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写セ身

作者: 凍原匙子

 西瀬十哉が自殺した。

 その日のことはあまりよく覚えていない。確か西瀬は体調を崩して学校を休んでいて、それで自分が届け物ついでに見舞いに行ったのだと思う。彼は部屋に籠って寝込んでいるらしく、彼の母親は勝手に入って構わないと言っていた。部屋に鍵は掛かっていたかいなかったか、ともかくどうにかしてドアを開けると、西瀬はそこで死んでいた。開けようとしたドアが酷く重かったのは、西瀬が部屋の内側のドアノブにネクタイを引っ掛けてそれで首を吊っていたせいらしかった。以前彼の友人が何気ない雑談の中で、ドアノブ程度の高さでも首を吊って死ねるのだと話していたことを思い出した。

 友人も、教師も、家族も、彼の死を嘆くというよりは驚き、戸惑っていた。本当に死んだのかと訝る者の方が多かったかもしれない。西瀬は所謂優等生という奴で、成績優秀だがそれを鼻にかけることもなく誰とでも親しげに接する、要するに典型的な『いい人』だった。彼が誰かを憎むことも憎まれることも想像がつかなかったし、時々何かに思い悩む様子はあってもその日が過ぎれば大抵はけろりと笑っていた。

 そんな優等生が、何故自分のような不良少年ととりわけ親しくしていた理由を、未だに測り兼ねている。それなりの進学校に通っているくせに授業などまるで聞く気もなく、くだらない馬鹿話と喧嘩に花を咲かせている自分を、彼は何か愉快なものでも見るような目で見ていたのだ。

「梶尾君は、面白い人だよね」

 あの優等生から見れば、自分はさぞかし珍しい生き物に見えただろう。けれど何かと理由を付けて自分に付いて来たり、逆にこちらが付き纏ってみても嫌な顔をするどころか喜んでいるあたり、ただ面白がって見ているだけのようにも思えなかった。周囲の人々から見ても梶尾要と西瀬十哉は親友同士のように映っていたらしい。だが自分が、西瀬の親友たりうる人間だとは到底思えない。彼が自分の友人だった理由も分からないのだから、彼が死んだ理由が分かるはずもなかった。

 十哉の死から数日が立ったが、あれ以来こうして自室で机に向かって呆けていることが増えた。ぼんやりと顔を上げると、きっちりと整頓されて並んだ本が無機質にこちらを見返していた。背後に視線を移しても、まめに掃除をして片付いた部屋は一片の乱雑さもなく却って落ち着かない。そしてそれらが、机の端に一ヵ所だけ、無造作に重ねられた数十枚の紙片の存在を際立たせ、どこか強迫的な観念となって自分を机の前に縛り付けているのだ。観念して、一番上のほとんど白紙の1枚を机上に広げる。

 西瀬十哉は遺書を残さなかった。彼は自分を殺した何かの存在を秘したまま逝ってしまった。自分には彼の全てを慮ることは出来ないが、それでも彼に成ったつもりで遺書を書けば彼の心中も見えてくるのかもしれない。そう思い立ったのがきっかけだった。それ以来何日もかけて何通もの遺書を書いた。けれど、書けば書くほどに彼は自分の理解の範疇を超えていく気がした。行き詰って友人たちに心当たりはないかと尋ねてみても、皆揃って怪訝な顔をするばかりで要領を得ない。

『――だから、僕は生きられません』

 真実に至るどころか遠ざかったまま、書き連ねた紙束の数だけ西瀬が死んでいくのだと思うと怖気が走る。けれど内心、それでいいのだとも思っていた。要するに、自分は西瀬の死の辻褄を合わせたいのだ。こうして彼の遺書を書き、自分の意識の中で彼を殺すことによって、彼の犯した殺人という罪を自分に転嫁し、理由のない殺意に納得のいく理由を付与することができる。西瀬十哉が死ぬのは梶尾要が彼の死に理由を求めたからだ。その論理は決定的な矛盾を孕んでいて、けれども間違いなく彼を殺す動機となり得るように思えた。

『だから、僕は死なねばなりません』

 自分は最初から、西瀬を殺したかったのかもしれない。

 ふと、脳裏を過った考えを押し退けるようにして、白紙に近いままの紙片を紙束の上に戻した。自分の中の西瀬が語る言葉には限りがある。そろそろ潮時かもしれないと思った。

 何気なく、手元にあった西瀬の携帯電話を手に取っていた。どういうわけか、それは自分の部屋から見つかった。彼の死の何日か前に西瀬が来ていたので、その時に忘れていったのかもしれない。彼が携帯を取りに来るどころか、誰にも携帯を失くしたと話さなかったのが不自然に思われたが、親友に何かを伝えるためにわざと置いて行ったのかもしれない、という理由で今も自分に預けられている。

 メールでの他愛もないやり取り。通話履歴に並んだ見知った名前。友人たちに囲まれて楽しげに笑う姿。携帯が見つかったその日、一日中かけて保存されていたものを全て確認したが、彼が死に至るような要素は見当たらなかった。けれど、あえて残さなかったのかもしれない、と思える証拠があった。

 梶尾要だけがそこにいなかった。

 電話をかけた記憶も、メールを送った記憶も、並んで写真を撮った記憶も間違いなくあるのに、一切の記録が存在しないのだ。それが明らかに不自然で、どう考えても意図的に削除されたとしか思えなかった。だから彼の死の原因は自分にあるとその当初は考えた。けれど、彼は自ら梶尾要に接近したのだ。死の直前でさえも常と変らずそうしていた。となれば、進んで自分の死の原因に近づいていたことになる。「死のうとしたから」では、死のうとした理由にはならない。その背後にあった「理由」を見出さないことには何の意味もなく、結局大した手がかりにはならなかった。

 携帯をポケットにしまい込むと、いい加減息抜きをしようと立ち上がる。財布だけ持って少し離れたコンビニあたりまで歩いて、それだけでもいくらかましな気分になるだろう。本屋で立ち読みをするのもいいかもしれない。同じ整然と並んでいる本でも、見慣れた背表紙を眺めているよりよっぽどいい。ここの所学校も休みがちになっているが、多分この部屋にいると落ち着かないのと同じで、見慣れた風景の中に西瀬がいないという事実が自分を苦しめているのだと思う。

 2階の自室からリビングに降りると、テーブルの上には書き置きらしきものが置いてあった。母の字で、出かけてくる、夕方には戻るという旨が書いてある。自分も書き置きを残そうかと思ったが、時計を見ると今は14時だった。恐らく自分も夕方には戻れるし、もし母が先に戻っても自室にいると思うだろう。時計から母の書き置きに視線を戻す。小さな違和感を抱いたのはその時だった。

 名前がないのだ。母はいつも、他に読む者がいなくても書き置きには相手の名前を記すのが常だった。紙片の一番下には必ず「カナメへ」と書いてあるはずなのだ。それが、ない。普通なら単に書き忘れただけと考えただろう。けれど恐らく、その違和感の原因は一つではなかった。というよりは、小さな齟齬や矛盾に際する度に生じていた違和感が――それとは気付かぬままに――幾重にも積み上げられた結果がこの小さな、けれど決定的な亀裂の原因だったと、直感的に理解した。

「――カナメ」

 ちょうどその時、ポケットの中で響いた振動音に身が竦んだ。携帯を取り出してみると、懐かしい名前が表示されていた。中学時代の友人だ。別々の高校に進んで以来ほとんど会っていなかったが、比較的親しい友人の一人だったのを覚えている。

 深呼吸の後、通話ボタンを押す。耳に押し当てた携帯電話からよく耳に馴染んだ声が流れてきた。

 もしもし。

 それから彼は、こう言うのだ。

「――十哉。元気してた?」

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