武闘派眼鏡は伊達じゃない
「7年の時を経て馬鹿のB23はビ チのB30に進化を遂げていた」
怪しい職業に就いたアラフォー達と、見た目は天使、中身は男気不良のアラサードクター。
彼らが荒くれ者達と拳で会話をしながら恋を育むお話です。
初めましての方は曖昧な僕らを流し読みした方がわかりやすいかもしれません。
曖昧な俺ら単独でも読んで楽しんでもらえるように努力します。
ものぐさな男と家出少年の全く赤の他人同士の同居生活から7年。
ものぐさな男は相変わらず、再会した家出少年は白衣の天使に進化を遂げていた。
どんな風に仕事の連絡が来るのか、自分は普段は医者として働いていていいのかなど。
Bはボスに色々確認し、鼻で笑われた。
「何?」
「いや?根は真面目な瓶底眼鏡の坊ちゃんのままなんだなって思ってな。」
「真面目じゃなきゃ医者なんてやってられっか。」
目を据わらせ煙を吐き出すBは色気が溢れ出ている。
大股を開いて足首を膝の上に乗せ、小ぶりな尻をずらしてソファに踏ん反り返る姿は、相手がノンケであっても眼福ものだ。
ボスはうんうんと頷いた。
「その調子で敵を惑わし味方を増やしてくれ。それが君の主な仕事だ。」
「別に良いけど、G姐さんの方が適任じゃねえの?」
「恵麻は女の子だぞ。易々と男の邪な視線や危険に晒せるか。」
Bはボスの目力に驚き、煙草の煙を飲み込んでしまい、咳き込んだ。
「千隼も何だかんだ言ってでっかくなっちまってそっち方面じゃ使えねえからな。いやあ、助かった。期待してるぞ。」
「そんなもんが通じる様じゃ、あんたらの世界も大した事ないな。」
「人間、どこの世界でも基本構造は同じだからな。」
「ふん、何だっていいさ。あんたらは余計な危険が減ってハッピー、俺は色んな男とヤれてハッピー。どこにも不幸がない、最高の取引だ。」
ビールで喉を潤し立ち上がるBに、ボスは手を差し出した。
「よろしく。」
「…どーも。」
Bはボスの手を叩き、部屋を後にした。
このホテルは珍しく、よからぬ職業の金持ちの宿泊の受け入れ態勢が実によく整っている。
Bは新しい煙草に火を点け、深く吸い込み、長く吐き出した。
「どうだ、美味いだろ。糞爺のツラ見た後じゃ尚更な。」
Bは顔を覗き込むAを尻目に、また煙草を咥え、深く味わい、煙をAの顔に吹き付けてやった。
「今も小汚ねえおっさんのツラのおかげで格別にうめえよ。」
煙草を指に挟んだまま手を下ろし、廊下を歩く。
Aがついてくる気配に足を止め、斜め後ろを肩越しに睨んだ。
「何か用か?」
「新しい隠れ家決まるまで泊めろ。」
「やなこった。新聞買ってやるからそれに包まってろ。」
「日本人のくせに恩を仇で返す気か?」
「あんたに貰った恩はあんたの世話で十分返した。他に取引の材料がなければ話は終わりだ。」
「後腐れのねえセ クスを提供できるが?」
「ふん。俺のベッドは日本の領土だぜ?」
Bは犬歯を露わに歪んだ笑みを浮かべた。
「わかりやすく言ってやる。僕相手に勃つんなら考えてあげるよ。」
最後は日本語だ。
瓶底眼鏡の冴えない青年がAの脳裏を過ぎる。
Aの目元が歪み、Bは肩を震わせて笑った。
「悪いな。俺んちは狭いんだ。あんたみたいなデカい男を飼う余裕はない。他を当たってくれ。」
「別に俺はこれからテメエを尾行して部屋を特定して乗っ取ってやってもいいんだぞ?」
「そいつぁ構わねえが、俺はシステムと深いお友達だ。ケツを狙われるなら軍隊と警察、どっちが好みだ?」
「…おまえ、マジで節操無しか。」
「これでも医者だ。セーフティならダッチもディックも変わりゃしねえ。」
Bは体ごと振り返り、煙草を持ったままの指でAをさした。
「ついてくんなよ。システムと友達なのは本当だ。俺みたいな人間にとってこの国は治安が悪過ぎる。その点、システム連中は体も仕上がってるし、“関係を持ってる”と一石二鳥だからな。俺が住んでる所は家賃に馬鹿高い平和税が上乗せされてんだ。近隣住民の下世話な好奇心も刺激したくねえし、灰一つ落とそうもんなら楽園から追放される。」
「俺と住みゃ治安が悪かろうが関係ねえだろ。」
「…。」
Bは短くなった煙草を指先で摘まみ、深く吸い込み、吐き出した。
「Cさんと新しい部屋探せ。」
「馬鹿野郎。なんで俺とあいつが、」
「元彼の目から見て、かなり仲良さそうに見えるからだ。」
「やめてくれ。」
Aは両肩を抱いて震える。
Bの目は「無自覚か」と口程に言っている。
Bは携帯灰皿に煙草を捨て、両手をポケットに突っ込んだ。
「何度口説かれても無駄だ。今の俺にあんたの面倒を看てやれるような余裕はねえ。」
「だったら、」
Bの肩が跳ね、Aの片眉も跳ねる。
Cは腕を組んで片足に体重をかけ、Bの進路を阻んだ。
「清潔で知性的な見た目をしていて、料理も洗濯もできる男なら雇ってくれんのか?」
「Cさんの場合は本命の恋人と勘違いされて遊びにくくなるから不採用だ。」
「ぶはっ!」
Aが吹き出すのも無理はない。
今Bは、C相手では物足りないとはっきりと言ったのだ。
Cの眉間に深い皺が刻まれる。
「ガキが、たった一回のままごとで抜かしやがる。汚名返上の機会は一晩いくらだ?」
「残念、売り切れだ。次の入荷を待ってくれ。」
CがBの顔を覗き込めば、Bは大仰に避けてフードを被った。
Cがまだ腕を組んでいる内にと走り出そうとしたが無駄だった。
通り過ぎ様、Cの長い足に足を絡め取られ、フードを掴まれてやっと転ぶのを堪えられた。
見なくても、Cが美しい加虐的な笑みを浮かべているのがわかる。
「帰りたいのなら送ってやろうか?」
「結構だ。」
「君みたいな可愛い子ちゃんが一人で歩いて帰るには危ない時間だ。タクシーだって魔が差して人気のない路地裏に寄り道してしまうかもしれない。」
「はっ、別れた彼氏に偉そうな態度とられたくねえんだけど。」
「別れたからこそ、どんな態度とろうが勝手だろ?」
Bの掌底をCはかわして手首を掴み、反対の手でBの首を掴んだ。
「俺もそこの脳筋と殆ど変らねえ育ちの悪さでな。首輪が外れりゃただの野犬だ。食い散らかされたくなけりゃ、大人しく皿まで歩いて腹を見せろ。」
BはAの視線に気がついていたが、助けを求めるつもりはなかった。
Cが手の力を抜けば、Bは大人しく歩き始めた。
CはAに目が笑っていないウィンクを残してBに続いた。
医者になりたいと、強く思った。
ただの医者ではない。
危険な任務をこなすという、特殊な技能を持った彼らと肩を並べられるだけの人間に、だ。
自分が努力してできる事は、できればいいと思った事は、それだった。
彼らの役に立ちたいからという、殊勝な思いではない。
名前も出自も何も知らない彼らと、生きている内に再会できるかどうかは運次第だった。
だから、誰がどこで何をしていようと、関係ない。
自分以外の何にも囚われず、自由の中で、胸を張って自分の足で立てるようになりたかった。
いつでも、彼らがふらりと現れた時に、子ども扱いをされないように、庇護対象にならないように、一人前として認めてもらうために、なりたい自分に、なった。
Bはこの7年間、本当によくがんばった。
自分で自分を褒め称えてやりたい。
煙草や酒、一時の快楽に溺れて眠るのは、がんばった自分へのご褒美だ。
自分の努力に対するご褒美としては、ささやかなものだとすら思っている。
文句を言われたくないし、取り上げられてはたまったものではない。
もうそれらは自己を形成するもので、なければ生きていけない。
しかし、最近はそれに溺れるのも難しくなっている。
煙草は惰性で吸っているので、パッチがあれば別に爪楊枝でもいい。
酒は年々強くなって酔い難くなり、普通の快楽ではどうも物足りなくなった。
その、地味に蓄積するストレスの要因が、役に立つ日が来たのだ。
「どこに行くんだなんて、野暮な事言うなよ。」
明日は休みだ。
普段ならしこたま酒を飲んで適当に男を捕まえて、ホテルのふかふかのベッドの上で好きな時に目を覚まし、至福の一服を味わう。
クイーンには最高の休日の始まりが約束されている。
自分はその邪魔をしているのだと、Cに釘を刺した。
それは建前で、酔わせてしまえばこっちのものだという、安直な作戦だった。
過ぎたアルコールはネコよりもタチに影響が出る。
安直過ぎるが確実な作戦は、明確な意思表示でもある。
Bは鼻を鳴らし、馴染みの店の、黒い扉を開いた。
今夜は連れがいてもフードは被らない。
別の男から声がかかればわざとらしくCを袖にしてやれるし、乱交歓迎な男から誘いがあれなおよしだ。
流石のCも“諦める”だろう。
Bにとって、Cが優しく、まだ自分に気があるのが問題だった。
もう自分はあの頃の自分とは違う。
しかし、Cはまだ、今の自分にあの頃の自分を見ている。
Cが自分をどう見ていようが、どうでもいいと思っていた。
敏いCなら、いずれ違いに気づき、その様に扱いを変えてくれるからだ。
誤算だった。
まさか、今の自分が、Cが見ているものに引きずられるとは思っていなかった。
かつての自分は淡白だと思っていて、今の自分は間違いなく淡白だ。
どんな育ちをしたのか、あの綺麗な目はそれを許してはくれない。
それがあるのであれば出し惜しみせずに自分に与えてくれと、今も変わらず訴えている。
Bは目を覚まし、腹筋だけで起き上がった。
ベッドの端で服が落ちた。
レーシックをしたての頃は、見えていても癖で眼鏡を探したものだが、今は無意識に煙草とライターを探す。
煙を吸い込み、やっと自分が起きている事を知り、吐き出し、自室である事に気が付いた。
「(ん?)」
自分は全裸だ。
指輪やブレスレット、アンクレット、ネックレスにピアスは健在だが、衣服は纏っていない。
それ自体に取り乱す様な健全な精神はとっくに崩壊し、そんな健全な生活は随分とご無沙汰だ。
問題は、ここが自分の部屋である事だ。
この7年、恋人がいた事はない。
いたのはセ レが、数え切れないほどだ。
ヤリ目的の男はもちろん、知人ですら部屋には上げない。
それが自分を守るために引いた一線であり、7年間、引っ越しを挟んでも突破された事はない、最終防衛線だった。
とりあえず空気清浄機を起動させる。
この賃貸は珍しく禁煙ではないが、臭いがつくと大家に怒られる。
「よお、お目覚めか?」
電子音に反応し、ノックもなしに扉が開く。
現れた呑気なAの小汚いツラに、Bは目を据わらせた。
「ナイフ持ってっか?」
「持ってるが、何に使う気だ?」
「パンイチでどこに隠し持ってんのか知らねえが、あんたとヤッたかもしれないという可能性だけで死にたいからだ。」
「おいおい、覚えてねえのか?」
「家に帰った所までは覚えてる。でも、全裸の理由は覚えてない。」
Aはニヤニヤと笑う。
BはAの先手を打った。
「あんた、おっさんになったな。目尻の小じわが老いを感じさせる。」
「俺今ナイフ持ってるって言ったよな?」
「だからどうした。それで自殺してくれるならありがたいくらいだ。」
欠伸をしながら煙草を揉み消すBに、Aは溜め息を吐く。
「医者がそんなもんぱかぱか吸ってていいのか?」
「勤務中は吸えねえし、事後と目覚めの一服以外は不快なツラか酒の肴にしか吸ってねえよ。」
「しかって意味わかって使ってんのか?」
「人をパシッてまで吸い散らかしてたヘビースモーカーに何も言われたくねえ。」
そこでBは気がついた。
Aが煙草を吸っていない。
「やらねえぞ。」
「いらねえよ。」
Aは今も伊達眼鏡をかけている。
フレームは言わずもがな、Bの母親の形見だ。
Bは頭を掻き毟った。
「風呂、入るわ。」
「さっき、俺の後にCが湯、張ってたぞ。」
「ありがてえ。」
「やっぱ日本人だな。」
「そうだな。部屋が狭くてもバスタブ付きは譲れねえ。で?」
全裸のまま部屋を出ようとするBに道を譲っていたAは、並んで見上げるBに首を傾げる。
BはAの髭面を掴んで左右に振った。
「すっとぼけてんじゃねえ。抜き打ちテストの結果は?」
「中止だ。」
「合格でいいだろ。」
湯上りの髪をタオルで掻き回すCに、Aは呆れる。
その呆れは、Bの交遊関係に対してもだ。
「まさか麻取が来るなんてな。」
昨夜、BとCが酒杯を傾けているところに、市民から通報を受けた捜査官が乗り込んで来たのだ。
もちろん、Bが馴染みにする店だ。
その様な事実はない。
上等な酒と肴と空間を提供し、紳士と紳士の出会いを後押しする。
それが店の方針で、何人にも揺るがせない。
店を出た瞬間から知ったこっちゃないが、少なくとも店の中では口喧嘩も許されない。
しかし、公的機関の介入はたまにある事だ。
誤解は直ぐに解けるが、問題はCの素性だった。
旅行者という事にしておけば職業まで詮索される事はないが、宿泊先の聴取やパスポートの提示はご挨拶だ。
『この人は日本でできた友達だ。荷物は俺の部屋にある。』
それからCは麻取の目を盗んでAにB宅へ先回りさせ、荷物と偽造パスポートを届けさせた。
鍵はどうにでもなるだろうと思った通り、Bがさも鍵は友達に預けている風を装ってインターホンを鳴らすと、眠たそうなAが「早かったな」と顔を出した。
捜査官としては店に突入したからには何としてでも成果とまではいかなくても行動に出てもおかしくないくらいに疑わしいと思える様な事実を得たいところではあった筈だ。
相手が旅行者なら後腐れがなく、丁度良いカモだ。
だから家までパトカーで送ってくれた。
しかし、監視カメラの映像まで見られなかったのは、管理人を起こそうとする捜査官にBが魔法を唱えたからだ。
『ああ。この地区の担当だと、今あんたの上司は誰々か。最近会ってねえが、元気にしているか?』
効果てき面。
捜査官の上司が、Bのオトモダチだったのだ。
捜査官は、思い出した上司の性癖と噂を目の当たりにして、目元を歪めた。
それに噂が本当なら、相手は医者だ。
もし強引な捜査が原因で風評被害を受けたとして損害賠償請求でもされたら、出世どころか上司の機嫌が悪ければ左遷だ。
『せっかくだ。茶でも一杯どうだ?』
『いや、結構。』
Bの妖艶なお誘いに、捜査官は生唾を飲み込んで帰って行った。
その後だ。
Bは記憶がない。
Cを酔わせようと、いつもより飲んだ。
それはもう、Cの奢りだと言うから遠慮なく飲んだ。
かつ、前夜はボスとFを相手に朝までお楽しみ、当日は仮眠もとらずにシャワーで気持ちを切り替えて出勤し、残業までこなして疲れていた。
そんな状態で7年間死守した最終防衛線を超えたのだ。
Bは急にスイッチが切れ、前傾を堪える事で前進し、その間に窮屈な衣服を脱ぎ散らかし、ベッドにダイブしてそのまま泥の様に眠った。
記憶がなくて当然だ。
しかし、そもそもBが知っている限りではAもCも寝込みを襲う様な卑怯者ではないというより、起きている人間に嫌がらせをして楽しむタイプだ。
体に異常もなく、警戒は疾うに解いている。
最近のBは、風呂上がり、昔は同居人に殺意を覚えた格好、つまり半裸でいる。
阿呆のAは何も思わなかった様だが、CはAとBのだらしなさに溜め息を吐いた。
Bは食卓の椅子に片膝を立てて座り、Cが用意してくれた朝食を咀嚼しながら向かいに問う。
「Cさんの誘惑に負けず煙に撒けたら文句なしの合格だったんだろうが、麻取撒くよりそっちの方が難しい事はボスもわかってんだろ?」
「いや、おまえが自分の保身のためにCを売ったりしねえかを見てたんだろ。タイミングが良過ぎる。大方Fが通報したんじゃねえか?」
「阿呆は黙ってろ。」
Aの回答に口を挟んだのはCだ。
二人掛けの食卓は小さい。
大の男三人が群がるとかなり狭苦しい。
「俺達にとって目的の達成が最重要事項だ。仲間を切り捨ててでも、最後に誰も残らなかろうが、結果だけは残す。それが俺達の生きる世界だ。」
Bは黙々と朝食を咀嚼した。
「今回の横やりがボスの差し金であれば、正解は俺を残して一人で家に帰る、だ。追手を撒けない奴はいらないし、仲間を切り捨てる決断力がない奴もいらない。それにあの程度、俺達にとってはちょっとスリルのあるお遊びだ。仲間を信じられず、敵を懐まで招き入れる様な愚鈍な奴は一番いらない。」
「成る程、そうか。」
あっけらかんとしたBの声が、リビングに響いた。
「ご馳走様でした。おいしかったです。」
Bのわざとらしい合唱に、Cの眉間に皺が寄る。
Aはその意味を知り、口の端を吊り上げた。
Bは片眉を上げてAを窘めた。
「悪いな。休みとはいえミチェル先生は忙しい。院長の友人が卒業論文を読みたいってんで、仕事の合間に修正してたんだが、持って帰って来んのを忘れてた。待ち合わせの時間までそんなにねえし、行くとこねえなら部屋にいてもいいが散らかすなよ。必要なら話は帰ってからだ。」
「話はない。」
「じゃあ鍵は管理人に預けといてくれ。」
Bの、二十代前半から比べると痩せた上半身がシャツに包まれる。
細身のスラックスの上に太いベルトと細いチェーンが巻かれ、細いカジュアルなネクタイを緩く巻き、ジャケットを羽織った。
足元がワニのマークのサンダルである事を思い出し、部屋に引っ込んだ。
ベルトと同じ色の革靴を履き、ジャケットと同じ色のハットを被って出掛けて行った。
Aは激甘珈琲を飲みながらBの席に座って見送り、Cに対して目を眇めた。
「ガキに気ぃ遣われてる様なクソガキも仲間にゃいらねえぞ。」
「くそ、試されてたのは俺か。」
Aは空になったカップを置き、頬杖を突いてCの情けない顔を覗き込んだ。
「成る程、思い出したぜ。Bを仲間に入れて一番腐りそうなのはテメエだったな。」
「俺が姑よろしく不合格だとクソ親父に報告すれば、クビを切られるのは俺だったってわけだ。」
「今回の件で予想されるあいつのまだ見ぬヘマと、あいつがもたらす現実的な利益を天秤にかけりゃ、それこそテメエが言った通り、Bの参入は“ちょっとスリルのあるお遊び程度”だ。仲間を信じられず、その利益をむざむざ捨てるのはやっちゃいけねえ事だっつうのは俺でも“理屈”でわかる。」
「Don’t think feelの代名詞でもわかる事がわからねえようじゃ、そろそろ引退か。」
「…あー、それは違うんじゃねえか?」
Aの意外な言葉に、知らず俯いていたCの顔が上がる。
Aは珍しく、C相手に一生懸命言葉を探していた。
しかし、直ぐに諦めたのは表情でわかった。
「小難しい事は考えようとするだけで死ぬほど面倒くさくて萎えるな。」
「もうええわ。…俺も脳筋や。なんとなくわかった。」
Bはもうボスにとって一人の部下だ。
ボスが部下に選んだからには誰が何を言おうとCらの仲間なのだ。
それが嫌なら辞めろとボスは安直にキレた上に、自分の人を見る目を疑われたまま黙ってもいられない。
自分がこき使っても生き残れる部下ならば、抜き打ちテストで何故Bを部下にしたのかわかる筈だ。
その理由がわかれば、新しい体制での任務に支障を来たす、不信や心配の種を摘めると確信していた。
だから、Cに嫌なら辞めろと言った訳ではない。
嫌な訳がない。
自分はこれ以上ない目の肥えた優れた上司だと、見せ付けたかっただけだ。
ただ、ボスの評価についてCの認識とボスの認識は平行世界に存在しているためにCは思いもよらなかっただけで、少し考えて見ればそういう事かと確信できた。
その点、Aは、今回もボスが言いたい事を肌で感じとり、細菌の様に脳まで到達はしたが、基本筋肉で出来た脳味噌はあれこれと難しい事を考える事はなく、だからといって簡単に操られるほど野生を捨てた訳ではない。
Cは脳味噌の筋トレに励む事を決意した。
「マジであの親父、何なん。」
「俺の知ってる方のBなら、何食わぬ顔で出掛けて、俺の与り知らぬ所で一発横っ面にぶち込んでる頃だな。」
「ボスが見込んだ今のB君なら、俺に呆れてるだろう。」
「いや、Bなら喜ぶんじゃねえか?その上で今のあいつならうまく立ち回るだろ。」
Bは必要なら話は帰ってからだと言った。
Cは自分に呆れてものが言えない。
とりあえず清潔感のある男として現状を放置できない。
空になった食器を下げ始めた。
Bは職場をうろつくために、更衣室でハットを脱いで白衣を羽織った。
ポケットに名札を付け、医局へと向かうまでに患者の子ども達に囲まれた。
挨拶を返すだけで他に喋らず、白衣の裾を握らせたまま廊下を歩いた。
Bの歩く速さが少しだけ緩むのが、子ども達にはいつも伝わる。
少し怖い印象はあるが、冷たい訳でも誰かを贔屓にする事もない。
大人にも子どもにも態度は変わらず、しかしそれ相応の扱いはする。
それが子ども達には嬉しかった。
「今日はお休みじゃないの?」
「ああ。忘れ物とったら直ぐ帰る。」
「そっか、残念。いや、お休みなのに先生と会えたからラッキーだね。」
Bは子ども達を見下ろし、微笑んだ。
そして直ぐに前を向いてしまった。
さらに残念な事に、その顔が必死の形相の看護師を見て歪んでしまった。
「ミチェル先生!?」
「いや、俺は休みだからここには存在しない。」
「そんな事言わないで助けて下さい!患者が暴れて大変なんです!」
「俺はドクターであってガードマンじゃねえぞ。」
「未来の伝説の衛生兵が何言ってんですか!」
「マジで引き抜かれそうだからあんまり言い振らすなって言ってんだろうが。」
医療関係者は希望すれば軍の訓練に参加する事ができる。
つまりは衛生兵としての訓練であり、衛生兵は国際条約で保護されるべきなので、基本的には屋根と物資がない場所での治療訓練になる。
衛生兵は敵に保護された場合は有事であれば人質にされるという事もあり、これについては衛生兵の訓練というよりは衛生兵を抱えた部隊編成の訓練の筈だった。
衛生兵は大人しく降伏しているべきだったのだが、如何せん軍側もまさかそうなるとは思いもしなかったが故に、状況と衛生兵に求める模範行動の周知を徹底していなかった。
看護師がBの胸倉を掴み、引き摺った。
Bは抵抗もしなければ自力で歩く事もせず、大人しく連行された。
「いつまで待たせんだよ!こっちは高い金払ってんだぞ!」
「おい、あれのどこが患者だよ。元気じゃねえか。つーかまだ払ってねえだろ。関係は対等だろって何語で話せば通じるんだ?」
受付に拳を打ち付け怒鳴る男は大きく、筋骨隆々としていた。
タンクトップからこれ見よがしに覗く刺青が禍々しく、兵隊でなければロクでもない職業に就いているのは間違いない。
受付の女性スタッフが恐怖で青褪め、震える事しかできないのに、男は怒声を発し続けている。
待合室で、母親達が自分の子どもを抱え込み、子どもの口を手で覆っている。
怖くて泣き始めた子ども達に男はキレたのだろう。
駆けつけたであろうガードマン達は待合室にいる他の患者を安心させる事に徹している。
つまり受付の男と待合室の間で突っ立っているだけだ。
ガードマン達はBに睨まれる前に深々と頭を下げた。
そこで初めて受付は大天使降臨に気づいて元気を取り戻し、怪訝そうに振り返った男は医者を見つけた。
「ほら見ろ!暇そうにしてんのがいるじゃねえか!」
「悪いか?医者も人間だ。休みくらいある。」
飄々としたその態度に、受付の女性スタッフ達が信頼の眼差しを向ける。
「人命第一だろ!?さっさと見てくれ!」
「生憎、俺は小児科医だ。休みを返上するならあっちで震えてる子どもの心のケアを優先する。」
「ふざけんな!ガキどもはたかが風邪だろ!?」
「医者でもねえ奴が勝手に診断してんじゃねえよ。それに、大人にとってはたかが風邪だろうが子どもにとっては違う。テメエも患者ならデカイ声出して他の患者の苦痛を助長させんじゃねえ。」
「怒らせてんのはテメエらだろうが!」
Bはつかつかと受付に歩み寄り、激昂する男の隣に立ち、受付を指で招く。
受付は黙って問診票をBに渡し、また逃げて行った。
Bはしばらく目で字を追い、深い溜め息を吐いた。
「こいつぁ大変だ。あんたもなんで早く言わなかったんだ。」
その場にいる全ての視線がBに向けられる。
Bは助からない患者を前に、深刻そうな顔で男の両肩に手を置いた。
「特別に一番にここで診察してやる。俺が暇しててよかったな。」
「ちっ!最初からそうしてりゃよかったんだよ。」
やっぱり未来の伝説の衛生兵でも、面倒な男には屈してしまうのか。
受付が少しガッカリした時だった。
Bは口の端を吊り上げて不敵に笑った。
「あんたの病名は馬鹿だ。こいつぁ不治の病でつける薬はねえが、家で安静にしてりゃ拗らせる事はねえ。お大事にな。」
ぽかんとする男に、Bは安心させる様に微笑む。
「何、検査もいらねえ簡単な診察だ。特別にお代は取らねえよ。」
「ふざ、けるなあああ!」
男は当然、激昂した。
慣れていない患者達は両手で顔を覆ったが、そうでない者達は目を輝かせた。
男の、B目掛けて突き出された、人を殴り慣れた重い拳が空を切る。
Bは両手をポケットに入れ、首を傾げた姿勢で男を見上げた。
「何だ?蝿でも飛んでたのか?」
「くそが!」
男は、最初は単発的な拳を繰り出すだけだったが、徐々に喧嘩慣れした動きに変わって行った。
そして、聴衆の気持ちも変わって行った。
子ども達の眼差しは恐怖から羨望に変わり、一人一人に声をかけなくても心のケアは十分だった。
Bは全てを避け、男はひどく消耗した。
男が自分の汗で足を滑らせた時、Bは初めてポケットから手を出した。
あまりの速さに視覚の理解が遅れる。
気づけばBの右拳は男の眼前に突き出されていた。
Bの体勢は、この国ではあまり馴染みはないが、明らかに格闘技を極めた綺麗な構えだ。
右肩や構えた左拳越しに見える横顔は研ぎ澄まされていて、男を見る目の冷たさに誰もが見惚れた。
Bは怯える男の鼻を、拳はそのままに小指で弾いて男の時を動かした。
「カルテには今朝食ったシリアルの賞味期限が一年前のものだったとあったが、安心しな。そいつはテメエに害を為す前に出てっちまったよ。それはテメエのパンツがよく知ってる。」
震える足で逃げ出した男を、Bは構えを解いて手を振って見送った。
男はなけなしのプライドで自動ドアの前で振り返った。
「お、覚えてろよ!」
「その情けねえ後ろ姿をか?」
「くそ!」
今度こそ男は去って行った。
まだ時が止まったままの待合室からBはさっさと退散しようとしたが、拍手の音に足を止めた。
振り返れば目的の人物が立っていた。
「プロフェッサー?」
「いやあ、素晴らしい。約束まで時間があったので、君が働く病院を見てみたくて寄らせて貰ったのだが、実に有意義だったよ。」
「これはわざわざ御足労いただき恐縮の上、お見苦しいものをお見せしました。」
「これだから日本人は。謙虚過ぎるのもどうかと思うよ。」
「ふ。俺はプロフェッサー相手に腕っ節の強さでは謙虚を貫きますが、医師としての腕前を謙遜するつもりはありませんよ。」
「はは!」
談笑しながら応接室に向かう二人の背を、マスクをした英国紳士は新聞紙の陰から覗き見送った。
「(武闘派眼鏡は伊達ではなかったが、眼鏡が頭脳に意味を変えてもその称号は健在か。)」
その口元は呆れに歪んでいたが、合格を意味していた。
夕方、Bは、ボスに掴みかかったところを珍しく機嫌のいいFに止められ、不機嫌に帰宅した。
しかし、管理人から鍵を渡されなかったので、機嫌を直した。
インターホンを鳴らせば、小汚い髭面が顔を出した。
「ただいま。」
「おけえり。」
「晩飯はできてるんだろうな?」
「Cが作ってる。」
「最高。」
「ビールは?」
「どうせ飲み干してるだろうと思って買って来た。」
「さすがパシリ。」
「はっ、テメエに飲ませるビールはねえよ。自分の分だ。」
BがAを押し退け入ったリビングは、いい匂いが充満していた。
食卓に並べられているのは、B好みの低カロリー高たんぱく質の料理だ。
いつの間にか二人掛けの食卓に折り畳みの椅子が増えているのはいいが、AとCは何食わぬ顔でセットの椅子に踏ん反り返り、家主にビールを催促した。
必要なら話は帰ってからだと言ったが、Cが言うように本当に必要はなかったようだ。
Bはなんとなく始まったであろう先輩後輩関係の具現化に、頬を痙攣させた。
早まったかと思いかけたが、それこそが早計だ。
自分が医者であり、二人が無謀な脳筋である限り、これから復讐の機会はごまんとある。
下剋上も時間の問題だ。
ビールを思いっきり振ってから二人に投げ渡し、折り畳みの椅子を軋ませた。
おかえりはこっちの台詞だ、阿呆。 by B
(おい、こんな時間から遊びに行くのか?)
(遊びたいのは山々だが今日からしばらく夜勤だ。)
(ふうん。え、おまえ今ビール飲んでなかった?)