32. 波乱
「なあコリー。お前は本当にこれでいいのかよ」
そう尋ねたのは黒犬騎士団の次席、ベンテリー卿だった。馬から降り、兜を従者に預けたコリーは、籠手のベルトを外しながら返した。
「何がだ」
「とぼけるなよ。こんな槍試合は茶番だ。俺たちは今、自らの手で掘った穴に名誉を投げ入れて土をかけているようなものなんだぞ」
左の籠手を従者に渡して、コリーはベンテリーに一瞬だけ視線を向ける。そしてまたすぐに、右の籠手を外しにかかる。
「だから何だ。主人の言うことを聞けないのか?」
ベンテリーは真剣な表情で続ける。
「今回のは、どう考えてもおかしいだろ。みんな言ってるぞ。何故ルーベルンなどにわざと負けなければならない」
ベンテリーがそう言った瞬間、コリーの厳しい視線が飛ぶ。
「うっ、すまん声がでかかった。いずれにせよ、千の敵に突撃しろと言われる方がまだ優しい」
「皆の疑念はわかる。だが、それがどうしたと言うのだ。主人の言葉を疑いはしない。笑う奴らは放っておけ」
ベンテリーは項垂れる。
「お前、本当に犬みたいだな」
「ああ、そうだ。そうあらねば…」
コリーは悩んでいた。この槍試合の価値が本当に計り知れぬものであるなら、密約など全て無視して優勝してしまおうか。ロザリードとルーベルン家が大金を叩いてまで欲するその優勝をリリアンに捧げれば、それがベティオルにとって最も良い未来なのではないか。
そこまで考えて、コリーは頭を横に振った。一介の騎士の頭では及びようもない思惑が、当主達にはきっとある。自分の領分は、ただ馬に乗り、槍を振るうことのみ。
手綱を持つ少年の従者がコリーに言う。
「コリー卿。僕も、こんなの…」
コリーは怒りも諭しもせず、ただ黙って外れたもう片方の籠手を少年に手渡した。
「あと何試合あるの?」
香油を染み込ませたハンカチを鼻に当てながら、ロザリードがアレインに尋ねた。
日も傾き、取り巻きとの雑談も底が尽きた。ロザリードは試合をほとんど見ずに、目を閉じないように努めるのみである。頭に響くこの観衆の声が、最早煩わしくて仕方がない。
「ジュラン卿はあと三回勝てば優勝です。残りの全ての試合数は、あと…五回…六回?ですね」
「はぁ。いつも思うけど、何が面白いのよこれ」
そう溢したロザリードをレイデンが嗜める。
「無理に楽しめとは言わんが、常に見られているという意識を持て。目指しているものを忘れるな」
そう言われてロザリードは王族席を見る。開幕から何時間経ったか。少なくともロザリードにとっては同じことが延々と繰り返されているだけだが、王妃は一回一回の試合に拍手を送り、勝利した騎士に微笑んでいた。
「この槍試合にかけた金は全て、他の誰でもない、お前のためだ。わかっているな?」
「はい」
ロザリードはハンカチを膝の上に置き、もう一度試合に目を向けた。
正にその瞬間に、見る者全ての目を疑わせる、衝撃の落馬が起こった。
その駆け抜ける騎士の紋章を見ても、すぐに名を言える者はいなかった。
レイデンが家臣のオルソン・ギースに尋ねる。
「何者だあれは」
「盾の印は、崖に建つ…家…?いや、塔でしょうか……。トークンは持っていないようです」
「どこの家だ」
「わ、わかりません!すぐに調べさせます!」
ざわめきが立ち広がった。全ての試合か一日に詰め込まれていたため、実のところロザリード以外にも飽き始めている者は少なからずいた。今行われたこの試合は、それら全ての者の注意をもう一度引きつけるに十分な衝撃を生み出した。
というのも、砕けた盾と共に地に落ちたのは、黒犬騎士団の団長、コリー・ウィルダンである。
そしてその相手は、予定していたジュラン・ルーベルンではない。ジュランとの試合はこの次のはずだった。
無名の騎士が高名な騎士を打ち破った。何も知らぬ者達から見れば、この出来事は槍試合における最大の楽しみである。今日何十回目かもわからない熱狂がまた沸き起こり、そしてそれは今日最大のものであることも明白だった。
ルーベルン家の予定が狂った。
レイデンもロザリードも、計画を知る一部の家臣達も、この番狂せに反応が一拍遅くなる。
「黒犬騎士団は、この命令に承服しかねていたと聞きました」
ロザリードはコリーの自演を疑った。正確にはコリーではない。疑念の目の先にいるのはリリアン・ベティオルと、その父リガードである。ヘレネッサとの共謀以外にも、まだ企み事があるのかも知れない。力の差はわからせたとは言え、絶対に噛み付かれないという保証がまだないことは理解していた。
ロザリードの疑念に、父レイデンが答える。
「それは当然であろう。騎士ならば皆誇り高い。だがそれに見合う対価は差し出しているし、わざと負けたようには見えなかった」
「ではあの騎士は、本当に伏兵と?」
父からの返答はない。
「もう準決勝よ。ジュランは勝てるのですか?」
「わからん。小細工無しでもあいつはそれなりに強いが、コリー卿にはまず勝てぬだろう」
「つまり?」
「想定していなかったわけではない」
そう言ってレイデンは、オルソン・ギースに目で合図をする。オルソンは客席を立ち上がり、裏手の階段を降りて行った。
「アレイン」
ロザリードはアレインの目を見る。アレインも頷き、ラーサ・クラーディとヘネア・バーデルを連れて階段を降りた。
ロザリードはまた爪を噛み始める。だが、今下に降りた三人以外の令嬢達には、ロザリードにその癖を止めるよう進言する勇気を持つ者はいなかった。
その頃、会場の裏手では、黒衣の騎士達と青衣の騎士達が向かい合っていた。
「コリー卿!話が違うぞ!」
ルーベルン家の旗主、クラーディ家の長男であるハイレンス卿が、ルーベルンの騎士や従者を引き連れて、敗れたコリーに詰め寄っていた。
コリーは座って顔を伏せ、静かに籠手のベルトを外している。その後ろには黒犬騎士団が立ち並び、ルーベルン勢と視線をぶつけ合っていた。
「申し訳ない。負けてしまったよ」
コリーは小さく溢した。それに対しハイレンスは声を大にしてコリーの失敗を追求する。
「負けてしまっただと!猟犬というのは、主人の言い付けを守るものであろう!」
この言葉に、黒犬騎士団のベンテリーやその他の団員が言い返す。
「槍試合で勝ちたければ、己の力で勝てば良かろう!」
「お前達ルーベルンのやり方は、初めから勝者に値していない!」
「な、貴様!」
「今の言葉は全て報告するぞ」
ベンテリーが足元に唾を吐き捨てる。
下等な言い争いは一触即発となり、周囲にいた関係のない者達の注目を集めてしまっている。コリーはため息を溢して立ち上がり、捲し立てるハイレンス達の前に立った。
「俺は主人の命令通り本気でやった。全ての神々に誓って、わざと負けたりはしていない」
わざと負ける。その行為の卑しさを、コリーは神々の名を借りて口にした。
そしてその言葉は、主人が交わした密約により失われかけた仲間達の騎士道を繋ぎ止める精一杯の反抗だった。共に企てに従った団員達は皆、コリーの本心を知り唇を噛み締めた。
その時、背後から声がする。
「コリー。みんな」
一同が振り返ると、そこに立っていたのはリリアン・ベティオル。黒犬騎士団が戦いたかった本当の理由だった。
「姫様…」
それとほぼ同時に、もう一方の視界の後ろから、騎士達に声がかけられる。
「兄上」
振り向いたハイレンスが呼び返す。
「ラーサ。それにオルソン公、アレイン嬢、ヘネア嬢」
この者達がここに来たということは、レイデンとロザリードの意を伝えに来たのだろう。騎士達はすぐにそれを理解し、背筋に汗が走る。
オルソン・ギースがコリーに向かい礼を言う。
「とりあえずは今、ジュラン卿が勝ちました。ベティオル家に感謝します」
聞こえて来る歓声は、ジュランの勝利を祝したものだった。そしてその相手は黒犬騎士団の一人。主人リガード公の命令通りに、ジュラン・ルーベルンの槍を受けて自ら馬から落ちたのだろう。
リリアンが騎士団に言う。
「皆、素晴らしい戦いでした。祝福できなかったこと、そしてあなた達の名誉を傷つけたこと、ごめんなさい…」
それを聞いて、ベンテリーが首を横に振った。
「姫様、あなたが謝ることなどありません」
辛い目をしているが、リリアンは騎士達に精一杯微笑みかけた。
ロザリードの言葉がそのまま口から出てきたかのような冷たさで、アレインがリリアンに言った。
「不慮であったとしても、計画に混乱をもたらしたことに変わりはありません。それはお忘れなきよう」
今ここでアレインは、ロザリードの代弁者であることをリリアンは理解している。
「わかっているわ、アレイン・ギース。忠実なのね。まるで騎士のよう」
リリアンはアレインの目を真っ直ぐに見つめた。微笑んでいるが、瞳の奥の感情に安らぎはない。
そこに、ラーサが次の言葉を投げつける。
「ロザリード様は簡単に水に流しはしないわよ。しくじったのなら、別の形で穴を埋められるよう何か考えておくことね」
リリアンはそれに対しては何も答えず、騎士達の方に向き直った。
「皆帰っていいわよ。後は私と父上がいればいい」
会場はコリーを倒した謎の騎士の話題で持ちきりだった。
「嘘だろ、コリー卿が?」
「ねえ何者!?強すぎない?」
「まずい、賭け金が…」
フラーエンやカリネ達も、その興奮の波に包まれている。
「誰なの…あれ?カリネ知ってる?」
「わからないわ。主人らしき人も見当たらないわね」
フラーエンがトークンを授けたジェレム卿はクロディア王子に敗れ、フラーエンは消化試合を見る気持ちだった。
だがこの波乱には、心臓が高鳴らずにはいられない。
飾り気のない質素な鎧を身に付け、誰もその名を知らず、期待されていなかった騎士が強敵を倒して勝ち進むその様に、フラーエンはこの王宮での自分を重ねたいと思った。
それが淡い夢想であるとしても。




