切っていた周囲の大人達の顔は綻び、破顔した。……あぁ、そうか。彼が無事に誕生した事に、彼らは喜んでいるのだな。望まれて産まれて来た事なんて彼は判らないだろうが、健やかに育って欲しいものだ。等と、名前も知らないのに、一方的にそう思った。
「……名前は、もう決めて有るの」
赤子を抱く、母らしき女が言う。其の女性が言った名前は――――……。私の、物だった。
私が、二十年近く付き合って来た、自分の、名前だった。
其の瞬間に、若い男――――私の父は、人目もはばからず母を抱き締めて、良くやったと、大袈裟な位に褒めちぎっていた。医者も、看護婦も其れを咎めずに微笑んでいる。空気までもが、どこかしら輝いて、赤子の誕生を祝福しているかの様だった。
――――……あぁ。
此の幸せに満ち溢れた空間は、私が誕生した事で産まれたのだな。
素直に、そう思った。そして――――……。
ふっ……とカンテラの灯が消えると同時に、私の記憶も消えた。
ヒナは、私の手をずっと握っていたらしい。其の手は相変わらず白く、冷たかったけれど、心なしか、力が籠っていた。私を見詰める、黒目がちな瞳にも。其れは、とても、温かさに満ちていた。
「……私は、愛されて産まれて来たのだな」
そう、口に出すと、彼女はとても嬉しそうな顔をした。目や口元が綻んで、ふわりとした、柔らかな日向の様な匂いがする。優しいな、君は。私は、努めて笑顔を作った。優しい君を、傷付ける為に。
「――――だからこそ、私は今の自分に耐えられないのだと言えば、判ってくれるかい?」
私の手を握っていた彼女の手から、ふと力が抜けた。
「……人間にはね、無条件の愛情なんて、無いんだ」
其れが、普通なんだよ。狂ってしまった私にもう価値は無いし、居場所なんて、作れる訳が無い。だからね、ヒナ。
「――――――――僕を、助けて」
膝立ちになり、ヒナの白い両手に額を擦り付けて、恥も外聞もなく、懇願した。
彼女の顔は見えない。其れでも、酷く迷っている事だけは、判った。……もし、此処で見捨てられたら、僕は如何なってしまうのだろう。いいや、そんな先の事は、如何だって良いじゃ無いか。そうなったら……僕は其れだけの存在だった、という事だ。そんな事を考えていると――――……。
「……貴方は、ずるい人です。――――……さん」
「――――……えっ?」
思わず顔を上げると。
「そんな風に言われたら――――……断れないじゃないですか……」
今まで能面の様だった顔をくしゃくしゃに歪ませて、彼女は、泣きながら笑っていた。
ヒナと共に、元来た道を引き返す。乾いた砂を踏みしめた時の、さくさくとした足音。周りが白く見える程の、湿気を含んだ冷たい空気。目に映る物は全て灰色掛かっていて、酷く優しい。静かで、綺麗な場所だと思った。
そして、あの大樹へと辿り着く。ヒナはゆっくりと樹のうろへと近付いて、静かに手を差し入れ、引き抜いた。……柔らかく開かれた手の平の上には。……文鳥のヒナが、眠っていた。
「……人の言葉では、仮死状態……というのでしょうか」
ずっと此処で私は、貴方を待ちながら、眠る様に死に掛けていたのですよ――――……。
そうか。随分と、待たせてしまっていたんだね。そう言って、彼女に私の小指を差し出した。お食べ、と。……そうすれば、君は、此の世界にずっと居られるのだろう? と。その代わりに、もし、君が良ければ。
君の身体の一部を、僕にくれないか。
私の言葉に、彼女は酷く驚いた顔をして。
「……一部だなんて、そんな」
私の小指に、自らの小指を絡め。
「――――全部だって、いいですよ」
そう言って、嬉しそうに微笑んでくれた。
――――――――……あれ? ここは、どこだろう……。
私は、確か、馬車に……? きょろきょろと、辺りを見渡す。白い霞が余りに濃くて、周りが見えない。どうして良いのか判らずに、立ち尽くす私の前に。
「――――……こんにちは」
カンテラを持った、頭が良さそうな顔をした男の人が、霞の中から表れた。
「……初めまして、ですね」
其の人の後から、白くて綺麗な女の人も、出て来た。
……誰? 全然、知らない人達だ。
戸惑う私には構わずに、男の人は言う。
「此処は『霞ヶ丘』という場所なんだ。暫く此処を歩いてみて、気に入ったら此処に住んでも良いし、帰っても良い。判断は君に任せるよ」
但し。
「此の場所にある物は、何であれ、食べちゃいけない。此処から、帰りたいのならね。……まぁ、お腹は空かないから、大丈夫だと思うけど……」
「――――お腹が、空かないんですかっ!?」
びっくりして、つい、身を乗り出してしまった。
何時も私はお腹が空いていて、辛かったのだ。
急に叫んだ私に驚いた二人に、そう慌てて説明すると、男の人は何処かが痛んだ様な顔をして、女の人は首を静かにふるふると振った。
「……そうか。なら、此処に留まった方が、良いかも知れないね。……私が言うのもなんだけれど、良い所だよ、此処は」
そう言いながら、男の人は、右手を此方に差し出して来る。
……其の手には、小指が無かった。事故で、無くしたのかも知れない。ちょっと痛そうだったから、私は気付かない振りをして、手を差し出した。すると。
……女の人の、視線が痛い。真っ黒な目が、ちょっと怖い。
「……ヒナ、ただの、挨拶だから」
そう、男の人が言って、やっとヒナと呼ばれた女の人は私を見詰めるのを止めてくれた。……恋人、なのかな。慌てて繋いだ手を離して、彼女の方を見ると、さり気無く男の人の手に、手を重ねている姿が目に入ってしまって、何だか私は居た堪れない気持ちになってしまう。
……あれ?
余りじろじろ見てはいけないと思う程、目に入ってしまうものだ。
……ヒナさんの右手にも、小指は無かった。
其処で初めて、私は悟った。
見てはいけ無かったし、気付いても、いけなかったのだと。
「――――……わ、わたし……帰り、ます……」
其の言葉を聞いた二人は。
「……えっ、如何して? 僕が、何か君に、失礼を……?」
「……あ、済みません、私が、変な事を……」
ただただ、申し訳無さそうな顔をするばかりで。
最後まで、ずっと帰って大丈夫なのかと、心配をしてくれていた。
きっと、優しい人達なのだろうと、思う。
――――だから、怖ろしかった。
だから、此の世界には、居たくなかった。
そう言っても、きっと此の二人には判らないのだろうと思いながら、私は、此の白と灰色ばかりの霧の世界から、逃げ出した。
――――……また、駄目だった。
私だけではヒナが詰まらないだろうと思って、生と死の狭間に居る魂を招待しては居るのだが、如何にも合わない様で、皆が現世へと帰ってしまう。其れで良いと、彼女は言うのだが。勿論、私だって、ヒナが居てくれれば、其れで良いのだが。
……なら、もう、其れで良いか。
私の服に隠れた部分を啄む彼女の頭を撫でながら、そんな事を思う。
もう私は、半分ほどになってしまった。
彼女も、上半身を残すばかりだ。
一度黄泉戸喫をしてしまったものだから、私達は”お腹が空く”様になってしまった。痛みは無いのだけれど、矢張り”無条件の永遠”など存在しないのだな、と今更思いながら、本当に消滅してしまうまで、お互いの意識が残っています様にと、私は願った。