映画ジョーカーのレビュー
物語の舞台はゴッサムシティである。その街は、貧困層と富裕層との格差の厳しい現実がある。
主人公は貧しい暮らしの中で母親を看病しながら生活している。将来の夢はコメディアンであり、自分の大好きなコメディアンである、フランクリン・マーレの番組に出ることを夢見ている。
その一方で、アーサーには障害がある。脳の神経の欠損により、緊張状態があった時に発作的に笑ってしまうという病気を持っている。それゆえ、アーサーの仕事仲間からは気味悪がられている。
ある日、アーサーはピエロ姿で店の宣伝をする仕事をしている時に、子供達に看板を奪われて、路地裏でボコボコにされてしまう。そういうことがあってから、同じ仕事仲間である「ランドル」という男に「自分の身は自分で守れ」と銃を渡される。戸惑いがちだったアーサーだったが、銃を受け取ってしまい、これがアーサーの人生において悲劇のきっかけとなる。
まず、アーサーは小児病棟で子供たちと踊る仕事を引き受けている時、踊っている最中に銃を落としてしまう。そのことが上司に知れ渡り、仕事をクビになってしまう。
それから、帰りの電車の中で3人組の男に絡まれて、笑ってしまう病気のせいで袋叩きにされてしまう。だから、アーサーは自分の身を守るために銃を発砲し、3人組の男の2人を殺してしまう。そして、口封じのために最後の1人を追い詰めて、3、4発の銃弾を発砲する。
この事件があってから、ニュースでは殺人ピエロの復讐として取り上げられ、貧困層の中でヒーロー的な存在として崇められるようになる。それと同時に、ウエインという大富豪は、市長選への立候補を決意する。彼が立候補したのは、この街の惨劇を変えるためであり、殺人ピエロに殺された3人の男が自分の会社の元社員であったからだ。彼はテレビの前で殺人ピエロのことを「仮面をつけなければ人を殺せない卑怯者だ。彼は恵まれたものに嫉妬しているただのピエロに過ぎない」と非難する。そんな善良な大富豪を見て、アーサーは笑う。
このウエインは、実はアーサーの父親なのではないかと疑われている。というのも、母親がウエイン宛に自分たちの面倒を見てくれるための嘆願書を投函する際に、手紙の中身を見てしまったアーサーは、「愛するウエインへ」という書き込みを発見してしまったからだ。
だから、アーサーはそれを確かめるために、ウエインの元へ行ったが、ウエインはアーサーを養子にしたことはあるが、自分はアーサーの父親ではないと言われ、母親をイカれた女だと言われたので怒り狂う。
だが、精神病院で母親の診断書を見つけてしまい、実は自分の笑いの病気が母親による虐待によるものだったということを知ってしまう。そして、アーサーは、脳卒中で倒れた母親の寝てる病院に行き、母親の首を両手で締め殺してしまう。
ここから、アーサーは自分の悲劇をありのままに受け止め、ジョーカーへと変貌していく。まず、3人組を殺した件で、アーサーの使っていた銃について口裏を合わせようと言いに来たランドルを殺す。それから、ピエロ姿に変身したアーサーは、憧れだったマレーの番組に出演依頼が来ていたので、自分がとある舞台でショーをしていた姿をテレビに流され、笑い者にした腹いせにマレーを番組中に銃で射殺する。
後に、精神病院に隔離され、病室で女のセラピストに「面白いジョークを思いついた。誰にも理解できないだろうな。」と言って、病室から出て、光の差し込む窓際まで血の足跡をつけながら歩いていくシーンで、物語は締めくくられる。
問題提起1
アーサーの悲劇はいつ始まったのか。
ランドルから銃をもらってからか、3人組に襲われてからか、母親が自分を虐待していたことを知ってからか、あるいは、アーサーの悲劇は生まれた頃から始まっていたのだろうか。
問題提起2
アーサーはなぜ笑うのか。
まず1から論及したい。
そもそも、悲劇とはなんだろうか。ここでは、環境や能力の不遇と定義する。
では、アーサーに環境や能力の不遇はあるだろうか。
まず、環境についてであるが、アーサーは頻繁にタバコを吸う。ということは、少なくともアーサーはタバコを嗜めるほどのお金の余裕はあったことになる。したがって、アーサーが貧困層として描かれているとはいえ、貧乏人として描かれていないことに注目すべきだ。
それから、能力について考えてみよう。アーサーはよく「字」を間違える。ノートに記された「高価な人生」を「硬化な人生」と書き間違えたり、自ら「心の病などない」と日記帳に書き記していることから、精神病の傾向を読み取ることができる。また、生まれつき脳神経の異常により、笑ってしまう病気も抱えている。したがって、能力的に恵まれていないことが見て取れる。
だが、アーサーがどんどん精神を病んでいくのは、自らが精神を歪めて行った結果であり、その要因が笑ってしまう病気にあるにしても、その笑ってしまう病気はコメディアンの才能とし積極的に自己評価できる余地がある。したがって、アーサーの能力の欠陥は、むしろ成功者の可能性として解することができる。
このことから、そもそもアーサーに悲劇など存在しなかったと思わざるを得ない。アーサーはボロ服を着なければならないほど貧乏な生活をしていたわけではないし、笑ってしまう病気を、むしろコメディアンの才能として活かすことができるのならば、自らの精神を歪めることもなかっただろうからである。だから、捉え方次第でなんとでもなる人生を、自ら悲劇に追い込んだのはアーサー自身であることが見て取れる。
では、アーサーの人生に悲劇の始まりがなかったとするならば、悲劇はどこから始まったのだろうか。それはアーサーの抱く嫉妬心から始まったと考えられる。
アーサーはまず銃を小児病棟へ持ち込んでいたことがばれて、愛してやまない仕事を上司に辞めさせられた。だが、このことはアーサーの管理能力の欠如によってもたらされたに過ぎない。では、これをアーサーの能力の不遇によって擁護できるだろうか。もしそうなら、アーサーはもともと能力に不遇の欠陥がなくてはならないが、アーサーの能力の不遇の欠陥は笑ってしまう病気以外には存在しない。したがって、これはアーサーの自己責任である。
それから、アーサーは3人組の男から自分の身を守るために殺すが、果たして3人目の男を殺す必要があったのだろうか。そして、アーサーが自首しなかったことにも注目すべきである。つまり、アーサーは自分の過剰防衛を隠すために3人目を銃殺し、その罪から逃れていたにすぎない。
最後に、母親が自分を虐待していたことを知ってから、母親を殺すところだが、これはあまりにも自分勝手すぎる動機である。いくら殺す動機としては十分とは言え、母親の口から経緯を聞いていないにもかかわらず、殺すということはあまりにも一方的すぎるからだ。アーサーの一方的すぎる側面は、支援の人との会話や、事務員とのやり取りから見てもよくわかる。一方的に、自分の話ばかりをしているからだ。つまり、アーサーには「他人からすればどうでもいい話」という感覚に欠けている。
したがって、その客観視の無さゆえに、アーサーの一方的な性格は形作られていったとするならば、これもアーサーの自己責任に他ならず、同情に値しない。
それにもかかわらず、自らの至らなさを憎むのではなく、他人を憎んで自らを憐れむということは、アーサーの悲劇とは、むしろそのような態度の中に現れていると言えるだろう。すなわち、アーサーの悲劇は、他人に対する嫉妬の感情に存在していると言える。
そして、このことからアーサーの悲劇の始まりは、他人を憎むことからだと言えるのではないだろうか。言い換えれば、アーサーは自らによって悲劇を創造してしまったのである。
2次にアーサーの笑いについて探求しよう。
そもそも、なぜ私たちは笑うのだろうか。
例えば、面白いジョークを聞いて笑うことがある。なぜなら、心が擽られる感覚が伴うからだ。また、幸せな気持ちになったら、私たちは笑うだろう。それは、心が温まることで緊張が緩和されるからだ。
だが、アーサーの笑いはこれらの笑いのどれとも異なっている。というのも、アーサーが笑うのは緊張していて心が締め付けられる時だからだ。そして、それが「普通の人」にとっては不気味に映るのである。
しかし、アーサーの笑いは本当に不気味なのか。
例えば、こういう経験はないだろうか。
ある日塾で私は勉強をしていた。そこには、2人か3人いるだけの塾教室である。先生もいる。そんな中で、私はなぜか知らないが無性に笑い出しそうになっていた。いったいこれはなぜなのだろうか。
皆さんの中にも、これと似た経験を持っているはずである。例えば、葬式中に笑い出しそうになったりとか、学校の教室でみんなが真面目くさって勉強している中で笑い出してしまって恥をかいたこととかなどの経験である。
このような経験からわかるように、実は私たちは「アーサーと似た経験」を持っているのである。言い換えれば、我々自身もアーサーと似ている部分があるということだ。
そうすると、アーサーを「普通でない人」として、「普通の人」と対立させることはお門違いと言わねばならない。というのも、以上のことからもわかるように、そもそも人間の笑いそのものが不気味な現象であるからだ。それゆえ、不気味なのはアーサーの笑いに限ったことではないのである。つまり、アーサーの笑いは、私たちが普段笑っていることの不気味さを、そのまま極端に表している。
結論
この作品は、したがって、私たち「普通の人」が誰でも悪へと堕ちていく可能性を示唆していると解釈できる。私たちは自分のことを普通の善良な市民だと思っているが、誰しも内なるジョーカーを抱えて生きているからだ。だから、この作品が「危険な映画」と呼ばれる所以も、深淵に潜む人間の悪を見つめさせようとしているからに他ならない。すなわち、アーサーに感情移入してしまうほどの悲しさと、感情移入できない怖さとを感じさせることによって、悪そのものの根源的な問いについて考えさせようとしている作品であると言える。