7. 王太子殿下は踊らない
赤、青、黄、紫、緑、ピンクにオレンジ。
大広間を埋め尽くす、色とりどりのドレスを纏った若い娘達。
俺のために敷き詰められた花々。
昨日、上であいつが言ったことだが、なかなか見事に言い表している。
こんな華やかな舞踏会は生まれて初めてだ。まあ、十年前の婚礼がこんな感じだったかも知れないが、よく覚えていないしあれはもうどうでもいい。
それよりあいつの、あの後の発言は何だ。部屋の壁に飾る花?あいつは母上のことを父上の装飾品か何かとでも思っているのか?あれは意味がわからなかった。
はぁ…億劫だ。
こんな鮮やかな恵まれた世界に生まれて、悩みがあること自体が罪深いのかも知れない。
バレればきっと幼な子のように叱られるかも知れないが、さっき思いついた嘘。あれを後で言ってみようか。
今日一日くらいなら、神々も母上も許してくれるだろうか。
俺の名はエメルディア・テードリアン。
"東の覇王"スロンディア二世の最初の息子で、この国の王太子。
来たる未来に、セルナールの王位を継ぐ者。
生まれ持った義務は理解している。先祖から受け継がれたこの偉大な王国を愛しているし、命を捧げるために生きている。運命に抗うつもりはない。
だけど少しだけ、ほんの少しの間でいいから、俺も皆のように、願ってみてはいけないだろうか。
階段の下では、王家に挨拶するため、貴族達が長い列を作っていた。
王家の唯一の娘にしてエメルディアの姉、グエルヘン王女は数年前ギリアート家に輿入れした。そのギリアート家が、数ある貴族家の中で一番初めに七段の階段を登る。
セルナール王国の西部大半を支配下に置き、数多の旗主を従え、西の境で帝国やその麾下の勢力に睨みを効かせる最大貴族。王国最強と名高い火牛の騎士団を擁し、凄まじい威圧感を放つ巨人のような一族だった。
その中にあって、赤子を抱いて幸せそうに笑っている姉の様子は、退屈な顔の口角を無理やり上げていたエメルディアに、心からの安堵の笑みをもたらした。
姉の夫、ディオス卿は、2メートルを超える巨躯に雄牛の兜と赤鎧を纏い、その姿だけで戦場を震わせる勇者である。言葉に裏表なく、神々への信仰も厚い実直な男で、誰もが好感を抱く理想の騎士だった。
エメルディアは席を立ち、ギリアート家の面々に頭を上げさせた。ディオス卿と握手を交わして、姉グエルヘンと再会を喜び合う。それから、まだ歩くこともできない小さい甥を腕に抱いた。
エメルディアが抱くと、その子は大声で泣き始めてしまった。あやし方がわからないエメルディアは慌てて姉に返す。
苛烈な戦が繰り返された父の代には"ロヴィリカの闘牛"と恐れられた当主ガルディス公。そのかつての猛将が、孫をあやすために赤ちゃん言葉で必死に変顔を披露している。負けじと叔父のアドメルディアも変顔を披露し、テードリアン王家とギリアート家を温かな笑いが包んだ。
泣かせてしまったが、二つの家を繋ぐ平和の象徴を、エメルディアは愛おしく思い、最後にもう一度その頬に触れた。
ギリアート家が席に戻り、続いて王妃セレナリスの生家ルガディアス家が階段を登る。
スロンディア王の妃の座は、若かりし日にセレナリスが勝ち取ったものだった。それによりルガティアス家は王都の要職に一族を何人も送り込み、ギリアート、ルーベルンと並ぶ大貴族に成長した。
ルガティアス家が利権を貪っているという声も初めはあったが、それはセレナリスの力によって封殺された。
セレナリスは、王妃として完璧だった。戦で王都を空けることの多かった夫に代わり政治を代行する力を持ち、威厳を持って諸侯を平伏させ、世継ぎとなる男児を三人も産んだ。
最強の王スロンディアの妻としての責務を完遂し、その王妃としての在り方に一切の隙はなく、セルナールを東の覇権国家たらしめる要因であることは誰の目にも明らかだった。
そこからの時間は途方もなく長かった。
エメルディアは椅子に深く腰掛けたまま動かず、退屈を顔に出さないように努めていた。
母セレナリスや叔父アドメルディアが各家に歓待の言葉を述べ終わるまで待ち、最後に列席への感謝を短い言葉で締め括る作業の連続。
どの貴族達も年頃の娘を伴っており、それはまるで献花のようだった。
あといったい何組来るのかと目線を上げた時、少々驚くべき参列者の順番が回ってきていた。
令嬢が一人。父も母も臣下の一人も伴わず、一人で階段を上がって来る娘がいた。
母と叔父も従兄弟達も驚いている様子。
赤いドレスを着た、背の高い令嬢だった。
「この度はお招きいただきありがとうございます。ヒーツを治めております、グレンザ・ノーツァースの娘、フラーエンと申します。王太子殿下におかれましては、今回のヴィタール公国の件、誠に…」
何度も練習してきたであろう、それまでの諸家と同じような挨拶を、たどたどしくも口上する赤いドレスの娘。
耳に開けた穴の宝飾は、リュッテン人の文化が混ざる北の特色のものだろうか。
その娘の顔を、エメルディアは思い出した。
思い出して、ガタッと音を立て、勢いよく椅子から立ち上がった。
フラーエンは驚き、口上が止まってしまう。フラーエンだけではない。王妃も臣下達も、他の貴族達もそのエメルディアの挙動に一斉に注目した。
エメルディアが椅子を立って出迎えたのはギリアート家とルガティアス家のみであった。まだルーベルン家が来ていないが、大貴族以外の挨拶では、エメルディアはずっと座ったままだった。
なのにそのエメルディアが、何故か一人だけで来ている謎の令嬢を前に、椅子から立ち上がった。
場内に静かな衝撃が走る。
「あの娘は一体何者?」
「一人なのか?どこの家の令嬢だ」
「殿下はあの娘を気に入ったのか?」
「どんな顔をしている。美しいのか?」
「ずいぶん背が高いわね。ああいうのが殿下の好み?」
「なぜ一人なの?本当に貴族?」
「赤は王家と同じ色だぞ」
「確か赤地に、山羊の紋章でしたわ。黒い山羊よ」
「黒山羊?わからん。殿下を立たせるほどの家なのか?」
「あれだ、北の……何と言ったか、ほらあの、なんたら家だ」
「え、まさか殿下は、あの娘に決めてしまうの?」
「そんなはずはない。まだルーベルン家が登壇していないぞ」
会場中がフラーエンを品定めし、王太子が立った理由を考察し合う。
王太子妃候補本命と目されるロザリード・ルーベルンも、遠くからその様子を注意深く観察していた。
そんな後ろからの視線に、フラーエンは全く気付いておらず、突然立ち上がった王太子に驚き、何かいきなり粗相をしてしまったのかと焦っていた。
それとも、ぶつかった時の態度はやはり許されないものだったのかと思い返す。しかしあの時は相手が王太子とは知らなかったし、やはり馬で跳ねた方が悪いに決まっている。
この咎で何か言われるなら、王太子妃など願い下げと、今日中に荷物をまとめて帰ってやろうとフラーエンは考えていた。
だが、王太子の言葉はフラーエンにとって意外なものだった。
「ノーツァース嬢、昨日は申し訳なかった。急いでいたとは言え大変な無礼をした。どうか許してくれ」
エメルディアはフラーエンに謝罪をした。
横で聞いていた王妃セレナリスは肝が冷えた。これから嫁を迎えようと言う時に、一体何をしたのだと、冷や汗が額を伝った。
「お気になさらないでください殿下。私、人より丈夫なんです!あれくらい、扉の角で頭をぶつけたようなものです!」
それは結構痛いのでは?と思いながらも、気丈で溌剌なフラーエン・ノーツァースに、エメルディアは好感を覚えた。貴族としての格式はあまり感じられない上、一人で来ていると言う謎の状態だが、それが逆に興味を引いた。
破廉恥な醜聞に繋がるような粗相ではなかったようで、セレナリスは安堵した。
「私は本当に大丈夫ですから、むしろ殿下の馬の方が心配です。見事な白馬でした。怪我してなければよいのですが」
フラーエンが話していると、王妃が口を挟んだ。
「父君は、グレンザ公はお元気かしら?」
フラーエンはぎくりとする。それは触れられたくないところだった。当主の不在。これだけで王家に対する侮辱と見做される可能性もあると、フラーエンは一応考えていた。
「申し訳ございません王妃様。父は領地の平定に忙しくしており」
王妃はまた話を遮る。
「怒っているわけじゃないのよフラーエン。あなた一人でも、遠いところから来てくれてありがとう。ヒーツの平定は我々王家がノーツァース家に任せた大切な仕事ですからね。父君が元気ならそれでいいのよ」
セレナリスが優しく微笑むことでフラーエンは安心感を覚えた。
次は王弟アドメルディア卿が口を開く。
「もう何年も会っていないが、父君は素晴らしい男だ。落ち着いたら来てくれと伝えてくれるかな。長く眠っている王もきっと喜ぶだろう」
無骨で政治嫌いの父のことを、フラーエンは心配していた。だが王家からの信頼の厚さを知り、誇りで胸がいっぱいになった。
「私も是非会ってみたい。いつか会えることを楽しみにしている。ゆっくりと王都を楽しんでくれ、フラーエン嬢」
エメルディアのその言葉を括りに、フラーエンは一礼して退がろうと身を返す。
その時、王妃セレナリスがフラーエンの背中ににもう一言投げかけた。
「もうアルディエンにそっくりね。会えて嬉しいわ」
王妃の口から出たのは、亡き母の名前だった。フラーエンは驚いて振り返った。話を聞きたかったが次の貴族が階段を登り始めていたので諦め、もう一度深く礼をした。
どうして王妃様が、母の名を知っているのだろう。王都の生まれとは聞いていたが、王宮にいたのだろうか。
フラーエンは気になって仕方がなかったが、次の瞬間、頭の中は別のことでいっぱいになった。
階段を降りようと大広間を向いたフラーエンは、全員の注目を集めていたことにようやく気が付いた。
これが王族の見る景色。王妃の、王太子妃の見る景色。
恐れと高揚が入り混じり高鳴る胸を押さえて、フラーエンはゆっくりと階段を降りた。
フラーエンが席に戻ると、カリネが勢いよく訊ねてきた。
「あんた一体何者よ!殿下に告白されたの?」
「そ、そんなわけないじゃない。私を馬で跳ねたことを謝って下さっただけよ」
「う、馬で跳ねた?」
カリネは隣に座る父と顔を見合わせた。
「じゃ、じゃあ殿下がもう妃を選ばれたわけじゃないのね」
やっとありつけると言わんばかりに白パンを手に取るフラーエン。
「少なくとも私は選ばれてないかな」
「ふ〜ん。まっ、良かったじゃん。間違いなく今日一番の目玉だったわよ。まだ舞踏も始まってないけどね」
フラーエンは安心していた。家の繁栄のため、政略のためにこの王都に来たが、エメルディア王太子は謝ることができる人だった。
値踏みをするわけではないが、高慢さなど一切ない姿勢には好感を覚えたし、声も優しかった。
あの王子様が相手なら、素敵な恋ができる気がする。フラーエンは大広間の端の末席から、遠くに見える壇上のエメルディアにうっとりとした視線を向けていた。
「素敵〜」
羊の肉を千切りながら、カリネが言う。
「あんた面白い娘ね」
それからいくつかの貴族が挨拶を終え、列の終わりが近づくと、いくつもの椅子の脚が石畳を擦る鈍い音が大広間に響いた。
「とうとう来たぞ…」
誰ががそう言ったのが聞こえた。
ルーベルン家が立ち上がり、階段の前に整列した。青に統一された装いには豪奢な刺繍があしらわれ、富の貴族の風格を醸し出している。
先頭に立つのは当主にして王国の政治を司る執政会の財務卿、レイデン・ルーベルン。
そしてその傍には、この王太子妃の座、花のティアラ争奪戦の圧倒的本命と目される美姫。"薔薇の中の薔薇"、ロザリード・ルーベルンが控えていた。
「あれが、薔薇の中の薔薇…」
「なんて美しいの……」
金銀の刺繍に星のような宝石を散りばめた青い絹のドレス。白い指には宝石達が輝きを連ね、波打つ漆黒の髪は他のどの令嬢も真似できないような形で銀色の髪飾りと共に結い上げられていた。
小さな口からこぼれる吐息すら美しく、長いまつ毛が瞬きに揺れるたび、男達は息を呑む。
ロザリードがただ歩くだけで、大広間は感嘆の声に包まれた。
レイデンとロザリードが壇上に上がり、階段には引き連れた一族や臣下が並ぶ。その構図は青い弾幕のようで、ルーベルン家の力と威厳を誇示していた。
「王太子殿下、王妃様」
レイデンが頭を下げ、ロザリードもそれに続く。エメルディアを含め、王家が椅子から立ち上がった。
「レイデン公。ルーベルン家の日々の寄与と、今宵の参列に感謝する」
セレナリスが口を開く。
「とても美しいわロザリード」
「ありがとうございます王妃様。あなたのようになれるよう、日々励んでおります」
ロザリードは一年ほど前から、王妃の朝のドレスの着付けと、香油選びを務めている。王妃が最も寵愛する令嬢だった。
「殿下におかれましては、日ごとに偉大な王の風格を備えていきますな。陛下の不在にもこうして絢爛な夜を謳歌できることこそが、王国の未来の安泰、引いては殿下の器を表しているということなのでございましょう」
「褒めすぎだレイデン公。この夜はそなた達臣下の力あってのものだ」
レイデンが褒める時というのは、その後に何か打算的な要求が続くことを、エメルディアは執政会を通して国の統治と共に学んでいた。
「今宵の初めの舞踏を、是非我が娘ロザリードと踊っていただきたい」
ほらきた。予め用意していた子供のような嘘をつく作戦を、エメルディアはここで発動する。
「すまないが、今日は踊れないんだ」
その言葉に、レイデンとロザリード、さらにはセレナリスやアドメルディアまでもが同時に眉を動かした。
「さっき足を挫いてしまって、実は立つたびに激痛が走っていたのだ。諸侯には悪いが、今日は舞踏を見物させてもらう」
見え透いた嘘。と、誰もが思った。そう思われているのは重々に承知の上で、エメルディアは歯を見せて笑った。
「そうですか。それはいけませんな。ウィンザメルから医者を呼びましょう」
「気遣い痛み入るが大丈夫、そんなには柔じゃないぞ私は。次の舞踏会では是非よろしく頼む」
階段に並んでいた青服達が左右に割れ、レイデンとロザリードが降壇し席に戻る。
歩きながら、ロザリードとレイデンが小さく言葉を交わした。
「私じゃ不満かしら」
「そんなはずはない。殿下は慎重なお方なのだ」
楽団の演奏が始まり、晩餐の舞踏に優雅な時が流れる。フラーエンは次々に相手が入れ替わる舞踏を楽しみながら、何度も上座に目をやった。フラーエンだけでなく、令嬢達は皆そうだった。
だがその日、エメルディア王太子は最後まで席を立つことはなく、舞踏会は幕を下ろした。




