第一章 第四話『Hello New World』
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』
川端康成の代表作、『雪国』の冒頭の一文である。
この作品の主人公は普段は東京に住んでいるが、長く暗いトンネルを通り抜けて日常から離れた雪国に訪れる。その後の展開に対する感想は人それぞれだが、紡木は『ワクワク感』という感想を得た。
日常から離れ、新しい世界に身を投じる。
それは素晴らしいことだ。
悪しき環境、良い環境に限らない。
そこで体感したことは間違いなく、経験や知識として人生に彩を加える。悪環境にあっては後悔と反省を得られ、人によっては忍耐力や対応力などが身に着くだろう。
では良環境ではどうなるか?
これも個人に依るだろうが、ほとんどが自らの理想に近付くための糧を得られる。
とはいえ、これらはあくまでも理想論、実際にどうなるかは誰にも分からない。
では通り抜けた先が、別の国ではなく別世界だった場合、人はどうなるべきで、その結末はどうなるのだろうか?
それは、まさに『神のみぞ知る』というやつだ。
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「ぬおあぁぁぁぁぁーーーーッ!?」
降ってわいた落とし穴。
その中にあって、弟を背負っている紡木に出来ることはない。ただひたすらに光無き穴を落ち続けるだけだ。
「ヤバいヤバいヤバい!!」
真っ黒で光源の無い穴の中だ、周囲の様子は薄暗くて確認できないが、それでも段々と加速しながら落下していくことだけは肌で感じた。
このまま兄弟ともに地面に叩きつけられて死ぬか、それとも永遠に落ち続けるのか、あるいはこの先に待ち受ける何かに食べられでもしてその生涯を閉じるのか。
そんなネガティブに溢れた想像が一瞬の内にいくつも頭をよぎる。
「とにかく陽樹だけでも何とか……!」
考えたくもない思考に毒された頭を振って雑念を消す。
紡木は背負っていた弟を体の前面に移動、まだ自分よりもいくらか小さな頭を抱え、抱きしめた。
二人の体重を合わせれば九十キロ近くになるため、地表にぶつかったときの運動エネルギーは凄まじいことになり、原形が残る可能性は限りなくゼロだ。
「それでもやらねーーと!」
穴に落ちてからほんのわずか数秒しか経っていない。しかしそれでもかなりの落下速度となっていた。
助かる可能性はゼロに等しい。
もう、声は上げない。
ただ、静かに落下する。
紡木に出来ることは少しでも陽樹が安全に落ちれるよう、恐怖を嚙み殺して落下する先に顔を向けて、最適な落下姿勢を考えることだけだ。
揺れる水面が紡木の目に映った。
「は?」
と、声を発した一秒後には水面が目の前に迫っていた。
瞬間、落下していた二人の身体が水面へと衝突する。
高さによっては水面に叩きつけられることも充分な致命傷に至ることを知っていた紡木は、自分たちに降りかかる衝撃に備え、目を瞑ったまま全身の筋肉という筋肉を引き締めた。
しかし衝突の結果、発生した音は『グシャァ』でも『バシャァ』でもなく────『ぶにょん』という何とも気の抜けた擬音だった。
「ぬおっ、おおぉぉぉぉ!?」
シャボン玉のような触感にゴムのような弾性が、ギリギリと擦れる音を立てて凹んだ。
肌に触れた感じからゴム手袋に近いモノだと推測した。
が、何処か異様に冷たく、また湿っていることから、ゴムとシャボン玉の中間だというのがこの物質を言い表すのに適格だと紡木は判断した。
紡木の十八年の短い人生では感じたことのない材質だった。
色はない。普通であれば周囲の真っ暗な景色と同化しているのだろう透明な膜、それが紡木の目にハッキリと映り、今もなお限界まで伸びたゴムの如きギリギリといった音を立てている。
そして『スポンッ』と間抜けな音が響くと、膜は紡木と陽樹の二人を自らの裡へと招き入れた。
「えっ?」
助かったと思った瞬間に発生した膜の透過に、紡木の口から間抜けな声が漏れた。
が、それがハッキリとした音で発音されることはなかった。
「ガボボボボボッ!? がぼぉ!?」
代わりに響いたのは水泡音。
口から出たのは音ではなく空気。
肺と視界が薄黄色の濁った水で埋まり、同時に紡木の思考は苦悶と混乱に一瞬で満たされる。
気管支と肺が拒んだそばから再び侵入を繰り返す水のせいで、纏まる思考も纏まらない。
「ガボッ! ガボッ!」
────やべぇ、マジでシャレになんねぇ!
視界は濁っていてどちらが上で、どっちが下かも分からない。
紡木の脳裏に今度こそ『死』が浮かんだ。
あの暗い世界で死ぬのとはまた違う。分からないことだらけでどうやって死ぬかなど考えなかった場所とは異なり、現状の危機は元の世界でも誰もが知る『溺死』。
具体的で現実的。そして焼死と並んで最も苦しい死に方の一つに数えられるそれは、想像するだけで気持ちが悪い。
紡木に死を予感させるには十分だった。
────ちくしょう、ちくしょう!
せっかく遺跡から抜け出した矢先にこれだ。
こんなところで死にたくないと、身体はまだもがいている。
そして、もがいた足が何かに触れた。
「(……!!)」
砂だ、と紡木の経験が告げていた。
いや、砂というよりかは泥だ、と脳の何処かで軽い分析が入ったが、問題はそこではない。
視界の利かない今、重要なのは方向だった。
つまり必要だったのは足の方向こそが下であるという事実!
水の中にあっても未だに起きない弟を抱え、紡木は水面があると思しき方向へと砂地を蹴った。
「ぶはァッ!!」
そして思惑通り、そこには新鮮な空気があった。
「ゲホッゲホッ! ハァ……ハァ……」
肺の中から排水し、息を整える。
取り込まれた酸素が肺から心臓を経て脳や心臓、手足の先に到達するのが分かり、思考が少しずつクリアになっていく。
「ハァ……ここ、ハァ……足着くじゃん……ぜーー、ぜーー……助かった……」
幸いにも今の一蹴りで浅瀬に出たらしい。
腰から上が空気に触れたことと、呼吸が出来たこと、そして落下から生き延びたことのトリプルパンチで安心感が湧いた。
「けほっ」
「おっ」
紡木の肩口から軽く小さな咳込みがした。咳をしたのはこれまで一向に目を覚まさなかった弟、陽樹だ。
寝ていたところにいきなり水中に放り込まれるという中々に酷い目にあわせてしまった弟だが、そのおかげで目が覚めたらしい。
「兄ちゃん……?」
「おう、起きたか陽樹。ケガはないか?」
「うん、平気……」
「ハハッ、悪いな。後で何があったか教えてやるから」
「うん……」
寝ぼけているのか、それとも水中で苦しかったのか、はたまたその両方かは分からないが、陽樹の声はかなりの疲労感のようなものが含まれていた。
しかしそれでも、抱きかかえていることによって心肺が正常に作動していることは確認できた。
「(とにかく、よかった……)」
呼吸できるというのはなんと有難く、素晴らしいことだろうか。紡木は助かったという事実を噛み締めると共に、何処ぞの顔も知らない神仏に感謝した。
目を開ければ、そこには随分と久しぶりに見る気がする太陽が挨拶をしてくれた。
「やっぱ、太陽って最高だぁ……」
「あったかーーい……」
雲一つない空に天高く昇った太陽。
初夏の如き陽気が、疲れた二人の身体にじんわりと染み渡った。
────────────────────────
~~十分後~~
──side・紡木──
「と、いう理由なんだが……理解できたか?」
「う~~ん、全然わかんない、です!」
「はい、素直でよろしい」
取り敢えず岸に上がった俺たちは濡れた上着を脱ぎ、上半身裸の状態で巨大な湖の浜辺に座っていた。
巨大と言っても琵琶湖のような広さではない。湖というよりも巨大な池の方が定義としては正しいと思うが、こだわりはないため湖としておく。
色々なことが起きすぎて気疲れしたのかもしれない。
現在、俺たちは二人は足を伸ばし、のんびりと湖を眺め、そしてここに至るまでお互いの身に起きたことを確認しあった。
予想していたことではあったが、陽樹は何一つとして覚えていなかった。というより何も見ていなかった。
あれだけのことがあって、ついさっきの水中に至るまでの間に一度も起きなかったらしい。ウチの弟、豪胆すぎる。
「まあ……別にいいか」
あんな寂しい世界、知らない方がいい。
楽しかったのは最初だけだ。慣れてくると『危ない』『疲れる』『つまらない』の役満。おまけにヤバい生き物もいるときた。
そもそも当の本人も興味がなさげだ。ならさっさと忘れるべきだろう。
だが問題は胸の刺青と、体に潜り込んだキメラだ。
心臓の位置に刻まれたトゲトゲ鉄球模様は変わらず健在で、今もなお消える気配などは微塵もない。
「陽樹、どこか痛いとか調子悪いとかあるか? その……胸の部分がムズムズするとか、なんかそういった感じのでも良いからさ」
「え? うーーん、別になんともないよ! 元気!」
「そっか……良かった」
とにかくこれで、陽樹の体調という懸念は一先ずクリアだ。
内側からキメラに食い殺される、なんてことも考えたが、思い返すとキメラの大きさで陽樹の内部に物理的に収まるなんて土台無理な話だ。まず有り得ない。何らかの超常的な力で陽樹に取りついているのだろうが、今は放置するしかない。
次の課題に移ろう。
「さて、これからどうするべきか……」
それはこれからの行動指針だ。
晴れているおかげで視界は良好。
池の対岸からその周りまで全てが隠されることなく表出している。
現在地の情報を簡単に述べるならば、『山に囲まれた巨大な池』だ。整備された様子などは一切見受けられないから、人が来るような場所ではないことは確定だ。
「ここがまず地球かどうかも怪しいよなぁ……。地下なワケないだろうし、仮に地球だとしてもこんな場所に救援は期待できないからな……」
第一にここが地下だとして、それならここに来る前に通ったあの遺跡群の世界は何なんだ? って話だ。いくら帝国とまで呼ばれる群馬でも、地下にあんな広い空間があるわけがない。
しかもそこから落ちて脱出したと思ったら今度は湖の中だ。当然だが、いま目の前はにそんな世界も遺跡もない。
物理は専門外もいいところだが、ここと群馬が地続きでないということ、つまり空間的に断裂しているということは想像に難くない。
要するにここは全く知らない地で、そんな場所で人里を探しながら積極的にサバイバルしなければいけない、ということだ。
のんびり日向ぼっこが出来るぐらいの気温で、サバイバルするにはマシな季節なのが不幸中の幸い。
そして動くならば早い方がいいだろう。
「とにかく移動するか──
「に、兄ちゃん……」
立ち上がろうとした瞬間、座っている陽樹に袖を引っ張られた。
どうしたと陽樹の顔を見れば、その視線はこちらを見ておらず、信じられないものを視た表情と共に指を指した空へと向けられていた。
腕と視線をおって空を見上げる。
「…………………………ウソだろ」
それを見た瞬間、心臓が高らかに跳ねた。
ドクンドクンとうるさく鳴る度に涙が出そうな気がした。
ああ、これは確かに、誰が見ても信じられない光景だろう。もはや言葉では言い表せないほど自分の心が感動している。
誰もが知っていて、誰もが一度は夢見た存在、夢見た光景が、俺たちの目に映って空を飛んでいた。
「プテラノドン……」
俺たちが迷い込んだのは、紛れもない太古の世界だったのだ。




