第一話 『夜鳥家』
陽気漂う心地の良い春先の朝。
雪解けを済ませた春の空気は寒さを吹き飛ばし、花の香りと花粉を存分にまき、そこに住まう生き物たちに険しき日々の終わりを告げる。花粉症の方々は強く生きてくれ。
ああ、なんという素晴らしき日々、素晴らしい世界だろうか。
そう思う度に男の布団を抱く手が締まる。
このまま永遠に惰眠を貪りたいと思わせる、そんな絶頂の気持ち良さであった────
「起きろ~~兄ちゃぁぁぁぁぁぁぁん!」
「へぶぅうあッ⁉」
そんな幸福な時も、奇声を合図にすぐに終わりを迎えた。
唐突な衝撃。
その震源地は男の脇腹、その上だ。
この寝室は床が畳であり、布団越しでも押し付けられれば相応に硬くて痛い。付け加えればこの寝室で共に寝ている人間は一人のみ。よって犯人は分かり切っている。
男は痛む脇腹を抑えて、震源地たる犯人をじろりと睨む。
「おはよう兄ちゃんッ! おれ、早起きできたから兄ちゃん起こしに来たんだ! エラいだろ!」
「お、おう……そっか、偉いなよくやった……」
が、弟の笑顔に毒気を抜かれて苦笑いを浮かべた。
男からの誉め言葉で気を良くした犯人はニコニコの笑顔を浮かべ、隣に敷いてある自らの布団をよいしょよいしょと畳み始める。
弟の名前は夜鳥陽樹。
今年で十歳の小学三年生にして、夜鳥家の次男。
肌は日に焼けて浅黒く、運動神経抜群。さらに性格も良い上に、パッチリとした目と低すぎず高過ぎもしない鼻。要は顔がいいということだ。
学校でも女の子たちを虜にしているという話を聞くが、最近はクラスメイトの男子とケンカをしたという話も耳に入っていた。
「兄貴ーー、起きてるーー?」
寝室の扉を行儀悪く蹴り開けて響いた、気だるげな女の声。
入ってきた女の容姿は奇抜というより、組み合わせがおかしい見た目をしていた。
寝起きでボサボサな長い赤髮を後ろでまとめ、服は学校で買わされるようなラインの入った青のジャージ。色のバランスがめちゃめちゃであるが、本人は意にも介さない様子。
普段はパッチリ開いている目も寝起きのせいか半開きで、男が普段目にしているキリっとした姿など欠片もない。
『だらしない』という言葉の具現と言っても過言ではないだろう。
「お、なーーんだ起きてんじゃん」
「姉ちゃん! はよっ!」
部屋に入ってきた怠惰の具現に、布団を畳み終わった弟が飛びついた。
最愛の弟のハグに、女の怠そうな目があっという間に開かれる。
「おっはよ~~陽ちゃ~~ん! 今日もかわいいね~~!」
「姉ちゃんの方が可愛いよ!」
「あら上手! もう本ッ当にかわいいんだからも~~!」
「変わり身はっや……」
さっきまでの気だるげなオーラは何処へ行ったのか。
朝っぱらから目の前で行われるブラコン妹とシスコン弟のイチャイチャに、紡木はげんなりと重い息を吐いた。
この女こそが夜鳥家の長女という問題解決方法を教えてしまった張本人、夜鳥杏である。
高校受験が終わった途端、黒髪だった髪を真っ赤に染めだし、あろうことかそのまま高校に行こうとしているというちょっとヤバい女なのであった。
「アレ?」
重い息を吐き終わり、男は唐突に違和感を覚えた。
いつも一番遅くに起きるはずの杏が、いつもは一番早く起きているはずの自分を起こしに来ている。
「……ッ!」
弾けたように時計を見上げる紡木。
時計が示すは七時五十分。つまりこれは──
「寝坊したァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
夜鳥紡木、十八才。
高校の卒業式にて、遅刻確定ッ!
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身長百七十三センチ、体重六十八キロ。
目鼻顔立ちはバランスが取れているが、その鼻はちょいと低め。
カブトムシのような小豆色の髪をしており、現在の髪型は軽めのツーブロックに落ち着いている。
新しい学校では度々染髪を疑われるが、れっきとした地毛である。
目つきは少しつり目がちだが、至って普通の目だ。大き過ぎず、小さ過ぎず。
顔も髪型もそこまで珍しいものでもなし、それこそ都会には腐るほどいる若者といった風だ。初対面だったら『おっ、フツメンだけどそこそこいいじゃん』とか思ってもらえるレベルだろう。
特徴といえば左の眉毛に切り傷があることと、生物全般が好きだということだ。
なお、そのジャンルは問わない。
そんな彼の住まいは群馬県に在る。
『蚕道寺』という山と河川敷に囲まれた、富岡製糸場が稼働していた明治時代から存在する大きな寺があり、その庫裏(寺院の台所や僧侶が居住する場所)に祖父母と三兄弟、一匹の合計六人で生活している。
両親はおらず、現在は祖父母の保護の下で日々勉学と部活、アルバイトに励んでいる。
とまあ、卒業式前日にバイトを入れた結果、こうして遅刻しているわけだが。
「急げ急げ急げ!」
婆ちゃんの作ってくれた蜂蜜塗り食パンを口に詰め、紡木と陽樹は大慌てで玄関へと詰める。
ベージュのトレーナーを着た陽樹はともかく、学ランでまっくろくろすけな紡木にとってパンカスなど本来はもっての他である。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
ちなみに杏は受験も終わってお休みであり、住職である祖父は家事を祖母に任せて外出中(飲酒)である。
羨ましいと紡木は心の中で血涙を流した。
「行ってきます!」
「いってきまーーす!」
台所で洗い物をしている祖母の優しい『いってらっしゃい』を背に受け、紡木と陽樹は引き戸の玄関から駆けだした。
一歩外に出れば桜が舞い、スギ林と長い石の階段が出迎えてくれる。花粉症には最高の空間だ。今後は是非とも広葉樹林に植え替えてほしい。
そんな野蛮なことを思いながら階段を下っていれば、件のスギ林の中から白い毛玉が陽樹の頭部を目掛けて飛来した。
そして陽樹も、慣れた手つきで器用にキャッチ。
ハンドボール程の大きさもあるその白い毛玉に、陽樹はとびっきりの笑顔で挨拶した。
「おはようイコちゃん!」
白い毛玉は陽樹の頭の上で翅を拡げ、挨拶に呼応するかのように羽ばたいた。
そう、この巨大な毛玉こそが夜鳥家の最後の一員、カイコ蛾のイコちゃんである。




