聖女エマ【5】
リヴェルタス王子とのダンスの後、フィクタ様は私の傍を片時も離れることはなかった。
さらに何か言いたげな視線をチラチラと寄越すフィクタ様だが、実際に尋ねてくるわけでもなく。
私は私で周囲には終始笑顔で対応しながらも、脳内では王子が最後に告げた言葉の意味を考えるのに忙しかった。
――王子が最後に口にした「依存」。
確かに客観的に己を省みると私はフィクタ様に依存している節があった。
神殿という閉塞的な環境下での絶対的な味方。常に私を教え導いてくれる存在。
もともと世話役として私に仕えてくれているのだから、頼りにすること自体は自然なことである。
けれども私は重要な判断は基本的にフィクタ様に一任する癖があった。
自分自身のことだけど、聖女という立場上、私は自由に自分のことを決めることは出来ない。だからフィクタ様に任せるのが正しい。そう思っていたけれど……それは思考を放棄しているとも言える。
ふいに無責任、という単語が脳裏をかすめた。
少し気分が落ち込んできた私は歓談の席から失礼のないように離れる。当然ながらフィクタ様も付いてくる。そのまま人気のないバルコニーの方へと足を向けた私の背中に、フィクタ様が小さく声を掛けた。
「聖女様、お疲れでしたらもうお部屋に戻ってもよろしいかと。参列者との交流は既に十分に行ないましたので」
昨日までの私なら、その言葉に何の疑問も持たず従っていたかもしれない。
だけど先ほどの王子とのやりとりが、私に首を縦には振らせなかった。
「……大丈夫、少し涼みたいだけです」
「そう……ですか。では、飲み物をお持ちしましょうか?」
こちらを気遣うフィクタ様の眼差しは優しい。それは疑いようもない。
なのにほんの少しだけ、その笑顔の裏に何か別の思惑があるのではないかと――そう考えてしまう自分がいる。きっとそれは、フィクタ様が私と王子に向けた視線に、どこか後ろ暗さを感じてしまったから。
「フィクタ様」
満天の夜空が頭上に広がるバルコニーに出た私は振り返り、不安げなフィクタ様と向かい合う。
「私は少し……フィクタ様に頼りすぎているのかもしれませんね」
ごめんなさい、と目を伏せて口にすれば。
すぐに一歩、フィクタ様がこちらとの距離を詰めたのが分かった。
手を伸ばさなくても捕まえられるほどの近さで彼は私の肩にそっと手を置いた。
そして囁くように耳元に唇を寄せる。
「……リヴェルタス王子に何を吹き込まれたのですか?」
その声音には確信が宿っていた。私は目を瞬かせながらフィクタ様の顔を咄嗟に仰ぎ見る。
すると彼は珍しく苛立ちをその美しい顔に滲ませていた。
「何を言われたかは知りませんが……それで私に対する信頼が揺らぐなんてことは、聖女様に限ってありませんよね?」
グッと、私の肩を掴むフィクタ様の指先に力が篭る。
少し痛いくらいの必死さに、私はすかさず首を大きく振って頷き返した。
「フィクタ様のことは信用しています。その気持ちに嘘はありません……けど」
「けど?」
「あまり貴方を頼りにしすぎるのは、私自身のためにならないと……そう思って……」
「……なるほど。それはまぁ、一理ありますね」
他ならぬフィクタ様の口から賛同が得られて、私は思わず心から安堵した。やはりフィクタ様はきちんと話を聞いてくれる人なのだ。ただちょっと過保護なだけで。
そう思って改めてフィクタ様を仰いだ瞬間――こちらを覗き込んでくる彼の新緑のような美しい瞳の奥に、何か淡くきらめくような黄金の光が見え隠れしたような気がした。
まるで魅入られるようにそこから視線を逸らせない中、フィクタ様の甘やかな声が私の耳朶を打つ。
「ですが、貴女はまだ聖女に任じられて三年しか経っていません。知識も経験も何もかもが不足しているのですから、私を頼ることは悪いことではありませんよ」
「それ、は――……」
頭の中に霞が掛かったように、ぼんやりとしてくる。
上手く考えがまとまらない。
でも、誰よりも信頼のおけるフィクタ様の言うことに間違いはない筈だから――
「……確かに、その通りですが……」
「貴女は三年前に生まれ変わったばかりの雛鳥のようなもの。だからこそ私のような存在が傍に居るのですから……何も後ろめたく思う必要はありません」
私は何も言い返すことが出来なかった。だってすべて本当のことだ。
聖女となった瞬間から私は何も知らない真っ新な状態となり。
フィクタ様の教えがなければ右も左も分からない赤子同然だった。
「ゆっくりでいいのですよ……それまでは私がきちんと導いてあげますから、ね?」
三年の歳月を経て少しずつ聖女として立ち居振る舞えるようになっただけで、本質的にはまだまだ空っぽの私が、自己判断で動くには圧倒的に経験が足りない。
スッと、頭の中にフィクタ様の言葉が染み渡るのを感じる。
彼の言葉こそが正しいものだと――そう無条件で信じることが出来る。
私はフィクタ様を見上げながら、自然と謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんなさい、フィクタ様。私が軽率でした。今後も何かあればすぐにフィクタ様に相談します」
「ええ、是非そうしてください。私は貴女の世話役であり……婚約者なのですから。どれだけ頼って甘えてくださっても構いませんよ」
そう言ってフィクタ様は私の黒髪を愛おし気に撫でてくる。
この人は本当に私の黒が好きなようだ。聖女に誰よりも傾倒しているフィクタ様だからこそ、聖女たる証の黒はやはり特別なのだろう。
「さぁ、身体を冷やしてはいけません。もう本日は部屋に戻りましょう」
「はい」
「明日には神殿に戻れますからね。そうすれば些事に気を取られることもなくなりますよ」
そのままフィクタ様にエスコートされてバルコニーを離れ、私は惜しまれながらも祝宴の場を後にする。
一瞬、不機嫌そうな面持ちのリヴェルタス王子と目が合ったような気がしたが――
「聖女様」
フィクタ様の声で思考が止まり、私は何も疑問に思うことなく淡々と歩を進めた。
その後は城内に用意された客室で就寝の準備をし。別の客室に向かうフィクタ様におやすみの挨拶をしてから、私はすぐにベッドへと滑り込んだ。
しかし普段とは違う硬さのベッドと祝宴の空気に少し当てられたのか、一向に眠気は訪れない。
けれど何か考え事をしようという気も起きず。私はただ漫然とベッドの上で目を閉じ、眠りに誘われるのをじっと待っていた。
――そんな夜更けに。
何もかもが不可思議な白い人が私のもとを訪れて。何やら謎の魔術で昏倒して。
そうして次に目が覚めた時――私は鬱蒼とした木々が周囲を埋め尽くす暗くて深い森の中にいた。