第三話 ジンガ・ルイルス
ルイルス辺境伯家の当主、ジンガ・ルイルス。
鋭い目つきで睨みつけ、「弱いな」なんて言葉を初めて会った自分の幼い息子に言うようなちょっと当たりのキツい人間だ。ジンガはこの辺境伯家のあるゼイウス王国の国境の警備を主任務とする『王国の守護者』第三部隊の部隊長、らしい。というのも、仕事しているとこなんて自室に籠って書類の整理をしているとこしか見たことがないから、実際何をしているかなんてわからない。ダイシャとメイドや使用人たちに聞いても難しい顔をしてなんとなくしか答えてくれないのだ。
多分、俺がまだ幼いからだろう。そらそうだ、二歳の子供に国の仕組みなんて教えたところで理解できるかと聞かれたら、答えはすぐに出る。
「当主様のおかえりです!!」
ジンガの側近の声が屋敷の大きな玄関の向こうから屋敷に響き渡った。
ギギィ
屋敷の玄関の扉が開く音が聞こえたのと同時に
「「「おかえりなさいませ」」」
メイドや使用人たちの声がジンガの帰宅を祝福した。
「おかえりなさい、あなた!!」
ジンガに駆け寄ると、俺とシャローネを抱きしめるように優しいハグをする。
「あぁ、ただいまダイシャ」
ダイシャのハグを受け入れてダイシャの背中に手を添えた。
「おかえりなさい、おとぉ様」
ダイシャの背中に隠れながら、もじもじとシャローネが言った。
「ただいま、シャローネ」
もう片方の手で優しくシャローネの頭を撫でながらジンガは笑顔で返す。
仲の良い家族だ。立派な仕事を務める父親、優しい包容力のある大人な母親、幼いながら頭の良い娘。この家族はもう既に完成しているのだ。俺の入る隙もない完璧な家族。前の世界もそうだった……。
「ほら、シダあなたもおいで?」
ダイシャは、笑顔でこっちを見つめると、手招きをした。
「はい、お母様。おかえりなさい、お父様」
「今日も元気にしていたか?」
「はい。お父様」
「そうか。ただいま、シダ」
初めて「ただいま」という返事をジンガから貰った。少し、心の中にあるジンガのイメージが壊れた気がした。
次の日
「シダ様。起きる時間ですよ」
自室のドアの前で俺を呼ぶ声で目が覚める。この声は…
「入りますよーシダ様ー」
バァーーン!!
「あら、起きていたんですね」
ドアを壊すような勢いで開けてわざとらしくこんなことを言うのはあいつしかいない…。
「おはよう、ミリス…。扉は優しく開けてほしいな…」
「あぁ、そうでしたね。すいません」
少し考えた素振りすると、ずかずかと俺のベットの目の前に来て
「早くしないと朝食が無くなってしまいますよ」
と言い終わると、俺の毛布を乱暴に引き剝がし、シーツを引っこ抜いて立ち去って行った。
ミリスのせいで寝起きは最悪だが、早起きをすという習慣がついたのは良いことだろう。毎朝誰かが起こしに来てくれるだけでも、寝起きがもともと悪い俺にはありがたい。
服を着替えて、進んでも進んでも景色が変わることのない廊下を歩きながら、メイド達に挨拶をする。メイド達には特に優しく接するようにしている。もし何かあったらこの小さい体ではどにかできる問題は少なすぎる。だから、何かあった時に助けてくれる人間は多い方が良い。だがそんなものはそこまで期待していない。一番は恨まれたり、憎まれないことだ。前世で嫌というほど味わった人間関係の問題。
中学一年の秋のあの日の様に.……。
「おはようございます!!シダ様!!!」
つい下を向いて歩いていると、真後ろからの声に驚いた。
「おはよう。ハンナ」
この、悪意が一切無い純粋な笑顔を毎朝見せてくれる女性はこの世界で一番お世話になった人だ。俺が困っている時に駆けつけてくれて、屋敷の中だとダイシャと同じくらい優しい人だ。ハンナは生まれた時から今までずっとお世話をしてくれた。おむつの交換から何まで。
「シダ様、当主様と奥様が食堂でお呼びになされていますよ。」
こんな朝からいったい何の用事だというのか。面倒ごとではないといいが…。
「分かったよ、ハンナ。知らせてくれてありがとう!」
ハンナに礼を言うと彼女を背に少し走って食堂へ向かった。
食堂のドアの前に着くと、ゆっくりと一呼吸を終えてドアの取っ手を慎重に押した。
中に入って既に朝食を終えて、談笑をしている二人に挨拶をする。
「おはようございます。お父様、お母様」
「あら、今日も早起きねぇ。おはようシダ」
「シダ、早く席に着きなさい」
ダイシャとの会話を遮るようにジンガが言った。
ジンガに促されるままに席に着き、朝食を食べ始めてしばらくすると、ジンガが口を開いた。
「今日から家庭教師を雇うことにした。シャローネと一緒に授業を受けなさい」
家庭教師か…。てっきりこの世界では勉強とは無縁の人生を歩めると思っていたが、まぁ勉強は嫌いではないからいいか…。
「分かりました、お父様。僕は何の授業を受けるのでしょうか?」
「お前達には簡単な言語学をメインとした授業を受けてもらう」
言語学なんてものがこの世界にもあるのか。ってことは、俺が普段使っている言葉とは別に他の言語があるってことになる。面白そうだ。せっかくの新しい人生、やってやろうじゃないか。
「分かりました。頑張ります!」
「あぁ、学ぶことを怠らないことだ」
そう言うとジンガは食堂を離れた。
「シダ、頑張るのはいいけどあんまり無理しちゃダメよ?」
心配そうにダイシャは俺を見つめると、席を立って俺の真横に立ち俺を抱き寄せた。
「あなたは頑張れば出来ないことなんてないのよ。だって、私達の自慢の子供なのだから」
ゆっくりと俺の頭を撫でる温かい手で俺の頬を掴むと
「応援してるわよ」
いつものように、にっこりと笑って見せた。
「はい、お母様。頑張ります」
俺の返事に返すように頭を撫でると、ダイシャはジンガの仕事を手伝いに食堂を出た。
この世界には前の世界では見たことのない未知の動植物がいくつも存在している。俺の小さな人差し指に佇んでいる黒い羽に丹色の特徴的な模様、そして羽の中に散らばる紅色の斑模様があるこの蝶。とても綺麗な羽をしているのに顔は凶悪な顎とピンと張っている触覚。まるで蝶の体に蟻の頭をくっつけたみたいだ。それでも、この蝶の性格は大人しい。花の根元を嚙みちぎって花ごと運ぶ姿には驚くが、ほかの虫を襲っているところを目撃したわけでもないので、多分草食だ。いや、草食じゃないと困る。もし、俺の指を嚙みちぎったりでもしたら……。
「あなたがシダ君?道に迷ってしまって良ければ屋敷までの道を教えて欲しいのだけれどぉ」
さっきまで日の光に照らされて明るかった指先が大きな影で覆われ、その影に驚くように蝶は飛んでいってしまった。後ろを振り向くと、身長の高い細身の中性的な人間が立っていた。
男か女か、そして誰なのか。はて、どうしたものか。そもそもここは屋敷の敷地内にある花園でメイドや使用人すら近寄らない、静かな場所。そんな所に辺境伯家の坊ちゃんと知らない人間。この状況、もしかして、誘拐!!!???
「ごっごめんね。驚かせたよね。私は今日からこの屋敷で家庭教師として働くシルビオット・カノン。私のことはシルビオットと呼んでほしい」
誘拐ではないのか…。ひとまず安心していいだろう。それにしてもこいつ、何でこんな場所にいるんだよ。正門を真っすぐ歩くだけで屋敷にたどり着くだろうに。それに、よく見れば服も汚れるし、所々破れて土や木の枝が刺さってるし、どこの道を歩いたらこんなボロボロになるんだよ。
「そうなんですね!僕はシダ・ルイルス。よろしくね!」
こういう時こそ笑顔!こんなヤバそうなやつには関わらない方がいい、家庭教師か何だか知らんが、早く屋敷まで案内して関わらないようにしよう。