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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私であるボクに

作者: 江ノ島上総

Prolog.


その肌寒い風に照らされ、身体を僅かに震わす。

現在時刻は13時20分。

いつも通りなら、大体この時間は教室で授業を受けている。だが、今日は少し特別なのだ。

学校の都合で、午前中だけで終わり。

───詰まるところ、早帰りというやつで、全ての部活動は停止。故に生徒は皆学校を離れる。

だと言うのに。

ボクは体育館に来ている。

学校のだ。早急に立ち去らねばならぬ学校の、だ。


「……それと、体育の時以外にも、そう。運動部の人達なんかはここで部活動があるんだよ」


悟られぬように、愛想笑いを溜めながら、ボクは目の前の少女に説明をする。


「─────」


依然として、彼女は何も話そうとしない。

どころか、様子も上の空で目を虚んでいる。

じっと見据えていると、どこか気まずそうに彼女は左頬をかく。

ボクはどうしてか、その仕草に見とれて押し黙る。


「あ、そうそう。この体育館自体、だいぶ古いから、もうそろそろ建て替えるらしいよ」

「─────」


ボクがそう語りかけても、彼女は微動だにしない。

ただただ、何処かを見つめている。ただのそれだけ。


「───あのさ。何か言ってくれないかな?」


その空気感と反応に耐えきれず、知らず口にする。


「別に、喋るのが嫌なんだったら相槌でもいいから何か反応してよ。──なんの反応も無いと、心配になるんだよね」


こっちは本来休みのところを削ってまで説明してやっているというのにそんな態度をとられては、ボクだって少しは腹も立つ。

それ故に、少々の嫌味を込めて言い放った。


「あっえっ──その……」


素直に驚いた自分がいる。

彼女と会ってから数時間、初めてその声を聞いた。

思ったよりもずっと高い声で、可愛らしい声色だったからか、少しだけ動揺し、唾を飲む。


「あー迷、わ……くで───したよね、すいません」


────聞き取りずらい途切れ方。


「え? ううん。別に迷惑だなんて思ってないよ。たださ? ボクとしても、楽しく話せたらなぁ。──なんて」



どうしてこうなっているか。

それは、半日前に遡る───。



<12月7日>


震える。

この時期の、朝の寒さは異常だと思う。

ただでさえ気温が低いと言うのに、凍えるような風がびゅうびゅうと吹いている。窓なんて開けようもんなら、身体が凍ってしまう。

耐え難い寒さによって、ボクは自然と目を覚ます。

現在時刻は7時ジャスト。

学校が始まるのは9時からなので、急がなくても間に合う時間帯。


「─────」


───おかしな夢を見た。

夢の内容は単純で、1人の女性がただうずくまって泣いている夢。

ボクはその光景に心を打たれたが、声をかけようとはしなかった。

どうしてか、それは何かの禁忌に触れる気がして。


涙が落ちる。

その度に彼女は咽び泣いて、嗚咽を鳴らす。

まるで───

まるで何かを悔いて激しく自責しているようで、


ボクはソレをただ眺めていた。

決して手が届く事の無いその有様を、一途に見つめていた。

その夢が、ボクにとって何を示しているのかなんて分からない。

ないし、それで何かが変わるかも分からない。

──それでもどうしてか、ただ泣き続けるその在り方が、ボクの頭から離れそうにない。


「──んっ」


まだ睡眠状態から覚め切っておらず、硬直している身体を無理やり起こしてベッドから出る。

瞬間に、冷たい床の感触が足裏に伝わる。

それがより一層寒さを際立たせる。



自宅を出て歩く事数分。

僅かな時間でも、外に出ていれば身体は冷えきってしまう。

空気が凍えるような気温のせいで、思わずぶるっと震えてしまう。

本当に、何か防寒具を持ってくるんだったと心で叫ぶ──

家からここまでの距離はそう遠く無い。

考え事をしていれば、一瞬の内に着いてしまう。



いつもの段取りで、素早く自分の教室の自分の席へと赴く。

───教室は、いつもより騒がしかった。

数人が束になって集まり話し込む女子生徒。

束にならずとも、声を張って会話する男子生徒。

騒がしい。の種類は十人十色となっている。

それぞれがそれぞれの形を成して音を形成させている。

確かに、ボクのクラスは静かな方では無いのだけれど、それにしたって騒がしすぎる。一体何故なのだろうか。


───と。


「おはよう柚貴ゆずき」


園田そのだ翡翠ひすい。

ボクの中学以来の友人で、何かと腐れ縁がある。

いつも通りの元気さで、ボクに駆け寄ってくる。

最近は上機嫌だ。──なんでも、他校の1つ歳下の男の子と親しくなったそうだ。


「おはよう翡翠。今日は早いじゃん? どうしたの? いつもは遅刻常習犯なのに」

「たまたまだよ、たまたま早く起きちゃったってだけ」


珍しい事もあるものだ。

もしかすると、今日は世界が終わるのかもしれない。


(───あ、そういえば・・)


「ねえ翡翠。少し聞きたいんだけどさ。なんか教室が騒がしい気がしてならないのだけど、一体どうしたの?」


何気、今1番気になる情報だ。

何か特別な事でもなければ、こんなになる事もあるまい。


「あれ、柚貴聞いてないの? ほら、今日から転校生が来るんだってさ。

しかもその子が内の学年、そんでもって内のクラス。そんなこんなで、皆の話題だよ」

「なにそれ? 転校生とか、本当に聞いてないんだけど?」

「いやいやホームルームで話してたって。うんっと──先週くらいかな。

あ、確か柚貴、先週いない日あったよね? その日かな多分」


ツイてないと言うべきなのだろうか。

ボクはそういう大事な日に限って欠席だったりするのだ。

ボクの所へ来る前、翡翠も何やら女子達と話し込んでいたな。

何を話していたんだろうか。


「ねぇ翡翠。それで女子達は転校生について何を話してたの?」

「ん?まあ……。女の子なのか男の子なのかって所からだね。その辺、詳しく聞かされてないからね。私達」


───成程。性別すら知らされていないのか。

なんでだ───?

普通、それくらい伝えるべきじゃなかろうか。

担任が伝えそびれたのか、或いはわざとなのか。


「───あ、やば。もうホームルーム始まるじゃん」


言い残し、翡翠は自席へと戻る。


(それにしても転校生か…・・)


ボク自信、転校生が来る。だなんてイベントに遭遇した事が無い。漫画や小説の世界なんかじゃあ、割と顔なじみのイベントであるが、現実にはそうそう起きまい。

なんだか新鮮だなと思いつつ、意味もなく窓を見つめている。

───と。

教室のドアが開き、男は入ってくる。で、クラス全員の視線がその1点に集中される。


「はい、みんなおはよーう」


第一に、頼りのなさげな声色。

それだと言うのに妙に説得力のある迫。

このクラスの担任である彼は、もう10年来の教員らしい。

10年もの間この仕事をやっていれば、それなりに言葉に重みが増すと言うものだろう。生徒からの頼がそれを物語っている。


「まぁ──なんだ。先週から言っていた通り、今日からこのクラスに、新たな仲間が増えます! はい、拍手!」


「「「──────」」」


30代後半の男が、頑張って声を張り上げた所で、生徒が反応するはずもなくただ教室が静まりこける。


「なんだよみんな……。テンション上げよーぜ? な? とまぁ、座興はここまでにして。いいよ、入って来な」


言われ、教室の扉は開かれる。

刹那の内に、全員からの眼力を受ける少女。

──何となくだが、嫌そうな顔をしている気がする。

担任の男に案内され、言われるがまま教卓の前へと赴く少女。肩につかないくらいの長さでみだらに切りそろえられている。黒い髪が綺麗に靡くが、──やはり雑なヘアカットが悪目立ちする。

動き一つ一つが華奢で、まるで人形であるかのようにすら見える。


───沈黙が続く。


「────?」


不自然な程に間延びした沈黙の後、彼女はその目線だけで担任教師に助けを乞うた。


「───あ。そうだった。ゴホンッ。彼女は、家庭の事情で転校してきた、観柳斎かんりゅうさいミラちゃんだ。

まぁ多分、色々分かんない事だらけだと思うからよろしくしてやってな」


何も言わず、ぺこりと頭を下げる少女。

視線がうつらうつらし、挙動不審。

まるで何かに怯えているようでいて、不安そうななのはその表情から見て取れた。


「はい! まぁそういう事だから! 出席とってくぞ! あ、観柳斎、1番後ろの、空いている席に座ってくれ。

相川〜」


そうして、観柳斎ミラが転校して初めての出席確認は始まった。


(まぁ……最初は誰でも緊張するよなぁ…)


彼女は、ちゃんとこのクラスに馴染めていけるだろうか。

ちゃんと友人はつくれるだろうか。

───どうしてか、ボクは彼女に気を惹かれ、無意識の内に要らぬ心配をかけていた。

家庭の事情とはよく言ったものだ。

大抵の場合。転校理由なんて単純なもので、引越しだとか偏差値の問題だとかだろう。では何故それを隠すのか。単純に説明が面倒だったのか、或い、人には知られたくないものなのか。



出欠席の確認は終わり、生徒は皆、伸びをし始める。

かく言うボクも、安堵していた。

───油断していた。


「あぁ、そうだ。まぁお前らの事だから忘れてる訳ないだろうが、今日は午前で終わりだからな。皆すぐ帰れよ~」


早帰りの日程は、大抵の生徒が覚えている。

その空いた時間───午後には何をするか。など、各々予定を組み立てているのだ。


さて、ボクは午後は何をしようか。

家でゆっくりまったりと過ごしてもよし。

はたまた翡翠辺りの友人を数人誘って何処かへ出かけるというのもいいな。


「あ、そうだそうだ。宵崎、お前は午後も残って、観柳斎に学校を案内してやれ」


─────は?

─────葉?

─────破?


瞬間、脳内の思考が停止する。


「───先生? なんでボクなんですか?」


単刀直入にする。


「いやぁ───だってお前、会長じゃん」

「─────」


絶句。

それと似かよった状態。

当然。

周知の事実だったのだ───、

それもそのはず。


ボク───宵崎よいざき柚貴ゆずきは、この学校の生徒会長だった。

学校の代表、顔と言ってもいい役回り、それが生徒会。

───の、会長がボク。

転校生、しかも同じクラス。ともなれば、案内するのは、ボクか。


───面倒だ。

というか面倒すぎる。

折角の早帰りだと言うのに、残って案内しろだ?

悪態をつきたくもなる。


─────あぁ、今日も空が綺麗だ。


「じゃあそういう訳だから、頑張ってね──会長♪」



そうして、半日が過ぎ去り、



今に至るという訳だ。


───しばしの沈黙。

互いに思う事があるのか、何も言い出せずにいる。

刻々と過ぎ去りゆく時間。

どこからか聞こえてくる柱時計のメトロノームに揺らされる。

吹く柔らかでいてひんやりとした風に、知らず身体を震わす。


「───」


黙りほうける。

何を喋っていいかも判らず、少しだけ俯く。


(───よし!)


「えっと・・・観柳斎さん! 学校案内とか、もういいよね。まずは仲良くなろう」

「───仲良く?」

「うん! これからボクらは友達になる訳だしね。そうだ、友達なら下の名前で呼び合おうよ! ──あ」


──まずい。

自分からそんな事を言った手前、もう引くことは出来ないが、この子の名前を忘れてしまった。なんといっただろうか。


「ミラ……です…」

「そっか! じゃあミラさんよろしくね。えっと、ボクの名前は分かる? 朝のホームルームでしか言ってなかったから覚えてないかな」

「柚貴さん……宵崎柚貴さん──」


ボソッとした声。

聞き取りずらく、迫力の無い言葉。

それでもその言葉は明らかにボクの名前を捉えていた。


「覚えててくれたんだ。嬉しいよミラさん、それと、ボクは柚貴でいいよ。敬語も必要ない」


少し馴れ馴れしいのかもしれない。

だがこれでいいのだ。

関係を親しくするには、何かしらのインパクトが必要なはずだ。


「分かり、──分かった。じゃあ、柚費……も、ミラでいいよ……」



ミラとの話が終わり、学校を出る頃、辺りはすっかり暗くなっていた。冬が近づいて来る事で、空が深淵に包まれるのも平行して早くなる。


本当に困った話だ。

何をしようかと心を密かに踊らせていたと言うのに、居残りとは。

まぁ、転校生と、少し距離が縮まったのはいい事かもしれない。

──だが、実際の所、まだ親しいという間柄には到底なれそうにない。

それもそうだと納得は出来る。会って数時間でそんな関係を創るのは難しいものだ。

問題は、

彼女自身が、明らかに人と距離を作っているという事だ。

人見知りと担任は言っていたが、それとは少し違う気もする。受け付けていないのではなく、──拒絶している。

少なくともボクの目に彼女はそう写った。


(まあ、まだまだ日はあるしな)


多分、友人と言えるのかは定かではないが、間違いなく彼女にとって最初の知り合いはボクになった訳だ。

そうなれば、否が応でも関わっていく事になる。

だが、関係ならこれから創ればいい。

流れゆく時を有効に活用し、彼女と親睦を深めていけばいい。


「───え?」


目を丸くした。


人が……倒れている?


見た所、怪我はしていない。

それに、別に気絶していると言った訳でも無さそうだ。

───詰まるところ、酒に酔って寝ているのだろう。

(まぁ───起こすか……)


流石に道のど真ん中で寝ているのは危険だ。

起こす事にした。


「大丈夫ですか?」


声をかけるが、起きる気配も無し。

仕方なく身体を揺さぶった。


「あ、起きた」


サラサラとした綺麗な黒髪を揺らし、彼女は目を覚ました。

30代前半くらいだろうか。

お世辞にも血色のいい顔をしているとは言えないが、顔立ちはそれなりに整っていた。

それでも、その、元の素材がいいだけに、非常に残念なのは状態である。

目にクマができ、瞳もうつろうつろで顔もやせ細っている。

放心状態と言ったような顔つきで、じっとボクを見つめる彼女。


「───あぁ……。えっと、大丈夫ですか? こんなとこで寝たら風邪ひきますよ?」

「なんだこりゃ、なんだこの悪夢は。神はどれだけ私を責めるんだ? そんな事、私自身が1番分かってるってのに」


───???


瞬時に、ボクの脳内はハテナの文字で埋め尽くされる。

どういう事だ?

悪夢?

神?

もしかするとボクは、関わっちゃいけないタイプの人を呼び起こしてしまったのかもしれない。

逃げるべきだろうか。いや、今更ひけない。ひくことなんて出来やしない。


「ごめんなさい、えっと、何か気にさわりましか?」

「はっ! 何から何まで!」


逃げるべきか?

逃げるべきだ。

だが何故だ……?

無性に、ボクはこの女が気になる。


とうとう何も言わずに見つめ合う。

───と。


「へ? ねえ、私の事、殴ってみてよ」

「──は!?」


いきなりそんな事を言われたんで、素っ頓狂な声が出る。

殴れ、だと!?


「あぁ、ごめん。えっと、別に殴んなくてもいいや、とりあえずほっぺつねってもらっていい?」

「怒りませんか?」

「怒らないわよ」


言われるがまま、ボクは彼女の頬をつねった。

───柔らかい感触が指を伝い、瞬時に痛みつける。


「痛ったいわよ!」

「えぇ!? 怒んないって言ったじゃないですか!」

「ってことは───もしかして……」


何かに気づいた素振りをする彼女。


「そっか、そっかそっかそうなんだ……私」


今一度思うが、一体どういう状況なのだろうか。

何が何だかさっぱりだ。


「そうだ! ねぇ、今って───」


「────え?」


瞬間、彼女は再び気絶するように眠った──。



訳が分からなくて、ボクはその場を直ぐに離れた。

こうして、一日は終わった。

───どうやら、今日は少し冷えるらしいので、毛布を一枚増やすとしよう。



<12月24日>



「ねえねえ相希〜どうしたらいいと思う?」


我が物顔でボクに尋ねる翡翠。

どん、と手を机に置きながらボクの肩をゆらゆらと揺らす。

この学校の図書室は、どうやら県の中で一番広いらしい。他の所が良く判らないんで何も言えないが、端から端まで歩いて1分はかかるくらい。


「え~そんな事聞かれたって分かんないよ。経験ある人に聞いた方がいいんじゃないの?」

「聞いたさ! でもあいつらなんて言ったと思う? 『まぁ、会いたいって言えば?』だってさ! 人の苦労も知らないで」


少しだけ腹を立てる翡翠。

まぁ、そう言われるのも無理は無い。


実際、ボクだって言葉が出ないのだ。

なんでも、明日、12月25日───クリスマスの日。好きな男の子をデートに誘いたいらしい。だがしかしなんと誘っていいかも分からないという訳だ。

そんなこんなでボクに尋ねて来たのだ。

困った───

自分で言っていて悲しくもなるが、生まれて18年。ボクに恋人など出来たことが無い。


「あ、そうだ! あれは? ギター関連で相談があるって呼び出して、ついでだからって言って遊ぶの!」


翡翠は軽音楽部に所属している。

その縁もあり、彼女の想い人も同業者。


───詰まるところ、彼女は業務連絡をとりつけて、流れでデートに持ち込もうとしている算段らしい。

成程───、


「翡翠さあ、もうそんな事言い出したらキリが無いよ。素直に会いたいでいいんじゃないの? 別に、それで断わられそうでも無いんでしょ? クリスマスの予定の理由なんて、それ以外ないよ」

「───そういうもん?」

「───そういうもの」


実際、彼女とその想い人との仲は悪くない。いや、むしろ良好と言うべきなのだ。

話を聞く限り、休みの度会って、平日も電話をするという。

もし───彼女がこのまま誘えないままクリスマスを終えるというのならそれは、──もう既に勝利が確定しているような試合を棄権すると言っているようなものだ。


「そうだ、ミラちゃんはめぼしい人とか居ないの?」


気持ちを切り替えるべく笑顔をつくり、問いかける翡翠。

かけた先は、


「私!? 私は、居ないよ──そんなの」

「そんな事言って、本当はいるんじゃない? ミラ」


突然話を振られたもんだから、これみよがしにボクに助けを求めるべく視線を移すミラ。

だがそれも虚しく、ボクは翡翠に乗っかった。


「そんな事言って、そう言うあんたはどうなのよ? あんた、それなりにモテてんだかんね?」


────失敗した

普通に、ミラを庇っておけば良かったかもしれない。


「ボク? ボクはそう言うの無いかな」

「本当か〜?」


……



ミラが転校してきてから、数日の月日が経った。


本当に短い時間で、思えば一瞬で日々は過ぎ去って行った。

時にして2週間と少し。

その月日の中で、彼女は少しずつこのクラスに馴染んで来ている。

とてもじゃないけれど。彼女の友人の数は多いとは言えない。それでも彼女は着々と友人を作っていっている。

もう既にボクと翡翠達のグループとは打ち解けたようだし、それなりに話す機会も増えてきている。

───やはりまだ人を拒絶している節があると思う事はある。

それでも以前よりは減ってきているし、きっとこれは前向きな変化なのだろう。


……


「所でだ、諸君。そろそろ真面目に課題に取り掛かるべきではなかろうか」


ゴホンッ───と。

気合いを入れ直し、自らの頬を叩く翡翠。

それを見るや否や、薄らぴくっと震えるミラ。

「珍しいね。ボクはね翡翠。君の事だから、もう少し話が脱線すると思ってたよ」

「あ、の、ねぇ? いくらなんでも私を舐めすぎじゃない? 私だって、やる気さえあればどうとでもなるんです!」


現在時刻は17時20分。

何も、今日は学校は休み。だなんて訳でもあるまい。

では何故今図書室にいるのか───

まぁ、そんなに勿体ぶることでもない。

単純に、冬休みの課題が面倒だから、放課後に残ってやっていってしまおう、と、翡翠が提案したのだ。


此処に取り出したるは1枚の紙。

つい先程、担任の男からホームルーム内で配られたものだ。


内容はシンプルなもの。

身近な人への想いを1500文字で書き綴るといったもの。

ものとしてはシンプルではあるものの、シンプルが故に、それだけの文字数は少し苦痛に感じる者も少なからずいるだろう。

なんだったら、目の前に───、


「ああ〜! なにこれ多すぎでしょ! 1500文字書けだあ!?」

「ほら翡翠。そんな事言ってないで、早くやっちゃおうよ。それに、書き始めれば、意外と直ぐに終わるって」


目の前で課題に嘆き、なんだったら頭を掻きむしりだす少女をなだめ、ミラの様子を探る。


「身近な───人……」

「う~ん……身近な人。かあ……。改めてそう言われると、難しいよね~」

「う~ん……無難に。親、とかでいいんじゃない?」


親、確かに、身近と言われて真っ先に出てくるのは保護者だろう。


「ボクも親で書こうかな」

「私も~」


親をテーマに書くと決めたものの、困るのはどちらを書くかだ。──いや、別に両親に向けて、でも良いのか。

だがまぁ、ややこしくなりそうなので片方に絞るとするか。


「ボクはお母さんにしておこうかな。ミラはどっちを書くの? ───お母さん?」


───────────。

───────────。

───────────。


話の流れ。

特に何か、重たい感情など込めなかった。意味など無かった。ただ単に、口が、言の葉が流れただけ。


─────悟る。


静まり返る室内。

放課後で誰も使う事の無い図書室はボク達しかいない。

静まる。静まる。静まる。

───静まり返る。


ボクが目前にする少女の瞳は一瞬して曇った。それも真っ黒。雷雲。──眼に映るのは闇ばかりで、何一つ伺えない。

持ち直さないと。

持ち直さないと。


───何となく、漠然と。

翡翠は察したのか、機転をきかせる。


「───そうだ! じゃあミラ、私達で書いたら?

別に、身近な人としか書いてないし、身内じゃなくなたっていいっしょ!」


確かに、友人というのは、身近というものの限度以内だと充分言えるだろう。


「───2人の事──書いてもいいの?」

「あたぼうよ!」


愛想良く笑いかける翡翠に合わせ、ボクも負けじとミラに笑いかける。



学校帰りの夜道。

寂しい暗がりを一人歩く。


なんだかんだ。という言葉は便利だと思う。

ある一定の対象内、起こった事象全てを言いくるめる。本当に様々な事柄が起きたとしても、『なんだかんだあって』だけで済ませてしまう事に、人間は躊躇いがない。

───つまりだ。

あれからなんだかんだあって、今に至るという訳なのだ。

結局の所、ボクは両親を対象に、翡翠は例の男の子、そしてミラは、ボクと翡翠の事を書き綴った───。

正直、翡翠に助けられた。

翡翠の気の利いた言葉が無ければ、ボクは明日から、今日と同じようにミラと接する事が出来ただろうか。


ボクらの事を書いていた時の彼女は、何処か嬉しそうだった。ボクの勝手な思い込み、淡い憶測なのかもしれない。──それでも、そう思わずには居られなかった。

辺りを見回すと、ちらほらとカップルが耳たぶをくっつけて歩行している。

まぁ、別にこれが妬ましいって訳でもない。だが同時に、羨ましくないという訳でも無いのが苦痛。

正直に、恋人くらい欲しいと思ってしまうものである。

それだと言うのに。

ボクは、イブの夜に何をしているのだろうか。

街ゆくカップルにとっては、明るい太陽のように見えるだろうその街灯すら、ボクにとっては儚げな灯りでしか無かった。


いや、街灯よりいいものがあるじゃないか。

───月明かり。

空から発せられる自然の灯りこそ、暖かみを感じるというもの。

是を見ていれば、何もかも忘れてしまえそうだな。


───なんだ。

もう、ここまで来ると、宙を泳ぐハエでさえも、ボクを愚弄しているように思えてくる。


─────あぁ。

───────いやぁ……。


今日も月が綺麗だ───。


「あだっ!」


瞬間、ボクの身体は後ろへと後退する。同時、尻もちをつく。

何かに当たった・・・?

反省すべきだろう。

上ばかり(現実逃避による単独の月見)見すぎていたせいで、人にぶつかってしまった。


「あ、ごめんね、大丈夫?」


女性の声。


「あ、はい。ボクの方こそ、ごめんなさい」


言われ、返事をする。


「立てる?」


言って、彼女は座りこむボクへと手を差し伸べる。

愛想良く微笑みつつ、その手を掴み立ち上がる。


「久しぶりだね」

「───え?」


瞬時に脳をフルスロットルで稼働させる。

以前に会っただろうか。

この人は誰だっただろうか。

一瞬悩んだが、それも直ぐに終わる。

編み出される結論。

「あ。この前酔いつぶれてた」


2週間程前だっただろうか。

無性にボクが気になった相手。


「いくらなんでも女の子相手にその覚え方はちょっと傷つく……」


にしてもだ。

良くもまぁボクの事を覚えているものだ。

会った時、彼女は恐らく酔っ払っていた。だとすると尚更だ。

単に記憶がいいだけなのか?


「良く覚えていましたね、ボクの事」

「まぁねぇ……こう見えてお姉さん、記憶力だけは確かだから」

「今日は酔っていないんですね?」

「あ、失敬だよ? 流石に毎回呑んだくれてる訳じゃないさ」


妙に落ち着いた声色は、不思議とボクの冷めきった心を暖める。

やはり───どうしてなのだろうか。

彼女と話していると、無性に彼女が気になって仕方が無い。

気になる。

気になって仕方が無い。

とは言っても、単に女性としての魅力に惹かれた訳では無い。あくまでも、人間としての彼女を。


───仕草が気になる。

───声色が気になる。

───表情が気になる。


「それにしても珍しいね。人間、歩いていれば下を向いていて人にぶつかる事はあっても、上を見上げていてぶつかるってのは、そうそう無いよ」

「ごめんなさい。今夜は1層月が綺麗でして〜」

「おっとお? 告白かあ?」

「違いますよ、言葉通りの意味合いです」

「いや、からかっただけじゃん。マジになんないでよ? マジレス乙」

「─────」


何となくだが、この人の人間性を知れた気がする。


「そうだ名前。名前教えてよ」


うむ。

どうしたものか。

言うべきだろうか。はたまた言っていいのだろうか。否だろう。完全なる不審者だ。


「ボクは、高橋 リカです」


偽名である。

流石に名前を名乗るのは気が引ける。


「そっか。お姉さんの名前は───そうだね。シトラスとでも呼んでくれよ。宜しくね、柚貴」


シトラス……?

外国の人なのか?

それともそっちも偽名なのだろうか。

まあいい。

とりあえず合わせて返事を───、


「ああ、はい。宜し、え? 今、なん、、、、で──いやいや! 名前、、なんで、知って────」


刹那の間。

背筋が凍る。

まるで冷たい布でも押し当てられたかのような不安感を感じる。背中の内側に手を這いずられ軽く撫でられるような心地悪さ。


「なんで名前を知ってるかって? それはね。──秘密だよ」


───走る。

───奔る。

走らざるを得なかった。

あの一瞬の内に募った恐怖が押寄せる。


なんだ───?

なんでだ?

誰なんだ……?

どうしてボクの名を知っているどこでその情報を手にした……?

一体、、、彼女は───。


<幕間1>


───そうして、ボクは夢を見る。

ここの所、ずっと同じような夢を見る。



『じゃん! 見てよ柚希! これ! 100点だよ100点! どうだ凄いか!』


明るい教室の真ん中。

ガヤガヤと五月蝿い周囲の声を遮るように、──其の少女はボクの前に来る。


『さぁ聞こうか、チミは何点だったんだね? コラ隠すな!』


───判らない。


『え? 別にボクも見せるとは言ってない? 勝手に見せてきただけ?

知りませ〜ん! いいから見せなさいよ! このままあんただけ見せないのは不公平ってもんでしょ』


───誰だ。

一体誰だと言うんだ。


『93点? やったー! 勝った〜! 私柚希に勝ったの初めてかも。

え? 100点とった時点で勝ち確だって気づくだろ? そうかもしれないけどいーの!』



『ほらほらー! 元気だして。好きな人に振られたってだけで落ち込みすぎだよ?』


場面が変わった。

学校の屋上。

暮れた夕陽が射し込み、ちょっとだけ眩しい。


『え? 私だったら落ち込まないのかって? う〜ん。どうだろうねえ。まあ、落ち込むだろうね。ごめんって。謝るから裾引っ張らないでよ』


───夢の中なのに、口の中が気持ち悪い。


『よし分かった! じゃあこの私が、あんたにラーメンを奢ってあげよう。好きでしょ? ほら、行くよ』


……


───誰の夢であろうか。

或い、いつの夢で、何の夢だろうか。

何となく、自分の記憶なのだろうと思う節はある。

それでも、ボクにこんな記憶は無い。──そもそも、夢の中の彼女は、ボクの知る彼女とは遠くかけ離れている。

淡い色彩が、空虚な空間に押し広げられる。その中心にあった、訳の分からぬ情景。


───一体ボクは、何を見ていたのだろう。

目も、鼻も、口も。

耳も、眉も、頬も、前歯も、奥歯も、前髪も、肩にかかる寸前のショートヘアも、その黒髪も、瞳の中も、瞼も、華奢で小さな儚い躰も、右脚も、左脚も、膝も、その皿も、踵も、つま先も、右腕も、右手首も、右掌も、左腕も、左手首も、左掌も、指も、指一本一本にわたる指紋の細部まで。

その全てが、観柳斎かんりゅうさいミラ其の人。

それなのに。

それだって言うのに、彼女は、

ボクの知らないカノジョでしかない。



<1月9日>



冬休みが明けると、生徒の顔は曇っていた。

教室に通う誰しもが、皆同じ表情をしている。

昨日まで休日だったというのに、疲れ切っている。否だ。恐らく、学校に通うと言う事自体を、拒絶している。

───仕方の無い事だろう。

誰だってそうだ。

この学校の冬休みは、特段別の学校に比べ長いという訳では無い。同時、短いという訳でもない。ほんの2週間の間。

その間、楽しいと思う事が多かったのならば、尚更だ。

突如として始まる、平日という苦痛。

それに耐えかねて、皆苦渋の面を浮かべるのだ。


それでもだ。

どれだけ嫌と言っても始まってしまったのだから仕方あるまい。

クラスの皆はそれぞれ話を始めている。


「ぬああああ。あぁ! くそ! また負けた!」


言いつつ、翡翠はボクの机を軽く叩く。

その衝動で、置いてあるトランプが弾け飛びかける。


「この冬休み期間、ずっと禊みそぎ君とやってたってのに……。あんた強すぎでしょ」


どうやら、年が明けても尚、ボクのスピードの強さは健在なようだ。


スピード───2人のプレイヤーが対戦するトランプを用いたカードゲームの一種である。


「スピード」という名称の通り、上がりまでの速さが競われる。よってプレイヤーの判断力が重要となり、また対戦相手の場札を考慮したプレイが可能という特徴を持つゲームでもある。

昔、小学生の時に友人とやっていた影響で、それなりに腕は立つ。

───日く、ボクは当時の小学校で1番の強者だったという非公式武勇伝も顕在するほどである。

別に、誰かに自慢出来る程の特技とは言えないが、まぁ上手い上手いとめ称えられるのは悪気はしない。


「翡翠ったら、ホント飽きないねぇ~」


微笑を返す。


「まあね~」


翡翠を押し退けると、ふわっといい香りがして、視線を傾ける。

ミラが顔を覗かせてきている。


「あ、ねぇ柚希。始業式っていつからか分かる?」

「んっと確か、10時半からだね」

「じゃあもうすぐだね」


ミラに言われ、直ぐに答える。

恐らく、ホームルームか終わったら直ぐだ。



始業式が始まり、ボク達の三学期は始まる。


───翡翠が倒れた。


と、言うのは少しだけ盛った情報。

なんでも、貧血症状が起きた事により、自己申告で保健室に駆け込んだそうだ。

なので、ミラと共に保健室に様子を見に来た。


「にしても、ホント何も無くて良かったね」

「そうだね。まあ、翡翠の事だから大丈夫とは思ってたけどさ」


保健室の隅で、ミラと顔を合わせる。

結局、翡翠は直ぐに体調を建て直した。そして、治った途端、直ぐに寝付いた。

───もう大丈夫らしいが、本人は授業をサボりたいとの事だ。全く。友人としてもため息がでかかる。


「そうだミラ、今朝のニュースは見た?」

「─────」


少しの沈黙。


「ほら、あれだよ。今朝の殺人事件について。まだ犯人捕まってないらしいね。怖いね~」

「───っ」

「ミラ……?」

「あ、ごめん。ちょっとボッーと」

「ごめんね、ニュースの話、嫌だったよね」


……


「その痣は、どうしたの?」


我ながら、無頓着だとは思う。

それでも聞かずには居られなかった。

彼女の右手首に、青アザができている。

一体どうしたと言うのだろうか。


「ん? なんの事?」


しらをこいている。


「手首、痣になってるよね。もしかして、この間のバトミントンで、とか?」

「うん、そうだよ。ラケットを振ったていた時に、自分でぶつけちゃってさ、馬鹿だよね、私も」

「そっか、、」


───嘘。

なのだろう。

即席で、この場で創り出した、偽りの言葉ほんね。贋作に過ぎない。

流石のボクとて、その痣が人為的なものである事くらい理解出来る。

誰かが過失にやってしまったものなのか。

ましてや自分自らか、それとも故意なのか。


「あ、そろそろ授業が始まるよ。戻ろうか柚希」

「───うん」



1日は終わりを告げ、またこの帰り道に戻ってくる。


「お、きたきた。おかえり柚木。今日はやけに遅かったじゃないか、部活?」

「ううん。単に生徒会の仕事が長引いただけ」

「なんてったって会長さんだもんねぇ。偉い偉い」

「そりゃどーも」


夜道で話しかけられ、曖昧に返答する。


あれから───、

彼女に名を知られていると知った日から数日が経ち、ボクと彼女の仲は少しだけ縮まった。

と言っても、勿論縮めたくてそうした訳では無い。そうせざるを得なかった。

彼女の方がグイグイと押してきたのだ。

───怪しいところばかりで、むしろ大丈夫な箇所が見当たらないような人物だが、それなりに関係値が上がってしまった。

シトラス。

彼女は自らをそう呼称した。


認めたくはないが、一応は顔見知り位の仲には成った。

それだと言うのに。彼女はボクに真名を教えようとはしない。理由を考えてもみたが、結局何も思いつかなかった。


「どうしたの? 今日はやけに上の空じゃん、疲れた?」

「いや別に、まあ。疲れてたけど、あんたの顔みたらなんか吹っ飛んだ」

「何それ、お姉さん傷ついちゃうなぁ」

「……これでも褒めてんだよ一応」

「あらそう? そりゃあありがと」

「それで、今日はなんの用なの?」

「うん? 別に用なんてないけど。友達と話すのに、用が必要?」


理っておくと、彼女の年齢は31。

三十路をこえた女だ。

さてだ。

果たして、倍くらいの年齢の相手、それも時々帰り道に会うだけの関係は、友人と言えるのだろうか。

──まぁ、言えるのか。

友情に年齢なんて関係ない!みたいな事を、誰かが言っていた気もするし。


「学校の様子はどう? 皆は元気? お友達──確かミラちゃんだっけ?」

「まあ、そりゃあ皆授業なんて上の空だよ。なんなら、一人サボった奴を知ってる。ミラはまあ、元気だったよ」

「そっか」


そも、何故ボクは彼女と打ち解けたのだろうか。

何故か安心してしまうのだ。

───と。

忘れかけていた用事を思い出す。

今夜は早めに帰ってこいと、両親に言われていたのだった。

彼女と話している場合では無い。


「ボク、今日用事あるから帰るね、バイバイ!」


半ば強引に別れを切り出す。

こうでもしなければ、追いかけてすら来そうだからだ。


「柚希。───君は知るべきだと思うよ。"彼女”が、何故転校してきたのかを」


──────え?

急ぎ、彼女の方へと振り返る。

と、


「居ない……?」


全く、気になる事を言って何処かへいなくなるとは。こっちの身にもなって欲しいものだ。

何はともあれ、今日と言う日は終わりを告げた。



<幕間2>



それで、

───其の夢を見る。



───彼女は、気づいたらそこにいた。

別に、何かを求めていた訳では無い。

その選択の好機が再度現れる事は妄想はしたが、望んだ訳では無い。


自分が選んだ結末───、


己が導き出した、忌々しい終幕。

どれだけ悔いても、

それでも尚、その躰に纏わりつく戒め。

どれ程身体を揺らしても、

幾度となく苦痛に耐え叫んでも離れる事の無い光景。──地獄絵図そのもの。


地獄絵図。

だなんてよく言ったものであろう。

彼女にとっては、そう比喩せざるを得なかったのだ。暗い空間の中、彼女はただ咽び泣く。

それは何が為か、或いは誰が為か、


解らない。

──判らないのだ。


自分がしている行動の意味。

自ずとしれた過去の鎖。

足首が千切れそうな程にキツく縛られている。

ただ一心に、後悔をし続けた。否だ。

彼女にとって、とる行動は、──とれる行動はそれしかなかったからだ。

過去のしがらみは、時に修羅と成り、羅刹へと変貌する。度に、彼女の肉体を蝕んでゆくのだ。



<1月10日>



「おい宵崎どうしたんだよ急に」


日付は変わり、翌日となった。

ボクは学校につくやいなや、直ぐに担任の元へと足を運んだ。

彼女───ミラの転校理由を聞き出す為に。


「あのな宵崎。いくらお前らが友達でも、踏み込んじゃいけねえ領域っつうもんがあるんだよ。

いやまぁ分かるぜ? 知りたい気持ちもよ? それでもな? 観柳斎にとっちゃあ、知られたくねぇんじゃねえの? 友達だってんなら尚更な」

「─────」


こう言われては、何も返す事が出来ない。

ミラは、自分から転校した理由を話そうとはしない。その理由は、話す必要そのものを感じていないからなのか、それとも、話すという事が、ボクや翡翠にソレを知られる事を恐れているからなのか。

───きっと、後者なのだろう。

だって言うなら尚更だ。

単なる好奇心ってのも少しはあるのかもしれない。

それでもボクは、友人として理解したいのだ。


「家庭の事情で、と前に言ってましたよね? それは、彼女の両親が離婚したからですか?」

「───はぁ……」


ボクの言葉で、担任の男は押し黙る。

何となく、漠然と。

そんな気がしていたのだ。

彼女と会って数日の月日が経った。

その間、ボクは彼女と色々な事を話した。

業務連絡から趣味の話、割とプライベートな事も聞いたりした。

それで何となく結論付けた。


彼女は、親の話を、──いや違う。

それも、母親の話をされるのを嫌がっている。

一概に嫌がっている訳でもなし、どことなくその話題を避けているように感じるのだ。

誰かがそんな話を切り出すと、彼女はあからさまに話をずらす。

離婚───という点については、完全にボクの勝手な憶測にはなる。

単に母と仲が悪いだけなのかもしれないが、それだけではやはり転校する理由にもなるまい。


「宵崎、それは、お前の身勝手な推察か?」

「はい、そうなります」

「何の根拠があって、自身あって……。そんな素っ頓狂な事言ったかはわかんねぇがまぁ、大方あってるよ」


やはりだ。

彼女の両親は離婚していた

───担任の男は思考する。

そしてボクの顔をじっと見たあと、こう告げる。


「俺はな宵崎。生徒会の会長として、お前を信用してるから言うぞ。もしお前が誰かに公言したりでもすれば、俺もお前も社会的地位を失うぞ、それでもいいかか?」

「はい、必ずボクの中だけで押しとどめます」


───単純な口約束。

守られるのかどうかなんて定かでは無い。

それでも、ボクはこの人を借用しているし、彼もボクを頼してくれている。


「結論から言うと、観柳斎の母親、現、片桐 美眞みまは、──逮捕されたんだ」

「逮、捕……」


予想していなかった訳では無い。

離婚する理由なんて沢山ある。

一時の喧嘩が、壮大なものに繋がったりだとか。

その内の中の一つに過ぎないのだ。

彼女の母親は投獄されてしまっている。


「あの、罪状を───聞いてもいいですか?」

「.───ダメだ。こればっかりは、生徒には喋れねえ。それに、色々知った後で、観柳斎に今まで通り接する事がお前にできるのか?」

「それは──」


要らぬ気を使ってしまうかもしれない。

必要の無いお節介を焼いてしまうかもしれない。

それをされ、彼女は。それを知られ、彼女は。──嫌がるだろうか。


昨日の話、

昨日、ボクは彼女の手首の痣を見つけた。


「先生、ミラの手首に痣がありました」


一応、担任には伝えておくべきだろう。


「阿呆かお前は? そんな事、俺が知らねえと思ったかよ? これでも俺は教師っつう立場だ」


素直に驚いた。

──正直、ボクはこの人を舐めていた。


「それで、どうしたんですか?」

「俺も聞いたさ。でもあいつ──大丈夫大丈夫って言って、何も話そうとはしなかった。

心配かけない為についた嘘っつうのは、案外バレバレなんだぜ」

「心配───」

「まぁそんな暗い顔すんな宵崎。お前はお前で本当によくやってる」


ボクが、今のボクが、彼女の為にしてやれる事はなんだろうか。ボクは、どうしたらいいのだろうか。



「待ってミラ!」

「ん? どうしたの柚希」


今日1日、何となく、ミラとは話さなかった。

別に、気まずいという訳ではないのだ。

ただ、ボクが知らぬ内に彼女に要らぬ気遣いをしてしまうかもしれないから。

それでも、どうしても話したくて、声を掛けた。

もう放課後、彼女はこれから帰るところだろう。


「ミラ、さ。今日はどうだった? その、楽しかった?」

「ほんとどうしたの柚希? いつもはそんな事聞かないのに」

「いいから」


まずい。

こんな事を聞くために呼び止めた訳では無い。

それなのに、上手く舌が回らない。


「まあ、それなりに楽しかったよ。ほら、歴史とか、先生面白かったじゃん」

「そう───だね」

「ねぇどうしたの柚希?」


─────意を決した。

今朝の今で、こんな事は余計なお世話だって判っている。

けれど、この唇は止まらない。


「なんで、首元に、───痣が増えているの?」


「───ちょっと寝違えちゃってね」


嘘だ。

そんな訳が無い。

首に痣ができる理由なんて、1つしか無い。それに連日で痣ができるはずも無い。


「あはは、流石に分かるか──うん。嘘だよ」


───彼女は柔らかく微笑み、ボクへと言い放った。


「ミラ。それ、お父さんにやられたの?」

「───うん」


───。

虐待、か。

彼女は、───本当に強いな。


「ねえ、ミラ、お父さんは────嫌い?」


空気が緊迫する。

身の毛がよだって肌寒くなるのを感じる。

そして彼女は、恐る恐る、ゆっくりと。でも確実に、


「───わかんない」


そんな言葉を口にした。


……



ミラが虐待を受けていた。

「虐待」というのにも、幾らか形がある。

充分な食糧を与えない。

暮らす事のできるスペースを与えない。

暑さや寒さを凌ぐ事のできる衣服を与えない。

そして、

────身体的な暴力。


思考する。

どうしてだろうか。


───ストレス。

咄嗟に思いついたのはそれだった。少なくともひと月前には彼女の両親は離婚している。

妻が何らかの罪を犯し、投獄された。

それだけの事が起きたのだ。

ミラの父親にとっては重大な事だ。きっと今までの普通の生活そのものが崩れていった。

──崩壊したのだろう。

急激な状態、情景の変化は、言われようの無いストレスへと直結で繋がるだろう。

そうした時、そのストレスの発生源は何であろうか。


語るまでも無く、片桐美眞その人だろう。

にして現在、

そのストレスの原因ともなった人間の血を引く者を、自ら1人で養っていかなくてはならない。

結果───、

虐待へと繋がった。

恐らく、こんな所だろうか。



「───寒っ」


考え事の最中、ずっと吹き続けていた夜風が肌に浸透してくる。

堪えきれず、つい声に出てしまう。

例にもよってこの帰り道。

ここへ来るのは偶然でも何でもない。

ただ単に家までが近いというのだから、必然なのだろう。


「や、こんばんは柚希」


いつも通り、其の女は話しかけてくる。

こっちが悩んでいると言うのに、元気そうなものだ。


「こんばんは」

「突然にはなるが柚希。もし私がさ。片桐美眞の罪状を知っていると言ったら、どうする?」

「───は?」


震えた。

まるで、背中を冷たい何かでなぞられているかのような感覚。

なんと言ったのだ、今。

嘘だ、聞こえている。聞こえていた。

聞こえた上で、戸惑いが生じる。


「……うん、その反応。どうやらミラちゃんの転校理由について、上手く聞き出せたようだね、よく話してくれたね」


「本人に聞くわけないだろ、先生に聞いたんだ」

「ふうん。賢いね、やっぱ」


トクン。

トクン。

───と。

脈打つ鼓動が早くなる。

ボクはこんなにも落ち着かないというのに、彼女の方は彼女で、いつも通りにしていた。自分から切り出したのだから当然と言えば当然だ。


「それで、今一度問おう。どうする?」


判っている。

知っている。

ここでボクが言うべき言葉は、取るべき行動は一つだけ───、


「教えて欲しい、その、罪を」


答えた。

否。

聞いた。

長いように感じて、あまりにも短い時間。

喉からありとあらゆる感情が飛び出そうになるのを抑える。


だが、結論は一瞬で出た。


「───殺人だよ」

「さ……つ」


あまりにもシンプルな解答。

ここまでもったいぶっておいて、誰でも予測できる犯罪。

だがそれにして、犯罪の真骨頂。

彼女の罪状は殺人だった。

人を殺してはいけない。だなんて言う、当然の事。

それを、その至極当然のルールを破ったのだ。


「詳しい事は言っても無駄だから省く。彼女は、職場の人間を殺したんだ。それでバラして山に埋めた」

「────」


言葉が出てこない。

その事実を前に、唖然とするしかない。


「ま、こんな事言って、別に私が知っていてもおかしく無いんだよ。だってまぁ、ニュースで割と報道されていたし」

「でも、それがミラのお母さんだなんて分かるはずがない」

「その辺はまぁ、秘密だよ」

「───秘密」


……



彼女は、何でも知っている。

どうしてか、ボクの知らない情報も、ボクしか知らぬ情報も知っている。

だが、

それを指摘されると、直ぐに秘密だと言って誤魔化す。

今目の前にいる彼女は、何者なのだ───?



<幕間3>



再び、

ボクはこの場に戻ってくる。

ボクの中に無い、けれど、ボク自身の記憶。

誰かの、遠く離れた誰かの夢。


……



『いやぁ〜面白かったねえ〜! まさかあんな所で、助けに来るなんてねぇ〜』


───倖せな日々。

彼女の笑う顔が好きだ。彼女が楽しんでいると、ボクは自分まで心地がよくなる。


『え? ボクには予想出来た。だって? 本当かな〜? あれは誰にも予測できないと思うよ?』


───ボクはきっと嬉しいんだ。

夢の中で、ボクの知らないカノジョが、笑顔でいられる事が。


『えぇ〜!? どうしたの? って、柚希! これ続編決定だって! やったぁ! 来年も一緒に見に来ようよ!』


───ずっとそうしていてほしい。

───ずっとこうしていたい。


『じゃあ───約束だよ』


───うん。いつか、きっと。








「あ────あ────────────────────ああぁあ─────あ」




誰の声だ。自分の声か。いや違う。そんな抑揚、そんな悲鳴、自分の中にあっただろうか。

地の底で干乾びた蛇が、のたうち回りながら吐き出すような、途絶寸前のノイズ。


───視界が、ずるり、と滑った。

天地が、逆さまになっていないのに、上下が失われていく。

耳鳴りがする。

高周波の笛のような、それでいて生臭い音が、脳の奥を擦っていく。


どうしてだ。どうしてこんなものを、見せられなければならない。


眼そこに映るのは、

───夥しいまでの紅あか。

変わり果てる、其の姿。

ぐちゃぐちゃに潰された彼女の■■は、まるで真っ赤なトマトみたいだった。だけれどちょっと、色彩が豊か過ぎる。■■■はこんなにも、色んな色が混じってない。


頭の中に、ヒビが入ったような音が響く。

ミシ、ミシ、ミシ。

───五月蝿い。

五月蝿い、五月蝿い。

五月蝿い五月蝿■五月蝿い五月蝿い五月■い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五■蝿い五月蝿い五月蝿い。


思考がひび割れて、脳漿が言葉をこぼし始める。


どこかで、世界の隅で誰かがにやりと笑った気がした。

それは神か、悪魔か、それとも───もっと、醜悪な「■■■」か。


五月蝿い。黙れ。思考が、思考が崩れていく。

感情の底から、ぶくぶくと泡が上がってくる。

それは涙ではない。悲しみでも、怒りでもない。

もっと根源的な、存在の否定そのものだ。


───見たくなかった。

見たくなかった。見たくなかった。

なのに、見てしまった。

いや、見せられた。

この目が。この脳が。

この腐りかけの■■が。


───ぶくり。


ああ、吐きそうだ。

吐いたところで何も変わらないのに

でも、吐かずにはいられない。


映し出したバッドエンドが、黒く塗りつぶされていく。

黒く、黒く。


───気持ちが悪い、

───気分が悪い。


脳内を、蛆虫が這いずり廻るような感覚。ないし、腸にギトギトの■を捩じ込まれて、ぐるぐると掻き回されるような心地悪さ。


───寒気がする。

───暑いような気もする。

───目眩がする。

目が、目玉がどろりとずり落ちそうだ。



───何を悔いればいい?

───何を恨めばいい?

───何を蝕めばいい?

何を、───呪えば気がすむ?



<1月11日>



「──はぁ──はぁ─────ぁ」


目が覚めると、涙を流していた。

誰の為の涙なのか、

───何かを成そうとして網出た泪であるか、

ただ気分が悪い───、

気持ち悪い。

頭が痛い。

常に自分の身体を支えていないと、崩れてしまいそうだ。自分を保てなくなりそうだ。

胃から、あらゆる管から、心の臓から、ありとあらゆる感情が押し戻されて吐きそうになる。



「あら、おはよう柚希──って、随分顔色悪いじゃないの」

「おはよう母さん。

大丈夫だよ、ちょっと嫌な夢を見ただけだよ」

「あんた、今日は休みな。学校には連絡しておくから」

「いや、大丈夫、──本当に大丈夫だから」


心配する母親を押し退けて、半ば強引に家を出る。いつも聞いているはずの声も、玄関のドアを開ける時の音も、──ぜんぶ半音高く聞こえる。

───気分が、わるい。



───走った。

走らざるを得なかった。不思議と、自分の中で何が起きたのかは解らない。

それでもだ。

今走らなければ、

とてもとても、どうしようもないくらいに身体が、心がどうにかなりそうだった。

判っている。

判っているはずだ。

きっと何とも無い。

──あれは単なる夢なんだから、何も恐れることなど無い。

そうだ、何も無いのだ。

だから、

きっと、大丈夫なんだ。


そのまま、ボクは学校まで走り続けた。

足が、身体が、その臓器が、

全てが限界を迎えて尚も、走り続けた。

じゃないと、ボクはどうにかなっていたから。

───厭いやな予感がする。



学校に着いてから数十分が経過した。

着いたのは、ホームルームの30分以上前。

だから、気長に彼女が来るのを待った。

でも、されども、

どれだけの時間まっても、ミラが登校してくることは無かった──


「待て宵崎! 今俺たちが確認してる! だからお前は信じて待て!」

「───ごめん先生」


校門まで追いかけてきた担任の男を押しのけて、走った。その時の担任の顔は酷くひきつっていて、──多分、ボクと似通った顔色だったと思う。


何故来ない。どうして来ない。何があった。

彼女に、何が起きたというのだ。

そこで脳裏に浮かぶのは、

─────昨夜の、惨い悪夢。

思い出したくも無い。

目を塞ぎたくなる。耳を塞ぎたくなる。

歯ぎしりせずにはいられない。躰も心もカチカチに硬直して、まるでコンクリートだ。

拳を握り込みすぎて、ちょっとだけ長く鋭い爪の切っ先が手のひらの生命線にチクリと刺さる。滴った血は、朱あかくて凄く綺麗だ───。


「─────ミラ」


思わず溢れ出たのは、想う友の名前。


「───探さなくちゃ。

探さなくちゃ探さなくちゃ探さなくちゃ」


何処にいる。

何をしてる。

何を見てる。

いつからいない。

いつから、どこで、誰といる。

分からない。

判らない。



───ふと、声を聞いた。


「───随分と死にそうな顔をしているねぇ。どうしたんだい? 何か悪いものでも食べたかい?」


つい唖然とする。

サラりと長い黒髪が揺れる。

日中に彼女を見かけるのは、初めての事だ。


「シトラス! ミラが! ミラが!」

「落ち着きなよ。まずは冷静になるのは大事だよ?

──泰然自若」

「─────」


────。


「萩村ビルの屋上───」

「───え?」

「いいから急ぎな! 柚希!」



(はぁ───はぁ──疲れたなあ。疲れるなあ)


それでも、足は緩めなかった。

どれだけ辛くても、

どれだけその苦痛が大きくても、

ボクはその歩みを停めなかった。

彼女が待っているから、──いや、違うか。

この際理由なんかどうだっていい。

そうだな──、

何か理由をつけるとするなら、ボクは彼女の、

───友達だから。



死にたがっている人間と、殺したがっている人間は、どこかで同じ座標にいる。


太陽は天蓋の真上。

地面が融ける寸前のアスファルトの上、ただひとつだけ、風が凪いだ場所がある。

ビルの屋上。コンクリートの手すり。その端に、少女の足がぶら下がっていた。


「やめて──お父さん、私は、まだ……」


その男の目に、理性の光はなかった。

黒目の中央にピンで止めたような瞳孔。そこだけが異常に細くなっている。──まるで、それがすべての光を遮断しているように。


ミラの父親。

彼はもう、ずいぶん前からこの世界にいなかったのかもしれない。


「───忌々しい。アイツの血が混ざってるってだけで、こうも腹立たしい」

「───でも私は」

「お前はいつもそうだよな。いっつもいっつも俺の言うことなんて聞かないで、前も、アイツの事ばっかだったもんな」


彼女が貫けるのは沈黙のみ。

何かを言う事は出来ない。言葉が出ない。


「───ミラ!」


───叫ぶ。

やっと喉が動いた。

ボクは彼の数歩手前で、呼吸を止めていた肺に空気を送り込んだ。


「……誰だ、お前」

「ボクはその子の友達だ」

「柚希? なんで、ここに……」


ミラの目には、小粒の涙が溜まっていた。


「───一緒に学校に行こう。ミラ」

「ふざけるな。ふざけるなよ、俺はもう、解放されたいんだ! ここでミラを殺して、俺も楽になるんだよ!」


この父親は、娘を殺すことで、過去から現在にいたるまでの“人生”を閉じようとしていた。

だが──そんな結末は許されない。


「ミラは生きている。お前の都合で死なせていい命じゃない!」

「都合? 都合だと……!? お前に何がわかる!」


男の叫びが風圧を持って吹き飛ばす。

ひび割れた魂の叫びが、屋上全体を震わせた。

次の瞬間、男はコートの内側から銀の刃を引き抜いた。


「ならば見せてやる……この子がどれほど“歪んでいる”かをな……!」


ミラの目が見開かれた。

刺突の軌道は明確。的確。死を与えるためだけに研がれた動き。


 ──いや、間に合わない──!!


そう思った。

──────が。


「動くなッ!!」


爆音のような怒声と同時に、二つの影が割り込んだ。

制服を着た警察官。刃が振り下ろされる直前、男の腕は後方から強引に捻られ、彼の体はコンクリートにねじ伏せられた。鈍い音が響く。


ミラは、その場に座り込み、小さく震えていた。

ボクは彼女のそばに膝をつき、なにも言わずに肩を抱いた。

言葉なんて、いまさら何の意味も持たない。

こうして誰かが近くに居さえすれば、心は安らぐものだ。



───風が吹く。

肌寒さを忘れて走ったせいで、暑いのか寒いのかが混乱している。

ボクの短い髪の毛が、風に揺らされる。

ボクは気づけば、再び走り出していた。

何かを考えたりはしなかった。

ただただ足を動かした。

煌びやかに輝く太陽の下を、一心不乱に駆け巡る。

───決して立ち止まること無く、決して振り向く事無く、発砲された弾丸のように真っ直ぐに。

ボクが向かうべき先は、既に定まっている。

彼女がいる場所。


彼女が向かう場所は、当たり前だが、手に取るように分かる。

町外れにある、深い森。

その頂上へと足を急がせる。

多分───、

ここから、距離にして僅か2キロメートル。

ボクが本気で走れば、ほんの数分で到着する。

ボクにとってそれは、慣れた動作だった。

動きに一切の無駄を含まず、無我夢中で駆ける。

たった数日の間の関わり。

それでもボクと彼女とでは、長い時間のように感じる事ができる。



……



そうして、描いた空想は、実像と成る。

この街の全てが見渡せるその情景を背にし、彼女はそこに佇んでいた。

豊かな緑の真ん中に、一つ浮かぶ綺麗な影。

ボクが考えることくらい、簡単に理解出来る。予測できる。


「やぁ柚希。随分といい顔をしているねえ」


彼女───シトラスと自らを呼称した女はボクに向けそう言い放つ。

やはり、声を聞くと安心するのだ。

辻褄が合うな。

───安心する訳だ。


「ミラのお父さんは精神病院へ運ばれたよ。ミラは今、普察と事情聴取をしている。

ありがとうシトラス。シトラスが警察を呼んでくれたんでしょ?」


事件は、否。事件と言われるまで広がらなかった事態。

最悪の結末は、免れたのだ。


「そっか。そりゃあ、良かったね」


場の雰囲気も読まずして、大気中は風の音でうるさい。風が冷たいせいか、シトラスの耳は微かに赤く染まっている。


「ねぇ柚希。私はね、明日──ううん。多分、もうこの後すぐ、この街を出ていくんだ。

遠くへ行くんだよ、うんっと遠くへ。だからもう──会うことは無い」


彼女は悔いの無いような、そんな表情と声で言い切る。

驚きはしなかった。

彼女の事を気づいた時、いや、恐らくは出会った時から、別れはこうなんだろうと判っていたのだ。


「シトラス。あなたは、また、帰るの? あの、暗い部屋に。また、───泣き続けるの?」


ボクに意表を突かれ、彼女は一瞬だけ驚いた様子を見せ、

「──気づいてたんだ。でも、もう大丈夫だよ。───もう、多分泣かないから」


───強がり。


それでも、今は彼女を信じたかった。

それに対して、ボクはゆっくり頷いた。


「しっかし気づいてたとはねぇ〜! てっきり最後までバレずに貼り通せるかって思ってたのに」

「夢に、出てきたんだよ。いや、少し違う。多分ボクは、あなたの夢を見た」

「夢、か。あは、そりゃずるいなぁ」



<幕間終>



───其の女は道を違えた。

否。その道が正解だったのかもしれない。

何が正解で、如何なる解答が不当かだなんて、彼女には理解出来なかった。

理解できなかったし、理解する気も、知ろうとする気力も無かった。

その時の彼女にとっては、正か負。だなんて問題は、心底どうでも良かった。どうだって、良かったのだ。


何せ彼女は失望した。

何かに対してでは無い。

ないし誰かにでも勿論ない。

強いて言うのならば、自らなのかもしれない。けれど彼女にはそんな勇気も自慢出来る個性も無い。

ただただ、──その世界の有様に失望したのだ。

当時の彼女は、そんな顛末なぞ思いもしていなかった。

否、思いたくなんて無かった。当たり前の事。至極当然の至りなのだ。

友人の死を思い描く者などいようものか。


いつも通り、いつも通り。

───たった一つ、何かが違うとすれば、朝食の時間に緑茶をテーブルに零してしまったという事だけだった。

普段と同じ算段で、彼女は登校した。

されども、友人は来なかった───。


勿論、探しに出た。

当然だ。だって友達だ。

彼女は探し続けた。


その末でやっと見つけ出したのは、その顛末──、

変わり果てる友人の有様に絶望した。

自分の弱さを呪った。

己の未熟さが身に染みた。

自らの無力さを痛感する事になった。


憎かった。ただ自分が。

どこで間違えたのだろうか。

───自分には、もっと他にやれる事があったんじゃないだろうか。

自分は、一体何をしていたのだ。と。



……



彼女は嘆き続けた。

後悔という足枷は、長い間外れる事は無かった。


──悔いた。

───悔いた。

────悔いた。


自責の念というに苛まれ、自らの命を絶とうとした事がある。

その罪を背負い、その罪から解き放たれる為、否、逃げる為に。

けれど、それすらも叶うことは無い。


───恐怖。

自らで、幾度となく用意した処刑場を前にして、その感情が疼きを上げた。

自らのその有様、醜態を受け、震え慄いた。

──嗚呼。

ボクは、どうしてこうも弱いのだろうか。

それは、本当に長い間。

時にして14年間。

それだけの月日。


何をしている時も、惜しみなく流れゆく時の中、あまりに長い時間を、懺悔し続けた。

うっかり失念してしまえれば、どんなに楽だろうかとも考えた。だけれど、それはきっと許されない。──この世に有る森羅万象の中、一番の禁忌タブー。


──渇望した。

渇望し続けた。

もしたった一つだけ、願いが叶うのなら。と。

叶うはずなど無いと知っている。

そんな現実離れした、都合のいい事が起きぬ事くらい判っている。

分かっているのだ。

───だのに、

彼女は淡い期待をした。

夢うつつにも、そんな妄想を抱いた。


───奇跡とは何だったか。

常識では、有り得ることの無い、誰かが故意に成せるものでは無い異端な事象。

神のイタズラか、或いは如来によるお恵みか。いわゆる奇跡という奴が起こったのだ。


───目を閉じた。

───目を開いた。


彼女は、にわかにはじられなかった。

目の前に、瞬間的に広がったその光景を、ただ唖然と眺めていた。


目の前には、一人の少女が佇んでいる。

佇み顔を覗かせている、どころか躰を揺すってきた。

憐れむような目では無い、かつ卑下する眼差しでも無かった。

彼女は、直ぐに気がついた。

その少女が、昔の自分である事に。


────嬉しかった。

嬉しくて嬉しくて堪らなかった。

彼女はただ喜び続けた。

それはまるで───、

翼を使い、初めて飛び立つという雛鳥のような、

何もかもを忘れ、過去のしがらみから解き放たれた異邦人のような感覚だった。


過去へ戻る事が出来た。

厳密には、違った。

彼女が真に求めたものは時間の巻き戻しだった。

実際これは、肉体の時間軸移動なのであると。

けれどもそんな事はどうだっていい。

自分に、もう一度選択が訪れた。夢にまで見た、何十年も渇望し続けたものだったから──

目を擦った。

何度も何度も。

───あくる日もあくる日も目を擦り続けた。


夢なんじゃないかと思った。

現実逃避の為に、自らが創りだした、都合のいい理想郷じゃないのかと何度も光景を疑った。

それでもやっぱり、世界は本物で。

彼女の夢は叶ったのだ。

理想は叶ったのだ。


……


この1ヶ月間、彼女は最善を尽くした。

同じ過ちを繰り返さぬよう。1人の友人を、昔の自分が失わないように努力し続けた。

やはり上手くいかず、から回ってしまう事もあった。

無いはずが無かった。

それでもその度に、前の自分を思い浮かべて、上を向き続けた。

そうして、彼女の夢は、真に誠と成ったのだ。

何度も脳内で描き続けた現実逃避を、本当の現実にする事が出来たのだ。

彼女は救われた。

彼女が死ぬという未来は、──回避出来たのだ。



<epilogue>



真っ直ぐな目。

ボクの全てを透すかのような蒼き眼差しが、ボクの眼光を貫く。


「ねぇ、どうしてあなたはシトラスなんて名乗ったの?」

「ほら、柚の学名ってCitrus junosなんだよね。だから、それでいいかなってね。偽名なんて、別ににつけなくても良かったんだけど、つい咄嗟にね」


彼女はボクにそう笑いかけると、左頬をかいた。

どうしてか照れくさそうにしていて彼女は知らず自の靴のつま先を地面に擦る。


「何それ安直」

「え一酷い。それが年上に対する態度かよ」


不貞腐れ、口をへの字に曲げるシトラス。

それを見てか、ボクは自然と唇の端が緩む。


……



───やがて、奇跡は終わる。

奇跡が終わり、彼女は未来へと帰るのだ。

14年先の、元の世界へ。

所でだ、

彼女は、何処へ帰ると言うのだろうか。

彼女が変えた未来、いや過去であるこの世界。

つまりは今、──ボクが歩んでいるこの世界の14年後なのだろうか。

解答は否だ。

──事実。

歴史が変わるという事は有り得はしない。

何があっても、誰が何を唱えても、それが叶うことは無い。

されども奇跡は起きた。

長い間、それこそ、青春という概念を忘れ通り過ぎる程の時を後悔で押し潰した。

その上で起きた、たった一度の奇跡。


結果、彼女は過去を変えたのだ。

自信が忌み嫌ったその暗き未来をねじ曲げた。

されども、この奇跡が終わった後、彼女が帰る先は、"そこ"では無いのだろう。

やはり彼女は、もう一度同じ世界に-

その暗い部屋に辿り着くのだろう。

ならば、

この世界はどうなる?

ボクが今歩む、否、これから歩むであろうこの世界は。

彼女が、過去を変えてでも歩みたかった希望の世界はどうなるのだろうか。

直ぐに元通りに、観柳斎ミラが死ぬ世界に戻るのだろうか。

恐らく、それも否だ。


───平行世界。

世界中に生きとし生ける数多もの生命の数々。また、その一つ一つが選び抜く無限の選択肢。その一つ一つが掛け違える事で存在する無数の似て非なる世界。

つまりだ。

彼女は一度の奇跡を利用し、己の未来を、生きる現在を変えた訳では無いのだ。

ただ。

ただ、別の平行世界を創っただけ───、


己が生きたいと、血が湧き出る程までに歯を食いしばって願った世界を、別に創造したのだ。

沢山後悔して、

塵でさえも、山となる程に後悔を重ね、

───やっと叶った夢。

やっと現実になった夢幻。

だって言うのに。

結局自分自身が報われる事は無い。

1ヶ月間の喜の感情、彼女の想いは彼方へと消え去る。

そんなの、そんな結末、それはあんまりにも、

────辛すぎるじゃないか。


……



彼女は今、どういう心情なんだろうか。

これから自分が、再び辛い現実に戻ると判っていて、

どんな気持ちで立っているのだろうか。


「ほら、そんな暗い顔しないでよ。笑って笑って」

「でも、あなたは」


なんと言っていいのか分からない。

ボクが、今更彼女に何を言ってやれるだろうか。


「いいんだよ過ぎたことは」

「シトラス。あなたは、本当に凄い人だ。あなたの思うミラと、ボクの思うミラは全く違っていた。

ボクには、ミラをあそこまで変えることは出来なかったから」

「いいや? 私が変えたんじゃないよ。それはあくまで彼女が変わろうとして成ったんだよ」


どうあっても、

夢の中で見た、シトラスの記憶では、ミラはボクの思うミラじゃなかった。


「貴方に救ってもらって、助けられて、それなのにボクは、何も出来ていない。──ボクは、これからどんな気持ちで生きていけばいい、ボクは、ちゃんと前を向いて生きてけるのかな」


自分の声が震えるのを感じる。


「いい柚希? 人生ってのはね、本当に辛いものなんだ。

嫌な事をして生活をしなくちゃならない、嫌な人と接して、嫌な顔一つせず笑わなくちゃならない。そのくせ報われるかといったら、そうとも限らない」


自分の顔がひきつるのを感じ、ボクは瞬きをして誤魔化す。

それでも彼女は言葉を続ける。


「でも、大丈夫なんだよ。生きてていいかなって。そう思える時が必ず来るから。

あぁ、この世界にはまだ私が必要なんだって、まだ生きててやってもいいなって思える瞬間が、必ず来るから」


彼女は少しだけ微笑んで、


「───きっと大丈夫だから」


根拠の無い発言。

責任感の無い言葉。

それでも、

ボクはとても安心したのだ。


「──あ」


気づけば、ボクは泣いていた。

何か声を発する訳でも無く、悲しげな表情を浮かべる訳もなく、ただただ、この瞳から泪を流していた。


「心配要らないよ。私はもう大丈夫。───だって君がいるんだもん」


多分、後悔する事も無い。


「ボクが、、、いるから……?」

「君が、変わりにこの世界を歩んでくれるからだよ。 私が歩みたかったこの世界を、君が歩んでくれるから」

「────」

「だって、君は私だから。もし向こうで辛くなった時はね、君の事を思い出す。

そうしたら、きっと笑顔になれるから」


溜まる唾をのみ込む。

言いたい事がある。否、言わなければいけない事。


「ねえ、シトラス。どうしてもこれだけは言わなくちゃって思ってね」

「ん? どうしたの?」


素っ頓狂な顔。

是を見ていると、本当に安心する。

そして同時に、切なくもなってくる。


「───ありがとう」

「────」


彼女は少しだけ微笑んで、


「───うん」


とだけ呟いた。


風が吹き荒れる───、

立ち込める風が、目に砂を運んできて、目がゴロゴロとする。


「それじゃあ、私はもう帰るよ」

「うん」


たった一言で返した。

ボクには彼女に返せる言葉が無かった。


「ばいばい、シトラス……」

「これから、頑張っていくんだぞ? ボクも、これから頑張っていくから」



ほんの一瞬、彼女は微笑んで、太陽の元で消えていった。

───可笑しいな。

あまりにも可笑しい自分に呆れて、つい笑みが溢れ出てしまう。


今日はいい天気だ。

雲はあれど、陽の光がそれをカバーしている。

だって言うのに。

視界が濡れてしまっている。

───これじゃあ、前が見えないや。


肌寒くはあるが、心地の良い風が吹く。

吹かれ、知らず目を細める。

手を後ろに伸ばし、髪の毛を触る。


「髪の毛

────伸ばしてみようかな」


ご愛読ありがとうございました。

今作に登場した園田翡翠をヒロインにした物語を、連載作品として完結済みなので、是非そちらも見てみてください。

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