16 バブちゃん、勇躍す
今や蝿の王ベルゼバブは立ち上がって、自分の身体を点検するように、あちこちペタペタ触っている。
「すうはあ、これなら帰れるかなあ……テン、助かったよ。ありがとう、すうはあ」
「バブちゃーん」
「だからバブちゃんじゃないってば」
そう言うとベルゼバブは、口元に当てていたヤギの膀胱をスッ、と外した。
すぐに少女の全身を、紫色の瘴気がブワッ、と覆い尽くす。
手にしていたヤギの膀胱は見る見る腐り、あっという間に粉々になった。
凍りついたように立ち尽くしたピピンたちの傍らを、ベルゼバブは一顧だにせずに通り過ぎて行く。
――それが魔族の、人類に対する正しい対処。
そもそも、呼吸する大気さえ違う生物である。
魔族と人類は共生どころか、わずかな触れ合いさえ許されない。
「バブちゃん――もう帰っちゃうの?」
「ああ。テン、それから君たちも世話になったね、ごきげんよう」
「えーーーっ。バブちゃん、ずっと寝てたじゃない。あたしと遊ぼーよぉ」
シマリスみたく頬をブンむくれさせてるテンだけは、人間も魔族も関係ないようだ。
「あはは、ありがとう。そう言ってくれるだけでも、僕は嬉しいよ」
ベルゼバブの浮かべた微笑みがどことなく寂しげだったせいか、ピピンたちも立ち去る彼女の後を追って家の外に出た。
折しも陽が山の端まで傾き、夕焼けがベルゼバブの美しい肢体を照らしていた。
果樹林の手前まで歩いた彼女は、すっとこちらへ向き直って、また寂しそうに微笑んだ。
「テン――いつかお前と一緒に遊べる日が来ると、いいな」
「うん、また遊びに来てねーっ」
ぴょんぴょん跳びながら手を振るテン。
話は微妙に伝わってない。
「さて、と」
ベルゼバブが軽く伸びをすると、彼女の背から翼が生えてきた。
瘴気に覆われ、紫色に染まっているが、その翼は天使にも似た形状をしている。
「帰りは、夜になっちゃうなあ……蝙蝠が一緒に飛んでくれると、いいんだけど」
そんな事を呟きながら、翼の羽ばたきが次第に大きくなり、ベルゼバブは上空へと浮かんでいった。
そして見上げるピピンたちを見下ろす。
「ギャラリーも居ることだし――恒例の景気づけやるから、君たち付き合ってくれ」
「お安い御用よぉ。何やるの?」
「テン。悪魔の提案を秒で受けるの、どうかと思うぞ……」
「ありがとう」
ベルゼバブが目を細めて、ニッと笑う。
そしてすう、と息を吸い、吐き出すと身体を包む瘴気が、一気にその量を増した。
「うはははははーっ」
いくらか声色を使ってはいるが、天地を轟かすような笑い声、ではなく、今まで通りの少し可愛らしい声だ。
「地上の下僕どもよ、恐怖するがよーい」
そうして地上のピピンたちを睥睨する。
「われこそは、悪魔の中の悪魔、人呼んで蝿の王、バブちゃんであーる」
「――あ、まちがえた……」
かなり凍りついた空気の中、ベルゼバブがポツンと呟いた。
テイク2。
その前に、軽い打ち合わせを行う。
「すまない、もう一度付き合ってくれ。それからテン、僕が口上を述べたら『わーすごーい』と拍手するんじゃなくて『わーこわーい助けてぇ』と怖がってくれ。いいね?」
「うんわかったっ」
あまりの返事の良さに、少し不安げな表情をするバブちゃん――本人さえ間違ったし、もうバブちゃんで良いだろう。
「少し練習してみよう――せーのっ、さん、はいっ」
「わぁこわいーたすけろぉ」
かなりの棒読みだったが、曖昧に肯くバブちゃんだった。
「じゃあ、行くね――これやった方が元気が出るんだ、すまないけど」
少し申し訳なさそうに再び上空へ羽ばたく、バブちゃん。
ごくり。
ピピンたちは固唾を飲んで、バブちゃんを見守る。
幸い二回めは、バブちゃんも間違えずに口上を述べられた。
テンも『すこわいー』と多少混同があったが、きちんと怖がる事が出来た。
満足そうに肯くバブちゃん。
「ではごきげんよう――また逢おうね、テン、それからピピン」
バブちゃんはくるりと上空で向き直ると、北の山の向こうへ羽ばたいていった。
「バイバーイ、バブちゃーん」
見えなくなるまで手を振るテンの隣で、ヤンが屈んでピピンに耳打ちした。
「お師さん――バブちゃんの前で、お師さんの名前、誰も言ってないですよね?」
「ああ――知ってたな、俺の名前を」
家に戻って今後の事を話し合おうと振り返ると、家がエラい事になっていた。
「姉さん――バブちゃんをベッドに寝かせてたのって、いったい何時から?」
「んーとっ、お昼ご飯の前だよっ」
「――という事は、かれこれ五時間以上……」
「魔族をそれだけの時間、家に入れてたら、こうなるよなあ……」
魔族の放つ瘴気は、地上に暮らす生き物の肺を焼き、皮膚をただれさせ、長く留まるとあらゆる有機物を腐らせる。
バブちゃんを半日もベッドに寝かせていた木造の家は、瘴気によってどんどん腐り、跡形も無く消え去っていた。
「いえ……」
「なくなっちゃったね……」
瘴気のわずかに残る家の跡地で、四人は呆然と立ち尽くした。




