18. 孤独な王太子
「少し休もうか。セルディア」
エメルディアは諸侯からの手紙を置く。王太子がここまでの事務仕事をする必要はない。実際、父王は全くやっていなかったらしい。
だがエメルディアはこの作業で、王国に尽くしているという実感を得たかった。
従兄弟のセルディアはこの退屈な午後をいつも共にしてくれる。もう一人の従兄弟フレディアと違い、真面目で熱心。
テードリアン王家には珍しい茶色い髪は母譲りらしい。黒髪だった父は、十三年前、セルディアが三歳の頃に戦死した。
王国存続の代償として払われた大きな犠牲の一つだった。
召使いが持って来たワインを受け取る。セルディアはまだワインを好まず、水の入った杯を受け取る。
「剣術の調子はどうだ?黒犬騎士団に教わってるんだろ?」
「励んではいるんですが、まだまだです。本物の騎士を前にすると、足が硬くなります」
「はは、俺もだよ。あの違いはなんなんだろうな」
「殿下もですか?意外だな。何でもできると思ってました」
「そんなわけないだろ。今は二人だ、殿下はよせよ」
エメルディアがそう言うと、セルディアはにこりと笑う。
「エメル兄さん。今度手合わせしてください」
「ああ、勿論だ」
十六歳の王の甥。結婚をさせるには適正な年頃のセルディアを見て、エメルディアはふと尋ねる。
「セルディアお前は、妻に何を求める?」
セルディアは水を口からこぼす。
「ぼ、僕は…そういうの、わからないです」
「まだ女が怖いのか?大丈夫クロディアには言わないさ。相談に乗って欲しいんだ」
「こ、怖いわけじゃないですよ!ちょっと、なんていうか、緊張する…」
セルディアは令嬢を前にすると異常に緊張し顔を赤くする。最早令嬢達に面白がられるほどだった。
エメルディアも笑ってしまう。
「ああ、わかるよ」
「なんていうか、緊張しない人がいいです…」
「そうだな。それは重要だな」
笑ってはいけないと我慢し、体の震えを大袈裟な頷きで誤魔化す。
エメルディアは話をここで切り上げた。
「剣を振りに行こう。この時間ならクロディアもいるんじゃないか」
そう言って二人は、城の裏手の訓練所へ向かった。
その日の夜、月明かりと蝋燭の光の中で、エメルディアはベッドの背にもたれていた。
日中は朗らかだが、夜はまだ霜が降りるほど冷え込む。
嫌がるロッシュを無理やり膝に乗せ、少し長い灰色の毛を抱き熱を感じる。
「なあ、ロッシュ。聞いてくれよ」
観念したロッシュは大人しくなり、エメルディアの頬をひと舐めする。狼のような体躯と牙に似合わず、ロッシュは甘えん坊な性格だった。
「お前、この前勝手に回廊に行っただろ。令嬢達が逃げ回ってたって聞いたぞ。ダメだぞ、ロッシュ」
ロッシュは顔を背ける。エメルディアは構わずロッシュの頭の匂いを嗅ぐ。愛情深い獣の匂いがエメルディアを安心させる。
「お前なら、俺にとって一番の相手を嗅ぎ当ててくれそうだな!やってくれよ!」
ロッシュはジタバタと暴れてベッドから飛び降りる。エメルディアはそれを捕まえて、もう一度同じ態勢に戻る。
「ワン!」
「こら!」
腕で固定されて動けなくなったロッシュは、また諦めて大人しくなる。
雲が動き、月の光がロッシュのうねり毛とエメルディアの白い手を照らした。
「なあロッシュ。
恋とかしたことあるか?ないよな、他の犬がいないもんな。
俺もないんだ。元妻のエイレシアは…結局妻じゃなかったんだっけ。もうわからないけど。十年も棒に振ったから、今からまた結婚しろって言われてもさ。
お前まで結婚に私情をとか言うなよ。そんなことわかってるから。
母上に相談したんだ。そしたら危ないところだった。怒られかけたよ。
ハウゼンは政治家だし。セルディアに愚痴るのも違うだろ。
クロディアには…言えるわけない。兄を揶揄うために弟をやってるようなやつだ。
民草の一人に生まれてたら、とまでは思わないけどさ。何に生まれたら一番自由だったんだろう。鳥かな。猫?お前には悪いけど犬は嫌だな。
……大きすぎるよ。責任が」
エメルディアの腕の力が抜け、ロッシュが膝から転がり落ちる。そのまま仰向けで寝転がるロッシュの腹をエメルディアが掻き撫でる。
「興味ないふりするのも大変なんだぞ。本当に興味ないわけあるか?俺のための花園とか言われて、ちょっとは見てみたいだろ普通。
あの中庭好きだったんだ。でも今は、行けば何かが変わりそうで、どうしても足が遠のく…。
ロザリードが木から降りられなくなったこととか、ヘレネッサがふざけてリリアンを水路に落として、リガード公が飛んできたこととか。
まるでなかったことみたいだ」
エメルディアの手が止まり、尻尾を振っていたロッシュが見上げてくる。
「フラーエン・ノーツァース。名前は知ってるんだけどさ。
話をしたけど、謝っただけで。そう、俺彼女を馬で跳ねたんだ。あり得ないよな。そのせいで周りはいろいろ勘違いしてるし。
俺も勘違いしてるのかも。浮かれてるんだよな、束の間の自由に」
ロッシュを抱き込むように横になり、エメルディアは目を閉じた。
「明日執政会か。はぁ……」
いつの間にか蝋燭は燃え尽き、月の光だけが、一人の青年と一匹の犬を優しく照らしていた。




