15 蝿の王、バブちゃん
結論から言うと、テンはピンピンしていた。
吸い込むと肺が焼けてしまう、いちめんの瘴気の中で、普通の人間であるテンがどうして平気だったのかは謎だったが、それもすぐに解けた。
テンの質素なベッドに、魔族の女の子が寝かされていて、テンはその傍らで、心配そうに魔族の顔を覗き込んでいる。
「くっ、苦しい……」
いきなり瘴気を吹き飛ばされたので、魔族の呼吸が苦しそうだ。
「ふーーーっ」
喉を詰まらせながらも、大きく息を吐いた――魔族の呼気はもちろん瘴気で、その紫色の気体がテンの顔を直撃しそうになったが、何と直前で、瘴気がテンを避けて通り過ぎていった。
テンの運の良さは、どうやら大気の流れまでコントロールしてしまうらしい。
「姉さん……これ、どういうこと?」
セージの疑問ももっともで、今、三人が目にしている光景は、テンが進んで魔族を匿って看病しているようにしか、見えない。
「バブちゃん、だいじょーぶ? しっかりして?」
テンはセージの問いに応えず、部屋の隅をゴソゴソと漁り始めた。
「バブちゃんっ、コレですうはあ、してみてっ?」
取り出してきた、丈夫そうな球体の袋を、テンが魔族の口元に当てた。
「すうはあ、すうはあ……何だ? これ」
「ヤギの膀胱を袋にしたヤツ」
ベエッ、と音を立てて、育ちの良いヤンがベロを出していた。
だが魔族は、満更でもないらしい。
「すうはあ、すうはあ……ああこの、そこはかとないアンモニアの香りが、何とも……すうはあ」
次第に顔色が良くなり――魔族の顔色は良く分からないが――瞳に生気が戻って来た。
「はあ――お蔭でだいぶ、良くなったよ。テンとか言ったね、どうもありがとう」
「うん、よかったーぁ」
ベッドから起き上がった魔族は、少し小柄な少女だった。
ヤギの膀胱を顔の半分に当てて、すうはあしてるので顔立ちは分からないが、愛嬌と高貴さが混じったような印象を受ける。
スミレ色の髪を両方の側頭部でお団子にしていて、それが小動物をも連想させた――もちろんピピンたちよりずっと長身ではあるが。
「さて――姉さん、この状況を説明してもらえないか?」
セージの言う通りで、何故テンがわざわざ魔族を自宅に連れ込んでいるのか、テンの口から直接語ってもらう必要があるだろう……理解出来ると、いいな。
「えっとね。お外で遊んでたらバブちゃんが空から落ちてきたの――ゴチーン、て。痛かったけど、バブちゃんキュウてなっちゃった」
テンが脳天を掻き分けて小さくなったコブを見せる。
普通の人ならコブどころじゃなかったよな――きっとそこで、重力の法則とか変わっていたに違いない。
「すうはあ、僕からも説明させてくれ。魔王からの頼みで、君たちの世界までちょっとお遣いに行ってたんだ。思ったよりキツい仕事で、ね……消耗してたんだろうな、帰り道で、ここの上空を飛んで山越えしようとしたら、空気が澄んでて悪かったんで、意識が遠くなっちゃったんだ、すうはあ、すうはあ」
そうして魔族の少女は、ヤギの膀胱を顔から外し、にっこり笑った。
想像していた通りの高貴で愛らしい顔立ちだ。
「はじめまして。僕の名前はバアル・ゼブル。君たちにはベルゼバブ、蝿の王と呼ばれている」
ピピンとヤンが青褪めつつ、互いに顔を見合わせた。
「ベルゼ……」
「……バブ」
誰もが知っている悪魔だ。
大物も大物、魔王とほぼ同等の力量を持つとさえ、噂されている。
彼女が何かの拍子で本気になったら、村ごと吹き飛ぶだろう。
「バブちゃーん」
「だから僕は、バブちゃんじゃないってば」
苦笑する少女の様子からは、そんな力も禍々しさも、欠片も感じなかったが。




