第一章 第六話『兄として』
紡木の人生において、野宿の経験は一度だってなかった。
外で寝ることはあっても、そのいずれもがテントや寝袋など最低限の設備があってのものであり、枕も袋もない完全な野宿は初めてであった。
それでも人間、疲れ果てると案外何処でも寝れるもので、地上10メートルの高さの木の枝の上でも充分な睡眠がとれるらしい、というのが紡木の新たな発見の一ページに加えられた。
「体がバッキバキになるのは避けらんなかったか……」
ゴキリ、と。肩で小気味の良い音が鳴った。
起きるのが億劫になる程度の怠さはある。
しかしその怠さは筋肉痛のようなもの。行動するのにさして問題になるレベルではなく、いずれは慣れる。
しかも夜の森にしては気温が高かったおかげか、半袖のワイシャツで一晩を過ごしていた紡木は風邪の一つもひいていなかった。
むしろ頭だけは格段にすっきりとしていて、心なしか視力が上がっている気がする。
「まぁ、それは気のせいだろうけど」
しかしそのせいか、紡木の性分では心配事が先に気になってくる。
余裕がある、というのは考える時間があるということ。
未知の場所で油断は全くできず、悩み事は尽きない。
隣で昨晩、先に眠ってしまっていた陽樹の方に顔を向け、その様子を淡々と確認。
そこには夜鳥家で一番早起きな陽樹が、手足を目一杯に広げてグースカと惰眠を貪る姿があった。
上着を掛けた時の姿勢そのままな状態。寝返りを打った様子はないことから、枝から落ちる心配は不要だったらしい。
「……まだ小学生だもんな。しょうがねえか」
昨日は恐竜から逃げ、動物を避け、山の中を歩き回った。
泣くこともなく、小学生の体力でむしろよくついて来れた。
紡木は後で弟を褒めることに決めた。
「それはそれとして……よっと」
Tシャツと上着をめくって胸を見る。
そこには浅黒の肌の上で変わらず残る黒い棘鉄球の刺青が残っている。
それでも呼吸は正常に行われていて、弟の体に何も問題がないことが現状で一番の幸いだ。
「この刺青? 紋様? それとも痣か何か分からんが……とにかく何もなくて良かった。うん、今はそれでヨシ」
第一、消す手段も方法も機材もないのだ。
いくら高校生が頭を捻ろうが、解決策が出てくるはずもなく、放置するほかに選択肢がないのは明白。
ならさっさと頭の中からは除外するが吉だ。
「そういえば俺もイコちゃんの粒子が身体に入っていったはずだよな? 何で俺には刺青が浮かんでこない?」
ちらりとワイシャツをめくって、紡木は自分の胸元を開いて確認した。
しかし刺青の浮かんでいる陽樹と違い、相も変わらず何も無い。
あるのはいつも通りの、ちょっと筋肉のついた胸板だ。
「ふーーむ、てっきりキメラとイコちゃんって、人間に寄生とかする同種の生き物かと思ったけど、違う? いや、見た目も別に似てないし、根拠もあるわけじゃないが……」
消え方も違う、姿も違う。
しかしそれでも、何かがあるという確信がある。説明しろと言われても説明できるものではない、いわば勘のようなものではあるが、ソレは確かに紡木の裡に在る。
「あぁ~~モヤる! こういう解決できねぇ疑問があるのってマァジで気持ち悪い! スマホが手元に無いのが本ッ当に悔やまれるぞオイ!」
紡木は頭をガシガシとむしり掻いた。
普段ならばパソコンやケータイ、図書館に行けば疑問の大半は解決する。
だがここは地球ならざる古代の世界。
そんな便利なものはなく、普段身に着けているケータイも、今頃は通学用のカバンと共に通学路のド真ん中で迷子だろう。
モヤが残るとその後の行動に少なからず影響が生じる。少なくとも紡木はそうだ。酷いときは一日中頭から離れない時もあるほどだ。
誰だって身に覚えがあるだろう。
覚えたはずの英単語の和訳がサッと出てこないとき、ド忘れしてしまった言葉が思い出せないときが。
アレだ。
あのモヤモヤ感が紡木は大嫌いだった。
「いや、気にしてても仕方ないんだけどな! ん~~でもやっぱり、気になるんだよなぁ……」
腕を組んで、空を見上げる。
モヤつきを抱えた紡木の心中とは違い、空には清々しいほどの青。少しの雲が浮かんでいて、天井に生える無数の枝葉の隙間からは暖かな陽光が差し込んでいる。
「時間で言えば、もうすぐ正午って辺りか? 正直、ちょっと寝すぎたな……食料調達に時間使えるかこれ?」
疲労というモノは恐ろしいと紡木は改めて痛感した。
こんな野生の環境でも、疲れが溜まっていると昼まで寝れてしまう。
『疲労こそ最高の睡眠を得るためのスパイスだ!』などと主張する人間もいるが、半分正解で半分ハズレだと心の中で軽く毒を吐いた。
効き目が強いスパイスにも程があるだろう。いい加減にしろ。
「なんにせよ、まずは降りないと何も始まんねえな。このままだと火も使えないし」
頭をポリポリと搔きながら、紡木は首を伸ばしてその眼下、地上を眺める。
何かいるようなら様子を見て待機、いなければ速攻で降りて探索。
今の紡木たちに取れる選択肢はその二つだけだった。
結果として、小型の恐竜もクマも含めて、捕食者になりうるような生物は視界には一匹も存在しなかった。
「とりあえず、今なら降りれそうだな。陽樹には留守番してもらって、食糧調達へと洒落込みますか」
当然のことだが、陽樹は連れていけない。
理由は簡単だ。逃げられないからだ。
「(もし捕食者に遭遇した場合、俺だけなら木に登るなり走ったりして何とか逃げられる可能性はある)」
だが陽樹にそれが出来るのか?
と聞かれてイエスと答えられるかというと、答えは当然の如くノーだ。
Q.小学三年生が山にいます。クマに追いかけられています。果たして少年は逃げられるでしょうか?
A.無理に決まってんだろバーーカ!
「……正直、置いていくのも怖いけどな」
置いていかれ、残された人間がどんな思いをするのか。
それは両親がいなくなったあの日からずっと、紡木が一番分かっていることだ。
もちろん、両親に死ぬ気があったなどとは微塵も思ってはいない。
だが結果として両親は死んだ。
あの日ほど運命を呪ったことはない。
あの日ほど未来を不安に思ったこともない。
あの日ほど、あの日ほど、あの日ほど──。
当時のことを、陽樹は覚えてなどいない。
なにせ八年も前のことだ。
だがここで万が一にも紡木が戻って来なかった場合、陽樹は八年前の自分と同じ思いをすることになる。
兄としては最悪だと、紡木は内心で自らに罵声を浴びせた。
それでも────
「それでもやんなきゃな。お兄ちゃんだし」
踵を返し、眠る陽樹の横で片膝をつく。
留守番してもらうことを伝え、食糧になる果物や植物、生物を探す。可能ならば集落や原住民との接触か探索まで。
これらの工程を一日で行う。
全てがうまくいく可能性は限りなくゼロだ。世界はそんなに都合よく動いたりはしないことなど、とっくの昔に知っている。
ぶっちゃけ紡木もゲロ吐いて嫌だと叫び出したい気分だったが、それを顔には出さない。
兄は弟妹に弱いところなど見せてはいけないのだ。
「おい陽樹、起きろ。もう昼だぞ」
一度、二度、三度と肩を揺らす。
起きる気配はない。
「おーーい」
最近になって少し瘦せてきた頬をペチペチする。
普段ならばここまでやれば起きるはずなのだが、よっぽど昨晩の逃避行が効いているらしい。
顔をグニグニしても、くすぐっても、全く起きる気配がない。
「えぇ……」
まさかここまで起きないとは思わなかったと、紡木は額に手を充てて天を仰いだ。
書置きしていける物があれば伝言を残し、一人で探索に赴けたのだが、そんなものは手元にない。
一瞬でも良いから起きてもらわねばならなかった。
「かくなる上はビンタしか……」
プルプルと震える手の平を上げ、額に脂汗が浮かぶ紡木。
やりたくはない、しかし時間がないことも事実。
やらねばならぬ、しかしやりたくない。
数瞬の葛藤。
そして平手が振り下ろされ、
「うわあっ!?」
「うおあぶねびっくりしたァ!! 起きたのか陽樹!」
瞬間、掛けられた上着を飛ばす勢いで陽樹がその上体を起こした。
手の平が当たる寸前、その手は忍びのように体の後ろへと回され、間一髪で手の平と弟ヘッドの衝突は免れた。
無事に起きたことで、内心でホッと息を吐く紡木。
しかし紡木の内心とは対象に、起きたばかりの弟の顔は動揺。
朝黒の肌には脂汗が浮かんで、息切れを起こし、手汗にまみれた手は力強く紡木のワイシャツの胸ぐらを掴んでいる。
あきらかに何か様子がおかしい。
まるで、有り得ないものを目の当たりにしたような表情。
「陽樹、いったいどうし──」
「声!」
「え?」
「聞こえた! 木の中から泣き声と鉄の音!」
「はあ!?」
一瞬、耳を疑った。
まさか。
ありえない。
自分の耳には何も聞こえていない。
木の中?
どうやって?
しかも鉄?
この恐竜の世界で?
濁流の如く溢れる疑問符。
それは到底信じることのできない内容だ。
「いや、陽樹……さすがにそれは」
「……! ほら! また聞こえた!」
耳に手を添え、森の中へと指を指す陽樹。
だが紡木の耳にはまたしても何も聞こえない。
音もなく、何もおらず。
一瞬、『ウソだ』と思わず口が動きかける。が、留まった。
「(陽樹は噓をつくような子じゃあない)」
弟が生まれて十年、妹が生まれて一六年。
紡木の中に、弟妹を疑う理由はほとんどない。
まして命が懸ってる状況だ。噓を吐く理由など無きに等しい。
「陽樹。声がした方向、分かるか?」
「え? う、うん」
「今も聞こえる?」
「……!」
紡木の問いに、コクコクと細かな頷きで陽樹は返した。
そして再度、森に指していた手を耳に当てた。
どうやら本当に、何かが聞こえているらしい。
眉を顰めたり、苦い顔をしていることから、あまりいい内容ではないのは確かだ。
「(しかし、なんで俺には聞こえないんだ?)」
モスキート音が未だに聞き取れる紡木でさえ聞き取れない何か。その正体も気になるが、その興味がモヤつきを帯びる前に紡木は思考の外へと追いやった。今重要なのはそこではない。
そして数秒、盗聴(?)が終わりを迎えると、陽樹が何かに慄いたかのように、恐る恐る口を開いた。
いったい何を聞いたのか、その眼にはハッキリと、困惑が見える。
「に、兄ちゃん……」
「大丈夫だ。ゆっくりでいい。何が聞こえた? 話し声は聞こえたか?」
子ども特有の柔らかな短髪の頭をガシガシと、不安を払うように撫でて続きを促す。
陽樹はグシグシとすぐに目元を拭い、頷き、そしてその耳に届いたことをゆっくりと口にし始めた。
「こ、声はちょっとしか聞こえなかったんだ」
「ん」
「でも、木が割れる音と、剣がぶつかった音みたいなのも聞こえてて……」
「おう」
「あ、あとすごいいっぱい泣き声が聞こえた……!」
「泣き声、か。……さっき、最初に聞こえた声、なんて言ってたか分かるか?」
「……『助けて』って」
「────!!」
紡木の背中に電流が走った。
そして弾けたように立ち上がる。
「に、兄ちゃん?」
「……日本語?」
顎に手を当てて思考を回す。
陽樹の言ったことが確かなら、音の聞こえた先には捕まった何かがいるとみて間違いない。
だが問題はそこじゃあない。
喋った言語が問題だった。
────ここは恐竜がいるような世界だぞ?
「……聞こえてきたのが日本語ってことは日本人、もしくは地球人であることはほぼ確定だ。あんな複雑な言語、異世界で同じように出来上がるとはとても思えねえ。だが……」
紡木の額を汗が滑る。
「(こんな森林地帯で子どもの泣き声なんて普通じゃあない。子どもを攫うゲリラの可能性だってある。鉄の音、大量の泣き声、おそらくは誘拐か人身売買。『鉄製の檻』があると見てもいいぐらいだ)」
声には出さない。が、同時に嫌な想像が頭をよぎる。
万が一、自分たちも捕まったら。
ゲリラに捕まった人間がどうなるのか。
紡木にはそれが明確に、そして容易に想像できる。
できてしまうのだ。
捕まったら者の末路がどうなるかを、紡木は知っていたから────
「兄ちゃん」
「……ッ! わ、悪い陽樹。考えごとしてた。どうした?」
「助けに行こう!」
「……え?」
「だって泣いてるんだよ? 困ってる人がいるなら助けなきゃダメじゃん!」
立ち上がった陽樹が、紡木の手を引いて引っ張り上げる。
小学生の力だ。大人からすれば大した力ではない。
しかしそれでも、紡木は引っ張り上げられた。
物理的な強さじゃない。
紡木を引き上げたのは陽樹の心の強さ、そして純粋さだ。
「いつもの兄ちゃんなら、ぜったい助けに行くって、おれ知ってるし。けっこーー怖いけど、兄ちゃんがいれば大丈夫だから!」
ニッ、と歯をむき出しで笑う弟の顔。
いつも通りの笑顔だ。
学校から帰ってきて、泥だらけで、友達との間にあったことを嬉々として報告して来るときと何も変わりはしない。
そんな普通の笑顔だが、
「(……ああ、これだ。この顔だ)」
紡木は今までの人生を思い返す。
祖父母に助けられながら部活もやって、勉強もして、バイトもして、面倒も見て。
何のために今まで頑張ってきたのか。
何のために今まで生きてきたのか。
想いの原点を思い出す。振り返る。
「(全部、杏と陽樹がいたからだよな……)」
最初は義務感からだった。
面倒を見る動機は兄だから、というだけだった。
父と母に『お兄ちゃんなんだから』と言われたのがきっと始まりだった。
でも今は違う。
いつからか“誇れる兄”になりたいと思い始めた。
────今の俺は、誇れるだろうか?
「噴ッ!」
「ワッ!?」
森に一際大きな乾いた音が響き、陽樹の肩が跳ねた。
音の出どころには、平手によってできた二つの紅葉模様がくっきりと残っていて、強烈な一撃が紡木の頬に加えられたことが窺える。
本音を言えば、紡木だって助けられるのなら助けたい。
だが嫌な予感を感じた。
見捨てる選択肢を取ろうとした。
右も左も分からない場所で、他の面倒ごと、ましてや命にまで責任を持てないと思ったからだ。
そして何より、弟を危険に晒したくない。
どれも本音で、どれも建前。
────だが、腹は括った。
「陽樹。靴ひもがほどけないように結んどけ」
「え?」
「泣いてるヤツら、助けに行くぞ」
「……! うん!」
紡木の決意の号令。
それに対し、陽樹はとびっきりの笑顔で応えた。
「鬼が出るか蛇が出るか、賽は投げた。後は動くのみ!」
覚悟の決まった男が二人。
片やトレーナー、片や学ラン。
策はあるが不確定要素大。
周りの景色に似つかわしくない格好の二人は巨木を下り、真昼の森へとその身を投じた。
陽樹の口調は子どもらしさを重視しています。
カエサルが言った『賽は投げられた』ってセリフ、マジで格好いいよね。さすがローマ。さすロマ。




