白い烏【2】
火柱を挟んで向き合いながら、私は改めて姿勢を正すとクロウへと問う。
「……あのさ、自分がかなり非常識なことを言っている自覚はあるんだよね?」
「ああ」
「私、これでも聖女だから神殿を長く空けることは絶対に出来ないんだよ」
「……分かってる」
「私が役目を果たせない間に、この国が他国や魔獣に攻め込まれるかもしれない。それも理解してる?」
「すべて承知の上だ」
「そう……」
私はそこで一呼吸置く。
現在のクロウの立場なら、こんな風にわざわざ説得を試みなくても私に同行を強要することは簡単だろう。いくら聖女とはいえ私自身は非力だ。護衛も付いてない今なら、もっと傍若無人に振る舞っても全く問題はないはず。
しかし彼はそれをしない。というか、こちらをずっと気遣い続けている。
「クロウは……もしかしなくても、過去の私と会ったことがある人?」
「っ……」
その反応だけで良かった。彼は過去の私を知っている。
つまりは三年よりも前の知り合いということだろう。
「知ってるかもしれないけど、私には三年前からしか記憶はないの。聖女継承の儀に必要なことだったから」
クロウは驚かなかった。つまり知っていた、ということだろう。
聖女に選ばれた者は、聖女になる以前の記憶を失う――それが聖女継承における不文律だとフィクタ様は言っていた。
例に漏れず聖女となった私も三年より前の記憶がない。
日常生活における動作記憶自体は問題なかったが、それ以外の全て――育った場所や親しい人など、何も思い出すことは出来なかった。加えて読み書きすらもろくに出来ない状態だったのだ。この三年間の学習でだいぶ知識は付いてきたが、ほとんど神殿から出ることもなかったのでそこに偏りがある自覚もある。
文字通り、私は過去の自分を捨て、聖女として三年前に生まれ変わったのだ。
しかし私という存在自体が消滅したわけではない。当然、聖女になる以前の私を知る人だってこの世界にはいるだろう。察するにクロウはその一人、というわけだ。
もともと私の出自は平民の孤児と聞かされていたし、普段は神殿に籠りきりのため、かつての知り合いに会う機会は当然なかった。
なので特に気にしていなかったけれど――
「……だから『やっと会えた』って言ったんだね」
あの時、クロウは自然と涙を零していた。その感情が嘘である筈がない。
そもそも城内に侵入するという危険を冒してまで私に会いに来た彼が、ただの知り合いなんてあり得ないだろう。
「私と貴方はどういう関係だったの?」
その問いに、クロウは悲しそうに目を伏せた。そして首を横に振る。答えられないという意思表示。
クロウの言動が何かによって縛られているのはもはや確定的に明らかである。
しかしそれが何に起因するものなのかは分かる訳もない。
そこで私は思い浮かんだ可能性の一つを口にする。
「……もしかして、私って呪われてたりする?」
「――いや、呪われているとしたら……それはたぶん俺の方、かな」
自嘲気味に笑う声が寂しい。と同時に、こんな場面ですら彼は私を不安にさせないよう言動に気遣っているのが分かってしまった。優しい人なのだ、きっと。だからこんなにも、私の胸をざわつかせる。
今の私が忘れてしまっている人。烏の名を持つ白い人。
赦されるのならば、彼のことを知りたい。過去の自分との関係が何であったのかを知りたい。
「魔女のもとに行けば……願いが、叶えられるんだよね?」
ならば、私の記憶ももしかしたら取り戻せるのではないだろうか。
代価次第では魔女に願い出てみるのも悪くないかもしれない。
そう思案する私に、
「――」
クロウが何か話しかけてくる。けれどよく聞き取れない。
「? ごめん、今、何か言った?」
「……いや、なんでもない。気にしないでくれ」
明らかに何かありそうだが、きっと答えは返って来ないだろう。
それを察した私は敢えて話題を別の方向へとシフトする。
「私が魔女のもとへ一緒に行けば、クロウの望みは叶うんだよね?」
「そうだ。俺はそのために……今まで生きてきたんだ」
その絞り出すような声を聞いた瞬間、私の腹は決まった。
誰に頼ることもなく、自分の意思で私は宣言する。
「――分かった。それなら魔女のもとに一緒に行ってあげる」
「っ……!! 本当に、いいのか?」
「無理やり行かされるよりも、自分で行くと決めた方が張り合いが出るし――何より、私は聖女だから」
困っている人を見捨てるのは聖女の道義に反する。
少なくとも私は、私に救いを求めているクロウのことを見て見ぬ振りなんて出来ない。
ただし、まったくの制約がないわけでは勿論ない。
「私が不在の中で国を覆う結界を維持していられる期間は……おそらく三ヶ月が限界だと思う。だから必ず三ヶ月以内に魔女のもとへ連れて行って。それが条件」
本当は毎日祈りを捧げていたことが功を奏していて、私が居なくても池の聖水が枯れるまで半年ほどはもつ筈だが――敢えてそれは口にしない。そもそもクロウに同行すると決めたことすらイレギュラーなのだ。聖女として、結界を維持する存在として、これ以上は流石に譲れない。
その意思を込めてクロウを見据えれば、彼は厳かに頷き返した。
「約束する。必ず三ヶ月の間に決着を付ける」
「ん……なら、私も出来る限り協力する。一日でも早く魔女に会いに行こう」
私は敷物替わりだったクロウの外套から出て、土の上に素足で立つ。
足裏にひやりとした感触が伝わってくることが、神殿ではなく外の世界にいる証左のように思えた。
そのまま私はクロウの目の前まで来ると、目線を合わせるためにしゃがみ込む。
そしてビシッと人差し指をそのキョトンとした表情へと突きつけた。
「言っておくけど、私を戦力としては期待しないように! 魔術も体術も使えないお荷物だと思って丁重に扱うべし!」
自分で言うのも情けないが、本当のことなんだから仕方がない。
一応、インぺリウム王国内の旅になりそうなので魔獣の心配はあまりしていないが、野盗や野生動物などに襲われたら私ではひとたまりもないのだ。念を押さなければ安心出来ない。
クロウはそんな私の不安を払拭するように、力強く頷き返した。
「うん、それは大丈夫。絶対に何があってもお前のことは俺が守るから」
「なら良し! ……って、そう言えば、ずっと気になってるんだけど」
「? 何が?」
「さっきから私のことお前って呼ぶのは……私を聖女って呼びたくないから、だよね?」
「……」
彼は困ったように眉を下げながら微笑む。図星なのだろう。そして、過去の私の名前を口にしないことから、これも何らかの制約が邪魔をしていると簡単に予想は付く。
この三年間、聖女や神殿の在り方に疑問を持ったことはほとんどなかった。
けれど祝宴の時のリヴェルタス王子といい、クロウといい――もしかしたら私の過去や聖女という存在は想像以上に何か訳ありなのかもしれない。
……信頼するフィクタ様を疑うことはしたくないけれど、この旅の中で何か掴めれば。
私の中でまたひとつ旅の目的が増えていく。
それはそれとして、今は私の呼び名についてだ。
「エマって呼ぶのも、抵抗ある?」
エマは初代聖女から連綿と受け継がれている名だ。
つまり、私の本来の名前ではなく称号のようなものに近い。
「出来れば、別の名前で呼ばせてほしい」
クロウは素直に自分の要望を口にした。私は軽く頷いて了承する。
「じゃあ、クロウが名前を付けて。なんでもいいから」
彼はしばし――というか相当悩んでいた。口もとに手を当ててブツブツと何かを呟いている。
その真剣な表情を見ていると、なんだか少しだけ、嬉しいなと感じた。仮の名前ひとつにしても大事にされているような、そんなこそばゆい気分。
しばらくしてから、クロウは意を決したように口を開いた。
「――ステラ、でもいいか?」
「星? うん、ステラね……いいよ」
彼があれだけ熟考した末に付けたものだ。もしかしたら過去の私の名前に関連しているのかもしれない。そう思うと悪くないし、響きも可愛くて気に入った。
「改めて、よろしくねクロウ」
「こちらこそ……ステラ」
私たちは自然と握手を交わす。
ゴツゴツした彼の右手の感触は、力強くもあり……不思議とどこか違和感を覚えた。