二面
2章
午後四時。権田は仕事を終えて、スタッフジャンパーを脱いで私服に着替えた。今日は蒸し暑く、シャツの上には薄手のジャケットを羽織るに留めた格好だった。
「それでは店長、お先に失礼します」
「はい、今日もお疲れ様でした。また明日もよろしくお願いしますね」
「こちらこそ。ではまた明日」
休憩中の山根店長に見送られ、鞄を手にスタッフルームを後にする。建物の構造上、スタッフルームとゲームフロアは直続きになっていて、外に出るには職場でもある地下一階のフロアを通ることになっていた。
ぶあつい防音扉を一枚抜けると、すぐに物々しい喧騒が戻ってくる。
「さて、帰るか」
人工的な光の下で、空いた左手がつい襟元に伸びた。
四十年、四季を通して働き詰めてきた勤め人の性だった。けれど今は首を絞めるタイの感触はなく、肩口も妙に軽い。
「まだまだ慣れんな」
スーツ姿ではない、ラフな自分の格好。それから職場の雰囲気も。
騒音には嫌でも馴染んできたものの、権田にとっては仕事でなければ長居したいとは思わない場所だった。見渡した店内は早朝の時とは違ってだいぶ客の数が増えている。
(それにしても、ここにはいろんな人間が集まるものだな)
基本的にはやはり男性客が多い。ただし中には明らかに一見ではない女性客もいた。彼女らも専用の「ICカード」を作って、男性客に負けず劣らず、それぞれ好みのゲームを真面目にやり込んでいる。
そして本当にコアな客層の大半は、夕刻を超えて仕事帰りに訪れるサラリーマン達だ。中には時間が許す限りコインを投入し、一日で数万円使っていくようなプレイヤーもいる。
(いい歳こいて、男女共にゲームか。まったく)
六十のジジイの感覚で言えば、その年代はもう分別のついて然るべきの大人だった。
仮に時間が空いたところで、自分の趣味に全力を出して遊ぶ。という時間は終わっているべきだと考えてしまう。
(金の使い道が有意義なればまだいいが、その使い道がなぁ)
「ゲーム」というのが、権田には納得できない。
(そんなにも熱狂できる要素、価値があるのか、この場所には)
思った時だった。
「っざけんなクソがァ! 今の〝ハメ〟だろボケがアッ!」
店内の騒音に負けない、一際大きな罵声が飛んできた。権田は正直「またか」と思いながら、眉間にシワを寄せてそっちを見た。
「汚いマネしてんじゃねーよッ! クズが! 死ね!!」
ギャンギャン負け犬のように吠えまくっているのは、人気のある格闘ゲームのひとつだった。あげくにはゲームの台を殴りはじめた。
――どごんどがん、がん、がん、ががごん。
一台、百万円を超えると聞いている筐体を殴って蹴って。さらに発狂した。
「ちくしょうがァ! ちくしょうがァ!」
苛立ちを放つ様に叫びながらも、新しい百円玉を取りだした。それも叩きつけるようにして台に置く。すぐ後ろには、順番待ちをしている客も見えているのに、
「次はゼッテー、ブチ殺すぞアァ!?」
発狂客は、何もかもガン無視で喚き散らしていた。
「だったら素直に帰ればよかろうに」
思った。何故そこまで腹をたてつつ遊ぶのか。もう業務時間外なので無視を決め込んでやろうとも考えたが、しかし間の悪いことに
「お、お客様ぁ、あのぅ~」
麻田がいた。彼女もちょうど、私服に着替えて店を出る途中だったらしい。
「機械をボコボコにしないでください。それ、お高いんですよぅ~」
「あぁ!? おまえ何命令してんの!?」
「いえっ、わたしっ、ここの従業員でしてんっ」
慌てた様子で側頭部へ手が伸びるも、普段そこに着けているヘッドセットはない。
「どっか行けよビッチ! つーか、女がゲーセンに来てんじゃねーよっ!」
「び、ビッチじゃありませんがなぁ~っ!」
「じゃあ何だよ」
「えぇ!? な、何って、しょ、しょしょ!? 処女だもんっ!?」
「マジ?」
「ぴ、ぴよぃっ!?」
ひどい会話だった。権田は素直に「帰りたい」と思いつつ、大股で近づいた。
「おい、キミ」
「あぁん?」
腹に息を込めて、明らかな威圧感を漂わせる。
権田は不承不承ながら、自他共に認める、
「表に出なさい、迷惑だ」
「あ、なんだジジイ、うせ、」
「とっとと立てッ! さっさと出ていかんと埋めるぞ貴様ァッ!」
「ぎ、ぎゃあああああーーーーーっ!?」
ヤ○ザ顔だった。
「やれやれ」
面倒な仕事を余分にひとつ終えて店を出ると、
「ゴゴゴ、権田さんっ!」
「うん?」
「ホントに埋めるんですか!? 奴を東京湾に沈めちゃうんです!?」
「そんなわけなかろう。あと人聞きが悪いから声を下げなさい」
「わかりました! インドよーですか!? それともたーいへーいよーっ!?」
いまだ処女らしい麻田はぷるぷる震えていた。
「キミ、地学苦手だろう」
「はいっ! 麻田は歴史も数学も国語も苦手でありましたんっ!」
いまだ処女らしい麻田はおバカだった。
「あのっ、権田さん、そいではたいへんお世話になりましてっ!」
「たいしたことじゃないよ。君も気をつけて帰りなさい」
「はっ、このご恩は一生かかっても返しますので! 次週! 乞うご期待!」
「あぁ。また明日もよろしく」
「イエッサー! それでは、おつかれさまっしたー!」
キャラも口調も軸がブレたまま。
将来は声優志望らしい、残念な美人フリーターは片手を振りつつ、颯爽と自転車に跨って去っていった。
「さて、今度こそ帰るか」
ほんの少し脱力すると、左手はまた何もない襟元に向かっていた。
まだ新しいブラウンの革靴で一歩目を踏み出す。しっとりと明るいこの時間、外を出歩く自分には馴染みきれていなかった。
※
権田源蔵は生真面目な性格だ。
ゲーセンで働く前は、それなりに名の知れた商社で三十五年、日々を休むことなく社会に奉仕した。本人としても立派に勤め上げてきたと胸を張って言える。
けれどそれ以前、権田は別の世界にいた。
そこはある意味で地獄だった。人は鬼の住処と呼んでいた。
血反吐を垂らし、寸でのところで気狂いになりかけた。
身も、心も、人間性も。すべてを捧げた者たちが集まる場所だった。
向かう相手。同じ版面の上をじぃっと凝視する悪鬼が二人、そこにいた。
二人零和有限確定完全情報、と呼ばれるゲーム。
将棋。
はるか古来、海を渡っておとずれたそのゲームには、砂の一粒さえも運の要素が混じらない。棋士と呼ばれた人外二人が全神経を伴い集中し、頭脳を集約させ、斬るか斬られるかの完全決闘を行った。
幼少の頃よりその世界へと魅入ってしまった少年は、そこで地獄を見た。
「…………」
「…………」
権田源蔵は、十代の頃から『プロ』だった。
その世界に至るまでは順調で、しかしとある段階から躓いた。
勝てない。
前に進めない。
相手を倒せない。
どうやっても、どうあがいても、白星が付かない。
一定数を負けると降格した。するとそれまでは格下だと思っていた相手にも負けはじめた。
昼も夜も、盤の前で苦悶した。
一体何がいけなかったのか、と毎晩思い詰めた。
このまま、かつて大勢の「プロ」が辿ったように、自分の限界を知って引退するか。
それとも。最期までみっともなく足掻いて残り続けるか。
迷えば迷うほど、自分が弱くなるのが分かった。
だからある日、強く決めた。
次の戦いで、負けたら引退しよう。
臨んだ一局は、勝てばリーグ残留が決まり、負ければさらに後段する一局だった。
「…………」
「…………」
互いに無言だった。冷房の風が流れる快適な室内は、それでもしんしんと、四季のいずれにもよらず、真冬の雪のように冷たかった。いつだって苦しかった。
(負ける、このままでは、また、負ける)
劣勢だと分かっていて、どうにもならない。一手、一手、死んでいく。
駒が空気を打ち震わせるごとに、相手の切っ先は鋭くなって、権田の構えた陣は儚くなった。
当時の権田は二十七歳。一般的には若かったが、『プロ』の中では分岐点だった。
その年齢でまったく勝てなくなったなら、道をあきらめない方が珍しい。
もう、どうしようもない。投了しようと思いかけた時だ。
「………………?」
一筋、輝く道が見えた気がした。あまりにも細い、無駄にしか見えない、しかし見れば見るほどに、容易くは千切れそうにない蜘蛛の糸。
(これは)
制限時間が刻一刻と削られる中、権田は蜘蛛の糸を虱潰しに観察した。するといつしか、それが自らの運命を分ける、決定的な要因となることを本能で察した。
秒読みとなった時、権田は一手を放っていた。
――『ガンッ!』
あせりと興奮のあまり、勢い強打になった。
対戦相手が少し眉をよせた気配があった。苛立ちと、疑念だ。自らの勝利を半ば確信していただろうから、それがヤケクソの一手にも映ったかもしれない。しかし相手もまた、一秒が経つにつれ、別の意味で険しくなった。
「っ!」
この道を究めかけた二人の「プロ」でさえ、見落とす一手。
運の要素が一切入らないゲームの世界で、それは運命的な、起死回生の、逆転必至の一手となった。
「……負けました」
相手が呟いた時、権田はこの世界に居続けようと決心した。
ずっと、この場所で死ぬまで戦い続けよう。自分にはそれができる。
翌年に父親が病で倒れたという報を聞くまで、信じていた。
※
市街の中央から少し離れたところに、県立図書館がある。
『ワールドワン』からちょうど、権田の家に着くまでの距離にあって、夕方仕事が終わる毎日になってからは、いつも此処を訪れるようになった。
自動扉を抜けると、ゲーセンとは対極にある静かな空間が出迎えてくれる。図書館は住宅街と街中の間にあって、近くに大きな公園も広がっていて環境はとても良い。
権田の探しものは今日のところは本ではなかった。入ってすぐの、一般書籍の棚にいる司書の女性だ。すぐ側には本を運搬する移動式のカーゴもある。
「…………」
黒の髪をまっすぐ伸ばし、白いカーディガンに、薄緑色の前掛けをした司書の女性。体付きは華奢で、ほっそりした手首と長い指先が、本の一ページをはら、はらと捲っていく。
「仕事中かね?」
「あっ!」
小声で呼ぶと、司書の女性は面をあげた。明らかに焦った様子で頬を赤らめて、手にした本を勢いよく閉じた。それからなにか、見ている方が拍子ぬけるような顔で笑った。
「し、失礼しました。何かご用で、って、源蔵さん?」
「美穂さんは今、仕事中かね?」
「そ、それは、もちろん、お仕事中ですよ」
二十前後の若者と比べれば、さすがにいくらか歳を重ねてきた色は覗く。それでも黒の瞳は今を以て知的に美しく、細い睫がほんの少し上下すれば、異性を吸い込ませるような魅力に満ちている。
「司書は、本を読むのが仕事なのかね」
「あ、あはは。……すみません」
困ったように笑うと、さらに一層若く見えた。実際、権田の妻である美穂は、六十を超えた源蔵よりも一回り以上に若かった。
「ごめんなさい。どうか内緒にしておいてくださいね」
そっと、人差し指を自分の鼻先に添える。小声で囁いた。
「でも、今日はどうしたんですか? そちらのお仕事、普段より早く終わったとか?」
「いつも通り四時十六分だが」
「え」
ほれ。と自分の腕時計を見せて言うと、頭一つぶん小さい妻が、時計の針を覗き込んでくる。そしてにっこり。苦笑した。
「やだぁ。時計の針、だーいぶ間違ってますよ? ますよね?」
「そこの壁にも時計があるから確認してみるといい」
二人が視線を向けた先。
その時計もまた、似た時間を指していた。
「この館内の時計も時間が誤っているのかね」
「うふふ~。それに付きましては、えぇと、げ、現在目下調査中でして……」
「何の調査中だ。ぶっちゃけ、いつからサボっとったんだねキミは」
「そ、そんなことありませんっ、これは意図的な行為ではないので、よってサボりとは、そのぉ、違うんです……」
ごにょごにょ言う。信じてください、ウソじゃないんですよ。
「つまり自覚なくサボっとったワケかね、最低だな」
「そ、そういうっ、アレではっ」
「本当にねぇ、最低よー、もぉー」
言い争いをしていると、本棚の影からぴょっこり、掩護射撃が来た。
「もうねー、あたしがミホちゃんを叱って、今年で二十年よ、に・じゅ・う・ね・ん」
「お、大前さんっ!?」
現れたのは同じく司書の前かけを付けた女性だ。白髪が目立つ頭にはパーマがかかり、細い猫眼の上には老眼鏡が掛かっている。
「勤務中にアタシがどんだけ〝本読まない!〟っつって来たか分かってんのぉ?」
「あわわっ、それは、それはぁ、そんなことはぁ!」
「もうね、あたしゃ今まで自分が食べたパンの枚数は覚えてるけどねぇ、ミホちゃんを怒った回数はいちいち覚えてないよ、もー多すぎてねぇ!」
「妻がご迷惑をおかけしております」
権田は素直に頭を下げた。
「ほんと、二十年迷惑かけ通しよぉ。ほらもう、その仕事は任せると後が片付かないから、一足先に帰った帰った」
「で、でもっ」
「今度またパソコンの使い方教えてくれたらいいわよ。エプロン取って帰んなさい」
「すみませんっ、本当にすみませんっ」
美穂は深々と頭を下げてから、駆け足で去っていった。
「やれやれ、ほんとねぇ、困ったもんねぇ」
大前と呼ばれた女性が文句を言って貸物に近づき、手早く本を棚に戻していく。
「二十年前から、全然変わらないわよ。あの娘」
「はぁ。それは、その、どうもお手数をかけて……」
「本当に物語が好きなのよね。まぁ、気持ちはわかるけど」
「はい」
「あとね。話題がね。いつも繰り返しなのよ」
「話題ですか?」
「物語と自分の家族。話題の中に愚痴の一つでも混じってれば、いつでも渋い顔してあげるのにねぇ。面倒くさいよ、まったく。アンタたちっていつまで新婚なワケ?」
「……いや、それは、その……」
すたん、すたん、と歯切れよく本を戻していく手捌きと口捌きに。
返せる言葉はひとつもなかった。
着替えてきた細君と並んで、歩いて帰路につく。公園の中を進んだあとは、少し遠回りになってしまうが、二人はあえて夕暮れの河原道を選んでいった。
「源蔵さん、新しいお仕事の方はもう慣れました?」
「そこそこだな。たぶん君よりは働けていると思う」
「だ、だからアレは違うんです、よくあることじゃないので」
「稀にはあるのかね」
「ご、極々稀にですよ?」
「この二ヶ月、君と帰宅を共にする様になって三度見たな」
「たいへん深くお詫び申し上げます」
「俺に詫びてどうする」
なんだか元の職場で、部下を叱っている感じになった。それも新人の。
「いや、新人でもまだ使えるかな」
「あの。なんだか私の評価が著しく下がっている気がします」
「実際著しく下がっているから気にしなくていい」
「むぅ。ではわかりました。以後気にしませんっ」
沈むのが幾分にも遅くなった夕暮れに、隣を歩く細君は言いきった。
「だけど、解雇だけはなさらないでくださいね」
「あのなぁ」
普通、そういう事をさらりと言って退けるのか。
たぶん、言わない。ただ、源蔵の妻である美穂は言う。
「私、貴方の奥さんでいられることが、一等楽しくて仕方ありませんから」
二十数年を連れ添った間柄でも、ふと懐かしい歌の一節を詠むようにして、自然とやさしい言葉を口にする。
「もし、俺に解雇されたらどうする気だね。キミは」
言ってしまってから、惚けた言葉だと焦った。つい、明後日の方へ強面を作って表情を険しくした時、即座に返事がきた。
「再就職を希望しますっ」
真顔で言った。権田源蔵が長年連れ添った細君は、ありふれた日常から、ありふれた定石から、何の気もなしに吃驚する一手をよく放つ。
「まずは履歴書を送って、面接まで漕ぎ着けないといけませんねっ」
「……そうだな」
「その時はまた、私を雇ってくださいますか?」
「そうだな」
隣には、そっと笑顔で、一歩分だけ遅れて歩く女性がいる。
錆びた矜持と自尊心が邪魔をするものの、心中では思っていた。
君を、俺が手放すはずがないだろう。
※
権田は、コンビニへほとんど立ち寄ったことがない。
備えあれば憂いなし、という言葉を身を以て体現する几帳面な性格であるのに加え、以前の職場では、毎朝手製の弁当を持たされたから、弁当などの食糧を買う必要もなかった。
とりわけジャンクフードやジュース等の嗜好品も、特に節制せずとも口にしない。おまけに付き合いが無ければ酒も飲まないしタバコも吸わない。置いてあるマンガ雑誌の類には、一抹の興味も湧かないのは言わずもがな。
ついでにコレといった音楽を聞くこともない。嗜好品と言えば、妻が借りてきた小説に目を通すので十分といった具合。
実益一筋、無趣味ここに極まれり。
昭和でさえ珍しい、レトロチック・ステレオタイプな頑固ジジイだった。
権田はファストフード店に入ったこともほとんどない。両店共に「個人レベルでの経費、経済的な出費においてまったく無駄」と評している。店側が聞いたら激怒するだろう。
「ご注文はお決まりですかー?」
「もう少し待ってくれ」
そんな頑固ジジイが、今、帰る道すがらにある、全国チェーン展開をしているハンバーガーショップに足を踏み入れていた。
隣では一回り若い妻が、心なしか目をきらきら輝かせて、
「源蔵さん、源蔵さんっ、フライドポテトのエルサイズ、二人で一緒に食べましょうよ」
すげぇ可愛いことを言っていた。傍から見てもバカップルだった。
「この時間のお店って、なんだかワクワクしますねぇ。独り立ちしたあの子も、こういう中でお友達と青春してたのかしら」
「かもしれんな」
夕方五時半。近くにある学校からの学生客や、夕飯の買い物ついでに訪れた客などで、ちらほら込み合う時間帯だ。
源蔵と美穂の二人もまた、夕飯用の買い物袋を二つ下げ、座った席の奥においていた。
「珍しいですね。源蔵さんが、こういうお店に立ち寄ろうだなんて」
「たまには良いだろう。もしかして迷惑だったか?」
「いいえ。ちっとも」
細君は言葉の通り、にこにこと上機嫌で苺のシェイクを啜った。権田もまた、揚げたてのポテトを一つ摘まみ、ウーロン茶を含んだ。
「――でさぁー! そいつがそん時ぃー」
権田から見て斜め向かいの席に、にぎやかな四人組が席を陣取っていた。
「あったあった」
「マジかよー」
「ねーわ、それねーわー」
机の上にはノートと参考書らしきものが広がっているが、手はつけられている様子がない。
「つーかさー、もうすぐ期末じゃん。マジメにやろーぜ、マジメにぃ」
「おー、忘れてた」「いや忘れんなし」「マジ忘れてーわー」
ダベりながら。楽しそうに。彼らは炭水化物とジュースを補給しつつ手を動かしはじめた。
「源蔵さん」
「ん、あぁ、何だね?」
「貴方の新しい職場って、こんな感じでにぎやかなところです?」
「比べものにならんよ」
「あら。では、すごくにぎやかなんですね」
「まぁ、そうだな。さて、そろそろ出ようか」
「わかりました」
言って、トレイの中央に空ゴミを集めはじめた時だった。
「あれ、志藤じゃん?」
例の四人組の一人が言った。
「へ、志藤?」
「誰それ?」
「いや忘れんなし」
向かいの四人組みの視線が、店の入口付近に集まった。つい、権田もつられてそっちを見ると、ある意味で「見知った顔」と呼べる少年が店内に入ってきた。
(アレは、プロゲーマーとやらの)
猫背で自信なさげに歩いてくる。他の制服を着た学生たちに遠慮するように、俯いて入ってくる。
「なぁ、志藤って誰よ? 今店に入ってきた奴?」
「うちのクラスの空席あるじゃん。俺、去年クラス一緒だったから」
「あー、進級してからずっと学校来てない奴か」
「俺、そいつ退学になったって聞いたけど?」
「いや、別に問題とか起こしてるわけじゃないらしいわ。なんか普通にガッコー来てないだけらしい」
「なにそれ。ただのサボリじゃん」
「つか、私服でこんな時間になにしに来てんの」
「そりゃ飯買いに来たんだろ。今まで何してたか知らんけど」
学生らの声が潜み、好奇的な視線だけが「志藤」という苗字らしい少年に集まる。権田もまた無意識に耳を傾けてしまっていた。
「あのさ、これ噂なんだけどよ」
「あん?」
「その志藤って奴? なんか〝プロゲーマー〟になったから、本人は学校サボって、毎日どっかで遊んでるらしいわ」
「は? プロゲーマー? 遊ぶって、ネトゲとか?」
「いやそういうのもあるらしいけど。あいつの場合、ゲーセンのゲームらしい」
「ゲーセン? なにそれ、頭おかしいんじゃねーの」
「もしかしてこの時間まで、ずっとゲーセンでゲームしてたのかよ」
「ねーわ、俺が言うのもなんだけど、それ人生ナメすぎ」
「だよな。マジありえねーし。つか、とりあえず学校来て、卒業だけはしとくのがフツーだろ」
フツーな彼らは、口々に言った。
その口ぶりは批判的だったが、しかし大部分には同意ができた。
(この四人組みの方が正しかろう)
同年代の友達とつるんで、学校帰りに他愛のないお喋りをする。そんな彼らとて、この時間まで遊んでいたわけではない。
今まで学校の席に座り、勉強をこなした。束の間の休息を享受するためにこの場に集まっている。家に帰れば、それぞれまた勉強をしなくてはいけない。
対して彼は、平日の朝から一人でゲームを遊んでいた。
どちらが正しいかを世間に問えば、大多数がこの四人組を示すだろう。
なのに、権田の心は曇っていた。必要以上に陰りを持っていた。
「ありがとうございました」
「ど、どうも……」
志藤という少年は、そのまま紙袋を持ってそそくさと店を出ていく。それを自宅で食べるにせよ、外のどこかで食べるにせよ、誰かと一緒に食を囲むことは無いことが、権田にもなんとなく予想がついた。
「ま、アイツの事は別にいいじゃん。勉強しよーぜ」
「そーだな」「やるかー」「うーし」
窓ガラスの向こう側。
少年が停めてあった自転車に乗って姿が見えなくなると、内側にいる四人組は一様に興味が失せたようで、割と真面目にペンを動かし始めた。
「源蔵さん?」
「スマン。すぐ片づける」
妻の声を聞いて、トレイの上を片付ける手が止まっている事に気づく。その間も権田の頭を巡っていたのは、しかしあの少年は、という何故だか掩護したい想いだった。
その事に権田自身が驚いた。
(いや、テレビゲームは、テレビゲームだ。けっしてスポーツではない)
午後の職務の間、手が空いて、何気なく見上げたKoBSの『センモニ』なる筐体に流れていたリザルト画面。。『本日の対戦結果』に映し出されたのは、まぎれもなく、あの志藤と言う少年の分身体とキャラクターだった。
「ワールドワン」○○店 本日一位
【紅蓮剣帝】ToL-17 10戦10勝0敗0分け。
総獲得GMP「18,000」P
専用の仮想通貨である一ポイントは、一円に等しい。
つまりあの少年は「KoBS」でのゲーム内限定とはいえ、少なくとも「一万八千円」分の基本無料のプレイが許されることになっていた。
しかしゲーム内の仕様として、GMPは日付が変わると同時に、通常の上限値である「1000」ポイントにリセットされてしまう。さらにはGMPを使ってプレイした場合は使い魔カードも排出されない。
(日本には賭博罪があるからな)
原則として、公営でないギャンブルの一切は禁止されている。
その隙をつく仕様として、ゲーム側ではリアルマネーではなく、ゲームポイントが上下するという事にしているのだ。しかしメダルゲーム等のルールと同様で、換金、および換金に値する商品の提供がされた時点で引っかかる。
それでも決して、無意味にはならない。むしろメリットがあるのは、本人ではなく、彼に投資したゲーマー達だ。
その日限りのGMPという制約は、反対にその日、ゲーセンに来させる原動力になる。
毎日一定の客が店にやってくる。習慣になって何処かで金を落としていく。それはどんな店舗でもありえる利点だ。まずは客が来ない限り、絶対に利益は増えないのだから。
それには全幅の信頼を得る者がいる。
最低ひとり、頂点に立っていなくてはいけない。
人を惹き付ける、圧倒的に強い『王』の存在が必要不可欠だ。
そして全国一位の称号を持つ彼は、必然的に全国各地のゲーセンにいる『上位ランカー』とマッチングを優先された上で、十連勝してみせた。
それはけっして、適当な誰かに出来ることではない。
紛れもない〝ゲームで勝つ才覚〟が必要だ。
「源蔵さん、大丈夫ですか」
「っと、すまない」
権田にしては珍しく、周りを見ずに考え込んでしまっていた。目の前のトレイに、細君の両手が添えられている。
「どうぞ座っていらしてください。後片付けは、私がやります」
「いや、そういうワケには、」
「ウーロン茶、まだ少し残ってますよ」
美穂が笑った。常と変わらずながらも、有無を言わせない口調でにっこり笑う。権田は中腰になっていた状態から、のろのろと姿勢を戻すしかない。
「なにが、プロ、だ」
言われて覗き込んだウーロン茶の底には、解けかけた氷と、カサを増した水だけが沈殿していた。見ているとワケもなく苛立って、六十を超えても変わらずの頑強な奥歯が、脆くなった氷を細かくなるまで噛み砕いた。