責任能力が無いなら出歩くな。出歩いて何か問題起こしたらそいつはもう人間ではなく害獣だろう?
いい加減「責任能力」なんて馬鹿げた認識やめろと。それはもう社会生活出来ないんだから法的に「人間」と言っていいのか?
責任持てない奴が出歩いてるなら、そいつの飼い主が責任を取るべきだし、たとえペットだろうが人を傷つければ処分されるのだから、それと同じで「責任能力が無い」と判断されたならもうその時点でまずは「殺処分」。その後に責任者の責任を問うだけだろう?無罪じゃなくて責任は問えよ、責任者がいないというならそいつはその時点で処分しとけよと。誰だよ野放しにしてるのは。
・ここでの「あの爺さん」とは誰の事で何の事件の事なのかは敢えて書かない、普通わかるから。10年もすればわからなくなるかもしれないけど、2023年の現時点ではまだ誰もがわかるだろう。
別に薬物に限った話ではなく、「責任能力」が無いなら、そいつの責任を負ってるのは誰だ?で、そいつが責任をとって害獣は始末した上でその責任者が犯罪者として裁かれるべきだろうよ。
「判断能力が」というなら…という話で、別に老人差別ではないからな?「老齢者の判断能力ではそれが危険だとわからなかった」…ならば罪には問えない、と同じ考え方が適用されたっておかしくないと思うんですよね、でも、当たり前だけど採用されない。年齢を理由に罪から逃れるな、当然。でも、判断能力が劣るのは事実だろう、じゃあどこまでが「許される」んだ?…いいか、あくまでも田村さんの意見は場合によらず「許されるべきではない」だからな。が、現実がそうではないから、「老齢者の判断能力の衰えは減刑に当たらないのか」。これに対して「実は減刑の例がある」とか答えがありそうだけど、それであれば無知でごめんなさいだ。
「老齢者の判断能力が劣る」のがわかってるなら、今回扱った事故でいえば「判断能力が劣るとわかっていながら運転するという行為を選んだのは」ってなるんだろうけど、それがヨリシロトランクでの台詞の「薬物で意識が朦朧としようが、薬物服用の判断が先にあったはずなのに」という事で、「運転する」を選択した事は一切関係ない。その上で「運転を誤っても年齢上仕方ない」。まあもちろんこんな判断下されちゃたまらないんだけれど、薬物云々の話からすればこういう判断にならないと公平ではないなと。本人の意思が重視されるなら。
実際のところ、悪意の有無…最初から他人を害して自身が利益を得るための犯罪なのか、報復やら何やら被害者側が許されざる存在の犯罪なのか、故意なのか事故なのかだとかで「加害者側の意思」は重要視するべきだとは思うんですよ。でも、事故であればだれに過失があったかがポイントで意識なんて関係ないし、故意の犯罪であればなおさら「心身衰弱」だの何だの関係ないだろうと。自分がやったとこを理解していようがいまいがそいつの意思で行われてるんだから。
こんな全然違う話につなげたのは、あの爺さんは今回はともかく、今まで「車の異常だ」と言ってきてたのは責任逃れとかじゃなくて、本気で言ってるんだろうなぁってとこにあるから。本気でそんなとんでもない事を言えるってのは思考力も判断力も「まともじゃない」んですよ。でも、だからってそれが減刑されるべき理由にはならなよねって。その判断が出来るなら、いい加減責任能力の有無なんて無駄な事やめろよと思う、そういう事。
まあ、何か全然違う話につなげてしまったけど、被害者以外にとっては「ただの小物」の爺さんでしかないわけで、ただ叩いていい存在だから叩くみたいな事はみっともないからホントやめろと思う。もっと吐き気を催すような邪悪はいっぱいいてそれが野放しになってる事を話題にした方がいいよね。
・刑法に犯罪抑止効果はあまり無いという話。ただし、全くないとは思ってない。そして死刑には抑止効果は無いとする意見にも反対してる立場です。
重力ピエロは読み終わった。「罪には理由や意味なんて関係ない。何をやったかという結果だけを判断すべき」との弟クンの言葉。これも多分、一般人が同意してしまう系統の台詞。「仕方が無かった」「同情できる」という場合も多い…でも、それらも含めて「同罪」だとする考え方。
私はさすがに「結果」だけで問うというのには反対ですが。「子供だから」というのは無しだと思いますし、精神状態がどーだのというのも無いと思うんですね。結構、こーいうの何度も何度も昔から書いてますが。
ただ、「目には目を」は復讐を認める法ではなく、本来は過度の報復を戒めるためのものという台詞もあり、弟クンはなかなかに素晴らしい悪人だなと思ったです。そう、確かにその通り、それが正しい解釈だとされているし、刑法とはそうあるべき。「目をやられたなら、やり返すのは目だけにして、それ以上はやるな」。でも、これは以前も書いた事ですが「息子を奪われた苦しみ」に対して「息子を殺した相手に息子がいたとして」その息子を殺したらそれは「過剰報復」となる。被害者と加害者は1対1でないと成り立たない。この場合、被害者は「息子」さんであり、「目を」を実行出来る「息子さん」はこの世にいないので、実行手段を持たない。では、「母」が代行していいのか?「本来の趣旨から言えばしていいわけがない」。だから「目には目を」は「単純に報復」の意味でしか使えやしない。
少し前に人間は「バレなければ」犯罪をするのかみたいなのを書いたんですが、そんな事ぁ無いと思うのですよ。人間がモノを盗まないのは「バレたら犯罪者になるから」なのか、人間が無闇に野生動物を殺さないのは「犯罪」だからなのか。そうじゃあない、「盗む」という行為で誰かが迷惑するからやらない、痛みを知っているから、命とは何かが何となくわかっているから殺さない…虫は殺すが。
結局、人間には善意というものがある。人間は生まれつき善でもなければ悪でもなかろう。性善説だの性悪説だの実にバカらしい。よほどの理由が無ければ大きな犯罪は起こさない。
さて、では悪意ある犯罪者というのはどうなんだろうか?「窃盗」だろうが「殺人」であろうが、それが「他人の迷惑」であろうと関係ないと考える。その「考え方」は「異常」であり、その犯罪者の精神状態は「普通」ではない、「まともな判断」が出来ていない。もちろん、犯罪者側からすれば、その思考は極めて「まとも」なのであろうが、「まとも」かどうかを判断するのは自称だろうが何だろうが「善なる人間」。
善なる人間の思考と大きく異なる思考をしているならば、それは「異常」だということ。まともな判断が出来ていない人間に罪を問うてどうするというのだ?彼らには責任能力は無い。無いから犯罪行為を起こせる。だが、都合良く解釈し、そんな彼らにも責任を負わせ犯罪者として取り締まる。…「心神喪失者」だの「心神耗弱者」だの何だってのさ、それが?それは本人とは無関係なところで他人が勝手に決めた事だろ?
まあ、こんな屁理屈はともかくとして…理屈としては「刑罰」は「罰」などという名称にも関わらず因果応報的な「罰」ではないので「刑罰を加える意味が無い」人物には刑罰を与えない。だが、そこに「罪」が無いということにはならない。確実に「罪」は存在している。つまり「無罪」ではない。罪は存在しているが刑罰を実行しないというだけの話のはずだ、理屈からいえば。
刑罰が科せられないのはいいさ、責任能力の無い人間に刑罰科しても意味無いから。でも無罪は無いだろと思う、やはり。そして、その責任能力を持たない人間に対して無責任でいた「誰か」がその罪を負うべきではないのかと。「この遊具が危険であり、事故を起こす事は予見出来た」だから「遊具を設置した側に責任が存在する」との考え方から言えばだ。
唐突に誰も気づかない内に心神喪失状態になったとして、いきなり何かしでかしたとする。しかし、その状態に至るには何か原因があるはずで、「予見出来た」として「到底責任無さそう」な人間に罪を負わせるのが…正しい在り方じゃないんだろうか?いや、ここでいう「正しい」とは「全然正しくない」んですがね。
弟クンが言いたいのはそういう責任能力云々の話ではなく、「いい事」の為に「犯罪行為」をしたとしても、それは結局は本人の中だけのものでしかない。犯罪は犯罪であり、その責任は問うべきなので、自分は罪に問われるべきだ、と。地獄少女の第1期も同じ考え方。どんな理由があろうと人1人を地獄送りにしたなら、地獄に送った側も地獄に送られるべきであるという。情状酌量などという考え方が入らないので、単純明快でとてもわかりやすい。
以前書いた雑記では…こんな事を。当時は「刑法にはあまり犯罪抑止効果は無い」と言ってますが、それはあまりにも「人間の善意を信じすぎていた」から。刑法にはある程度の犯罪抑止効果は確かにある。あるけど、決して優れたモノではない。
最後に軽く触れてる「無関係の2人が同じ人間を殺そうとして、対象の人間に対して致命的な行動を起こした場合」、どちらの行動により死に至ったかで「殺人」と「殺人未遂」が決まってしまうらしい。「結果を重視してる」わけですが、これはもう刑法の考え方とまるで違うわけで弟クンの言う「結果だけを判断すればいい」がハンパなレベルで実現してる例。これは正義ではない。殺しにいったけど、既に死んでいたとかならギリギリ許容範囲だが、対象の相手が生存してる内に相手にとって致命的な行動をとっているのに、結果的に「別の理由で死んだ」というだけで「殺人罪」にならない。
偶然「先に落雷があり事故死」したとしても、それはやはり殺人罪にならない。何なんだろう、何か納得がいかない。というか本当にそういう風に出来ているんだろうか、刑法とは?本にウソが書かれていたならそっちの方が嬉しい。
刑法の基本みたいな本を買いました。一見すると、というか各法の考え方だけ見るに理論的というか正しい考え方をしているように思うんですが、法ごとに解釈が違い「滅茶苦茶」です、日本国の刑法。日本だけじゃないんでしょうが。
加害者にも人権があり、被害者の意思よりも加害者の人権が優先されるという。一見、優しい考え方のようですが、恐ろしく残酷っていうか残虐です。
刑法は刑罰を示す事で犯罪を起こさせにくくするという意図があるようですが、はっきり言って、日本の刑罰では、あろうがなかろうが「やる」奴はやるし、やらない奴はやらない。多くの人は刑罰が怖くて犯罪行為をしないのではなく、それが当たり前だと思っているからしない。「罪には問わないから好きなモノを盗んでいい」とか言われたって実際にやる奴ぁほとんどいないでしょう
公的に罪に問われなくても私的に刑罰より悪質な集団的嫌がらせとかされる可能性高いだとか、そいうレベルの話をしているのではなく、「他人に迷惑だ」って思う事はそうそう出来るもんじゃない。もちろん、それが出来てる人もいますが、違法行為なんですよ。現時点でそれを縛る「刑法」は存在している。けど、それでもやっているんです。
刑法に犯罪抑止効果はあまり無いと思います。現行犯であれば逮捕令状無しに逮捕出来て、それは一般人でもいい。でも、その時に相手を傷つける事があった時、それは刑罰に問われる。こんな法のあり方だと、むしろ本来、刑法に反する事をするわけがない善意の方々の「対悪人」行動を妨げる事になる。刑罰があろうがなかろうが「やる」人相手には刑法にさだめられた刑罰は犯罪抑止効果無いですが、「やらない」人にとっては「善意の行動で犯罪者にされたくはない」という思考が働くので「現行犯逮捕抑止効果」が働く。実際、万引き犯を捕まえて勢い余って命まで奪ってしまい、罪に問われた例がありますが、これでは一体誰の為に法が存在してるのかさっぱりわからない。「万引きは死を与えられる程に重い罪なのか?」を問う前に「逮捕側は罪に問われるような事をしたのか?」が先。
問われるような事をしたのだ。悪人に人権は無いって言い張る人にとっては悪行の度合いに関係なく「死んでも当然」って考え方になるんだろーけど、普通はそうはならない。
「別に現行犯=殺害OK。と言ってるのではない!!故意に殺したならともかくそうでないのなら、やっちゃった本人が精神的にかなりの苦痛を受けるわけで、そこに刑罰を加える事に意味が無い。「考え方が滅茶苦茶」と言った理由でもあるんですが、刑罰は「罰」ではなく犯罪者に反省をうながし、再起させる為のモノであり苦痛を与える為のものではないという偽善的な名目で成り立っているようなんです。無期懲役の場合は「無期」というのは「永遠」の意味ではなく「期限が無い、不明」という事で、死ぬまで閉じ込めるって意味じゃあないようです。死刑に関しては何ら言い訳できなくて、ただの「報復」「罰」でしかないですが。
それが名目だとしたら、[もう2度と力入れすぎたりしない]っていう反省を…まあ、そんなの誰に言われなくても本人が一番わかってるか。
精神おかしー奴が犯罪起こしても罪に問われないってのは、本人がそれが犯罪行為であり、やってはいけない事だとは思っていなかったから。つまり、反省をうながす意味での刑罰は不当だからと解釈出来ます。実際のところ、ここまで単純化しちゃいけないんですが、結局出てくる言葉は「責任能力が無い」っつう、被害者にしてみればその言葉の方が「無責任だ!」って言いたくなる一言だけ。つまり「結果」は問題じゃあない「過程」と「思考」が問題なのだ!と、そーなる。さっきの「過失」で殺してしまったのは「人を殺すのは犯罪だとわかっていて、どうすれば人が死ぬかもわかっていた」人間だから罪に問われる。これは「過程」だけでなくで「結果」も問われている。
思考レベルの問題で罪に問われるとしたら怖いから、結果だけ見るってのは1つの判断方法ではある。
だからこそ「未遂」という考え方がある。殺意を持って殺しにかかっても、それが偶然であろうと命が助かれば、それは殺人罪には問われない。なぜかっていえば結果として人を殺してはいないから。精神レベルでは「殺人犯」なんですがね。不能犯っていうのも有名ですよね、呪殺は殺人罪にはならないっていう話でよく出てきますし。これも結果重視。
結果としてもし誰か死んでも因果関係が証明出来ない。不可能な方法での殺人。不可能だから殺人罪にはならない。
人を殺すのがいい事だと本気で思っている人が人を殺してもそれは罪には問えないはず。結果として人が死んだわけですが、それをした本人が「いい事をした」と考えている以上はそれは無罪である…「成敗」って意味で「いい事をした」とかだとそれは「殺人」が本来は犯罪行為だとわかってるので当然、有罪ですが。考え方としては商法で使われる善意の第3者に近いですかね。
それに対して殺人が悪行かどうかはともかく犯罪行為だとわかっていて人を殺そうとして殺しそこなった場合、それもさしたる罪にはならない。それは結果として人が死んだわけではないから。これは、どっちかの考え方が間違ってるとかでなくて、どっちも考え方として一理あるかと思うんです。これを法で併用するのも仕方ないかとも思います。ただ、人間の判断がいい加減なんで併用するとヘンな判決が多くなる。「心身喪失」だの「責任能力」だの、関係無しに「過程」と「結果」を重視するって形にしてみるとどうなるかですね。
少年法の存在自体が揺らぐね。
人の命の重さは同じだから、親族殺しは他の殺しよりも罪が重いとするのは間違ってると判断されたはずですが、だとすると…って、さっきの重視って話ですけど「結果」だけを見るとか言ってるわけじゃないから、それ。
同時に人を殺そうとした場合、どっちが殺すかは早いもの勝ち。勝った人は殺人罪になるけど、負けた人は殺人未遂にしかならない。
同時にナイフで突き刺して、どっちの傷が致命傷になったかでも殺人と傷害&殺人未遂の差になる。意味はわかるけど有り得ないよね、なんか。
2人が共謀してた場合は2人とも殺人罪になるらしい。
「結果」「過程」「意思」そういったものを「高貴なる人」が都合よく使い分けられるようにヒドく曖昧に適用できるように刑法は作られてるねっていう。どうしようもない悪法なんだけどホントそれこそどうしようもない。
とりあえず今まで責任能力云々で無罪になった奴全員殺処分でよくね?刑罰は不要、害獣として処分というのは極めて妥当な判断だと思う。残酷な殺処分が待ってるとわかれば必死に責任能力証明するでしょ。結果として死刑になるかもしれんけど。