23. 乱闘騒ぎ
「できた!」
フラーエンは歓喜して、刺繍をあしらい終えた布を高く掲げた。
何度指を刺したかはもうわからない。槍試合の前日になってようやく完成したそのトークンの出来は、お世辞でなら完成していると言えるだろうか。
黒い動物の姿、まあ恐らく山羊なのだろう。その周りを赤い糸で何かの紋様を表現しているのがわかる。
見せつけられ感想を求められたスコーラは、簡潔に、傷つけない言葉を選んだ。
「よく出来ていますね」
「よかった!父上の旗を意識したのよ」
フラーエンは無邪気に笑ったが、侍女頭のヘーネによって口を窄めさせられる。
「甘やかすんじゃないよスコーラ。姫様、わかってるでしょ?ヒーツで練習してればもっとちゃんとできたって」
「もう。だからスコーラに聞いたのに。いいのよ、どうせ輪っかにするから刺繍なんて見えないし」
「困った姫様だねぇ。そんなことではロザリード嬢達の隣には並べませんよ」
「わかってるわよ。みんなに見せて来よーっと」
フラーエンはトークンを握り締めて、ドタバタと回廊に出て行った。部屋で待つ侍女二人は顔を見合わせる。
「やれやれ、楽しそうだからいいけど…」
回廊の人混みを縫うように歩きながら、フラーエンは独り言を呟く。
「ロザリードと比べたって仕方ないじゃない…生まれた時から違いすぎるんだから」
歩幅が狭くなり、やがて回廊の真ん中で足が止まる。まだ王都に来てから一度も雨が降っていない。ヒーツの曇天を懐かしく思い、青空と太陽に焦燥を覚える。
手摺りに手をつき、中庭を見下ろす。数は減ったが、令嬢達の笑い声は今日も至る所で響き合い、庭師や侍女が動き回っている。
「良縁かぁ」
北からの旅路の中でフラーエンの胸を高鳴らせていた根拠のない自信は、すでに消失しかけていた。
誰から何を聞くまでもなく、宮廷にいるだけで、空気を感じるだけで理解できる。
色仕掛けや情への訴えで揺れることはない、理知的と噂の王太子が正解を選ばない理由がない。
そしてフラーエンの目から見ても、正解は一つなのだろうと、日に日に強く感じていた。
その時、フラーエンの耳にとある会話が聞こえてきた。
「待ってくれサラ。勘違いさせたのは僕の罪だよ。お願いだ許してくれ」
その声は、フラーエンが立つ二階の回廊のすぐ下からのものだった。顔を出して覗き込むと、若い男女が何か言い争っている。
「勘違いですって?あんなに他の令嬢を見つめておいて、私の勘違いだって言うの?」
「見つめてないよ。僕の瞳はただ一人を見つめるためだけにあると、この王都に来てわかったんだ」
フラーエンは他の事を考えるのはやめて、その様子の観察を始めた。
「言ってくれなきゃわからないわ」
「サラ・シングソン、君だよ」
「ああヴェイリック。本当に私の勘違いなのね」
「そうさ。明日の槍試合で、それを証明して見せるよ」
「きっとよ?待ってるから、絶対私のところに来てね」
うっとりとした空気の中で見つめ合う二人。フラーエンはニヤニヤしながら、手摺りに肩肘をついてそれを見下ろしていた、その時。
「うわあ!」
ヴェイリックという若い騎士が、フラーエンの視線に気付き驚いた声を上げる。ヴェイリックが見上げる方に目を向けたサラが同じように声を上げた。
「ちょ、ちょっとフラーエン!聞いてたの!?」
「ごきげんようサラ!聞こえてきたのよ!」
サラとヴェイリックは顔を真っ赤にして固まった。
少し灰色に近い金髪に、若草色のドレスを着た東部の令嬢、シングソン家のサラ。隣に立つヴェイリックという茶髪の騎士とは運命の出会いらしい。よくわからないがカリネからそう聞いた。
「その人が噂の騎士様ね!お似合いじゃん!」
「あ、その手に持ってるのトークンね!ヴェイリックはダメよ!ちょっとあなたも見つめないで」
「み、見つめてないよ」
「私はそんなんじゃないわよ!」
少し嫉妬深そうなサラが可愛いなと笑いながら、フラーエンは敵意がないと示すように手を振った。
その時、強風が回廊を吹き抜け、手に持っていたトークンを飛ばしてしまう。
「あっ…ま、待ってぇ!!」
フラーエンのトークンは風に乗って、中庭の宙を舞った。
回廊を走り出したフラーエンを見つめて、サラが腰に手を当てて呟く。
「馬に跳ねられたり、トークンを飛ばしたり、騒がしい子ね」
走ってはいけないとわかっているが、フラーエンは走るしかない。好奇の目で見られているような気がするが、優雅に歩いて紛失し、今から新しく同じものを作るなんてとてもできる気がしなかった。
やがて中庭の端に落ちていくのが見えた。階段を急いで降りて、落ちて行った植栽の前に立つ。
大丈夫、庭師はいない。誰かに怒られる前にさっさと回収してしまおうと、ドレスのスカートを纏めて恐る恐る土に踏み込む。
その時、巨大な獣が飛び出してきて、フラーエンは尻餅をついた。
「きゃっ!何!」
それは犬だった。灰色のうねり毛に覆われた四肢の長い大きな犬。その口には、見覚えのある赤い刺繍の布切れが。
「あっ、それ!私のトークン!」
犬を恐れるフラーエンではない。噛まれるかなどとは微塵も考えず胴体を抱き抱え、口を開けるように下顎を掴む。
「いい子ね、返してそれ」
犬は素直に顎の力を弱め、フラーエンはトークンを取り返すことに成功する。
「いい子ねえ〜!拾ってくれたの〜」
撫でると犬は尻尾を振った。その可愛さに、フラーエンは顔の周りを撫で回す。そうして戯れていると、後ろから声をかけられた。
「フラーエン?大変、土だらけじゃない」
振り返ると、そこに立っていたのは取り巻きを連れたリリアンだった。
「あ、リリアン、それにアレイン、ロザリード……」
当然のように、この一行の中心にはロザリードがいる。彼女は何も言わずに、少し控えた位置からフラーエンを見ていた。
「これは、ちょっとした危機だったの!この子がお利口で助かったわ」
「そう」
リリアンが優しく微笑んだ。
ロザリードが前に出て、慌てるフラーエンと手に持っている布を見て微笑む。そして隣にいる犬に目を向けた。
「ロッシュじゃないの。皆怖がるのに、あなたは怖くないの?」
「あなたロッシュって言うの〜。もしかしてルーベルン家の犬?とっても可愛いわね」
ロザリードは口元にハンカチを添えて笑った。
「私の犬ではないわ。いくらなんでも王宮に犬は放せないわよ」
「え、じゃあこの犬って…」
「王太子殿下の犬よ」
「えっ!」
フラーエンは驚いて、撫でていた手を離した。リリアンが口元を隠して笑う。
「うふふ、舞踏会でも、殿下の後ろで寝てたわよ」
「本当に?全然気づかなかった」
ロザリードがフラーエンに問う。
「それはトークン?」
「ええ、刺繍は苦手なんだけど、明日の槍試合にはなんとか間に合って良かったわ」
「そういえば明日だったわね。楽しみね」
「え、ええ…本当に」
少し慣れたとはいえ、ロザリードと話すのはやはり緊張する。ロザリードだけではない。リリアンやアレインが相手でも、他の令嬢と同じようにはいられなかった。
会話が途切れないよう短い時間で言葉を選び、上手く笑えているか、それは正しいタイミングかと、考えながら話をする。
具体的に他の令嬢とどう違うのか、言葉として整理するのは難しいが、自然と背筋が伸びてくる。フラーエンにとってその不思議な力はロザリードの魅力そのものだった。
今日も静かな風の中で、薔薇の花びらが開くように彼女は美しく笑っている。
生まれた時から何かが違う。心のざわつきは、顔を合わせるたびに確信に変わっていく。
勝てない。同じ舞台に立っていない。
突然ロッシュが駆け出した。正門から中庭に続く大廊下の方へ走っていき、驚いた令嬢達が道を開けるように飛び退いている。
「もしかして…」
アレインが言い、ロザリードはロッシュが駆けて行った方を見つめている。
状況がわからないフラーエンに、リリアンが隣に来て教えてくれる。
「王太子殿下かも」
「えっ…」
胸が高鳴る。四人は並んでそちらを注視した。
だが、ロッシュは大廊下の前で立ち止まり、尻尾を立てて激しく吠え始めた。
中庭と回廊にいる人々の視線が集まっている。そこに姿を現したのは、王太子ではなかった。
「うるさいぞロッシュ。御所に戻ってろ」
ロッシュに命令をする若い男と王宮の衛兵達。それから、衛兵に身柄を抑えられたような格好で、二人の騎士が連れられていた。
その様子を見たリリアンが、開いた口を手で隠して言った。
「何をやってるのよ…」
「クロディア殿下だわ。連行されているのは…黒犬騎士団の人?」
ロザリードが言うと、リリアンは首を数回振りながら答えた。
「ええ、うちの騎士ね」
「大人しくしろ。さっさと歩け」
騎士達が奥に連れて行かれると、中庭にひどくざわついた。
「どこに連れていくのかしら」
フラーエンの疑問にアレインが答えた。
「地下牢かしら。何か大事のようね」
その時、カリネが駆けて来た。
「あ、いたいた!フラーエン…と、ロザリード様、リリアン様、アレイン様。ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
「どうしたのカリネ」
「大変よ、乱闘騒ぎだって!さっきの騎士達、名誉だなんだって大騒ぎを起こしたそうよ」
「喧嘩ってこと?」
「そういうことね」
リリアンがカリネに尋ねる。
「相手の騎士がどこの家か、わかりますの?」
「あ、いや。そこまでは…」
そこにサラがやって来る。
「ねえ聞いた?乱闘ですって」
ロザリードとアレインは近くのベンチに腰を下ろした。
集まって来た令嬢達が話していると、回廊にリリアンの父リガード・ベティオルが見えた。義足の音を響かせて、急いで御所に向かっている。
「リリアン様…」
ベティオル家の従士がやって来る。リリアンは頷いて、ロザリードに挨拶をした。
「失礼するわ。少し用事ができたようなの」
ロザリードは笑って手を振った。
「また明日ね」
場は騒然としているが、この騒動へのロザリードの興味は既に失われていた。そろそろ行きましょうかとアレインと話していたその時に、ルーベルン家の旗主であるクラーディ家のラーサが慌てて駆けて来た。
「大変です!ロザリード様!」
「どうしたの一体。乱闘騒ぎなら聞いたわよ」
その知らせは、ロザリードの興味を再び乱闘騒ぎに引き戻した。
「ヘ…ヘレネッサです!ヘレネッサが来ました!」




