拾い物
下層――。
正式な名で呼ぶ者は少ない。ここではただ、「底」と言えば通じた。
空気は重い。ボイラーが吐く煤、採掘用の蒸気機関の排気、継ぎはぎだらけの配管から漏れる白い息――それらが街路に溜まり、昼でも薄く霞んでいる。吸い込めば喉の奥がざらつき、息を吐くたびに胸の内側が少しずつ重くなっていく。
長く住めば慣れる、と古株の住人は言う。だが慣れたとて消えるわけではなく、ただ気にしなくなるだけだ。そしてここでは、気にしなくなることと、生き延びることは、ほとんど同じ意味を持っていた。
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シルビィはフードを深くかぶって歩いていた。
小柄な体に外套は少し大きく、裾が地面すれすれで揺れる。茶色だったはずの布は煤と時間に染まって色が沈み、縁はボロ布のように不規則に裂けていた。均一ではない、少しずつ、長い時間をかけて崩れてきた裂け方だ。胸元の金具だけが、わずかに鈍く光っている。その下から覗く生成りのワンピースは、白というより色が抜けきった白で、体に対して少し大きい。まるで誰かの形に作られたものを、そのまま着ているような着こなしだった。
前髪が目にかかる。シルビィはそれを払わない。払わなくても、見えているからだ。
目だけが動いていた。
歩きながら、通りの左右を流れるように見ている。立ち止まっているわけでも、じっと凝視しているわけでもない。ただ、景色の中に引っかかりを探すように、視線が絶えず細かく動いていた。
路地裏の木箱の影に、金具がいくつか転がっていた。
足を止めずに一度だけ視線を落とし、それから半歩だけ寄り道をする。膝をついて指でこすると、煤の下から鈍い光沢が顔を出した。形は変形していない、まだ使える。
手早く拾い上げ、外套の内ポケットへ滑り込ませる。膝についた煤を軽く払って、また歩き出す。立ち止まった時間は、ほんの数秒だった。
「底」は安全な場所ではない。だからといって、一歩ごとに死を意識するような場所でもない。人はそれぞれ、燃料と食い扶持のことで頭がいっぱいだ。余計なことに首を突っ込まなければ、たいていのことは流れていく。シルビィはそれを、ずいぶん前から体で覚えていた。
角を曲がった先で、足が止まった。
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配管の影に、人が倒れている。
シルビィの視線は一瞬で三つのことを拾った。服の質、呼吸の有無、周囲に人がいないこと。
服はダークスーツだった。縫い目が細かく真っ直ぐで、「底」でよく見る補修の跡がない。布の質が違う。擦れも裂けも少なく、煤が表面に乗っているだけで、繊維の奥まで染み込んでいない。横に転がった肩掛けのバッグは口が開いていて、薄い紙の束が覗いていた。紙の白さが、周囲の煤けた路地の中で妙に浮いて見えた。
――「底」で着る服じゃない。
呼吸はある。胸が浅く上下している。倒れてから時間はそれほど経っていない、顔色がまだ青白いだけで土気色にはなっていない。
周囲に人はいない。配管の陰のせいで、通りからほとんど見えない位置だ。
シルビィはしゃがみ込んだ。
黒髪が少し乱れ、薄い無精ひげ。疲れた目つきのまま意識を失っている。首から社員証らしきものが下がっていて、そこに書かれた文字はシルビィには読めない。片手には見慣れない金属の缶を、意識を失ってもなお握ったままでいる。
頬に触れると、熱かった。
「……だいじょうぶ?」
反応がない。もう一度、今度は少し声を張る。
「起きて。ここ、空気が悪い」
二度目の声で、まぶたがかすかに動いた。焦点の合わない目が白く霞んだ空を彷徨い、やがてシルビィを捉える。小柄な体と、目にかかる前髪と、静かな顔。男の目が一瞬、戸惑ったように細くなった。
「……ここ……どこだ」
掠れた声だった。
「底。下層」
男は眉を寄せた。「底」という言葉に、聞き覚えがない顔をしている。知らないのではなく、実感がない、という顔だ。この場所に来るつもりがなかった人間の顔だと、シルビィは思った。
「名前、言える?」
しばらく沈黙が続いた。それから男は、息を吐くように答えた。
「……堂島、晴彦」
「ドージマ……」
復唱して、覚える。外套の内側から紙片と短い鉛筆を取り出し、素早く書いた。
『ドージマ』
それだけ書いて、すぐにしまう。
堂島は咳き込んだ。煤混じりの空気が喉を刺し、体が丸まるように震えた。「底」の空気に慣れていない体が、正直に反応している。
「動くとつらくなる」
「……ああ」と、掠れた返事が漏れた。
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路地に置いておく選択もあった。
誰かが助けるかもしれないし、後で揉め事になるかもしれない。「底」はそういう場所で、外の服を着た人間に手を貸すのは、面倒ごとを引き受けることとほとんど同義だ。シルビィはそれも分かっていた。
それでも、と思う前に、体が動いていた。
堂島の腕を自分の肩に回す。体重を預けさせ、立たせる。シルビィの体に対して堂島はかなり大きく、肩に腕を回されると視界がほとんど塞がれた。それでも足は出た。歩調を合わせ、無言で進む。「底」の路地では、立ち止まって喋っているほうが目立つ。
いくつか路地を曲がり、壁と壁の隙間に押し込むように作られた小さな扉の前で止まった。歪んだ蝶番が、触れると小さく鳴く。
「そこ、座って」
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中は簡素だった。
板とトタンを継ぎ合わせた壁、一間だけの空間。古い布を重ねた寝台、鍋と器、最低限の道具。かつてはもう少し物があったはずだが、売れるものは売った。残ったのは、売れないものだけだ。
堂島を壁際に座らせ、扉を閉める。内側の閂を落とす。念のため、それだけ。
「水がある」
器に水を注いで差し出すと、堂島は震える手で受け取り、少しずつ飲んだ。呼吸が、わずかに落ち着いてくる。
「……助かる」
布を一枚濡らして絞り、堂島の額に当てた。熱がある。「底」の空気に、体が負けている。外から来た人間はたいていそうなる。慣れるまでの間に死ぬか、慣れるかのどちらかだ。
シルビィは堂島の手から、あの金属の缶をそっと外そうとした。握る力が緩んでいたのに、その瞬間だけ、指がかすかに動いた。意識があるかどうかも分からないのに、手放そうとしなかった。
シルビィは缶を握ったままにしておいた。
「寝て」
堂島は小さく頷いた。
「……ああ、ありがとう」
シルビィは答えず、布を替えながら静かに座る。外ではボイラーの唸る音が続いていた。蒸気が抜ける細い音、どこか遠くで配管が軋む音。煤と煙の「底」で、この小さな一間だけが、ひとときだけ静かだった。
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――拾った。
そう思ってから、考えるのをやめた。
理由は後でいい。「底」では考えすぎると動けなくなる。今は、目の前の呼吸が続いていることだけが大事だった。
ただ、額の布を替えながら、シルビィはあの金属の缶をもう一度だけ見た。
「底」では見たことのない形をしていた。どこから来たのか、何が入っているのか、どこへ行くつもりだったのか。
この人は、いったい何者なんだろう。
答えは、まだどこにもなかった。
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