聖女エマ【3】
「……あれはいったいどういうことなのですか、フィクタ様」
「あれ、とは?」
「とぼけないでください。いつからフィクタ様は私の婚約者になったのですか?」
夜開催となる祝宴までの待ち時間を過ごすよう用意されたインぺリウム城の客室で。
私はソファーで寛ぎながら優雅に紅茶を嗜むフィクタ様の向かい側に陣取り、じっと彼の美しい顔を見据えていた。今は室内にフィクタ様と二人きりのため、私の態度も完全に余所行きのものから普段のものに切り替えている。
あれからフィクタ様が国王夫妻を上手く丸め込み、謁見自体は表面上穏やかに終了した。
しかし途中から私の頭の中はフィクタ様の爆弾発言に支配されて、正直それどころではなかったのである。
確かに過去、神殿関係者と婚姻関係を結んだ聖女が居たという話を聞いたことはある。
だけど自分が知らないところで勝手に婚約者が決まっているとは流石に思ってもみなかった。
しかも相手はこのフィクタ様である。
美しく聡明な、神殿の次期神官長候補筆頭。立場からすれば確かに聖女の伴侶には相応しいかもしれないが、聖女の中身がこの私では到底釣り合うものではない。
そもそもどういう経緯でフィクタ様が婚約者になったのかも教えて貰いたい私が説明を求めるように視線を向け続けていると――何故かフィクタ様は憂うような溜め息と共に悲し気な眼差しをこちらへと返した。
「……聖女様は、私が婚約者ではご不満なのですか……?」
「えっ!? ……いえ、そんなことは、ないですけど……」
反射的に否定の言葉を口にした私に、フィクタ様は打って変わって華やかな笑みを覗かせる。
「それは良かった! 流石に聖女様がご不快に思われるのであれば、婚約者という立場から降りなければなりませんので」
こうもあからさまに喜びを表現されてしまうと、婚約を拒否するのは心苦しくなる。
困った私はとりあえず話題の矛先を別のものへとずらした。
「……そもそも、どうして私たちが婚約をしていることになっているのですか?」
「ああ、婚約の理由ですか? 簡単なことです。先ほどの国王陛下の物言いからも聡明な貴女なら察しが付いたでしょうが……陛下は聖女様の伴侶にリヴェルタス王子を推したいのですよ」
なるほど、と私はひとつ頷き返す。いわゆる政治的な婚姻というものだろう。
この国では聖女は神殿の管轄下にある。長年、王家はそれを好く思ってはいないのだとフィクタ様から教わったことはまだ記憶に新しい。この国において聖女を有するということは国民の圧倒的支持を得ることと同義なのだから、王家が神殿に不満を持つことはまぁ当然のこと。
仮に神殿と王家が対立した場合、現状では王家が勝てる可能性は万に一つもないらしい。
「聖女様は御年十七歳――それは世間のご令嬢の婚姻適齢期でもあります。今宵の宴でリヴェルタス王子をエスコート役に据えることで、王子と聖女様との関係性が親密であると周知させたかったのでしょうね」
「外堀から埋めるってことですか?」
「ああ、聖女様は本当に賢いですね。その通りです」
褒められても特に嬉しくはないが、状況はなんとなく理解した。
「つまり神殿としては私が王子と親密な関係になるのは避けて欲しいということですよね? だから先んじてフィクタ様を私の婚約者とすることで王家を牽制した、と」
政治的な婚姻という意味合いでは大差はない。
相手が神殿関係者か王家か。その違いだ。
けれど私だってよく知らない王子様よりはフィクタ様の方が抵抗感は断然少ないし、どちらかを選べと言われたら迷わず神殿側につく。
三年という歳月を共に過ごした人々を簡単に切り捨てられるほど私は薄情ではないつもりだ。
「だったら最初からそう事前に説明してくれれば良かったのに」
思わず愚痴っぽく呟けば、フィクタ様の美しい眉が申し訳なさそうに下がる。
「確かに申し訳なかったですね。祝宴が始まる前には話しておくつもりだったのですが……私にとっても少々切り出しづらい話ではありましたので」
「それは分かりますけど……」
私たちの関係性はいいところ兄と妹。保護者と被保護者のようなものである。
それなのに突然フィクタ様から「実は私たち婚約することになりました。これは決定事項です」と話を持ち出されたら……とても驚くだろうし、ひょっとしたら現状よりも嫌悪感を覚えたかもしれない。
ある意味で公の場という反論しづらいタイミングで切り出されたからこそ、冷静になる時間が生まれたとも言える。流石にそこまで計算していたとは思えないけれど、結果的に私はこの婚約について納得することが出来た。
と、そこで別の疑問が脳裏に浮かぶ。
「あの……婚約ってことは、いずれは結婚もするってことですか?」
「ええ、勿論ですよ」
「……フィクタ様は、それで本当に良いんですか?」
「と、言うと?」
「だって本当に好きな人とは結婚出来なくなっちゃうじゃないですか。後悔しませんか?」
私は聖女なので自由恋愛については最初から諦めている。
というか期待したこともなければ考えたことすらない。
けれどフィクタ様は違う。
次期神官長で類まれなる美貌を持つ彼の妻になりたいと願う女性はきっと多いはず。フィクタ様自身だって結婚するなら愛する人とした方が幸せになれるだろう。
神殿関係者との婚姻であれば良いのならフィクタ様ではなく誰か別の人と形式上の婚姻を結ぶことも許容範囲な私としては、あくまで親切心からの発言のつもりだった。
しかし予想に反して何故かフィクタ様の表情からスッと笑みが抜け落ちる。
彼は温度のない昏い目をこちらに向けると、いつもより低い声で、噛みしめるように言った。
「私が心から愛しているのは聖女様だけですので、その心配は無用ですよ」
言葉だけを素直に受け取れば愛の告白。だけどそれはあり得ない。
初めてフィクタ様と対面したのは私が十四の時である。当時二十一歳だった彼の目からすれば、私が恋愛対象になる筈もなかった。聖女に選ばれたとはいえ、出自も平民だったわけだし。
つまりこれは、聖女という存在に神官として殉じるという意味合いでの発言だろう。そう解釈した私は、本人がそう望むのなら自分が口出すことでもないなと判断してそれ以上の言及は控えた。
まぁ、私としてもフィクタ様が相手なら安心だ。
聖女としての生涯を共に歩むパートナーとして申し分ない。
誰よりも聖女の活動に理解があるのだから、きっと心穏やかに過ごせるだろう。
「……分かりました。では今後ともよろしくお願いしますね、フィクタ様」
私が場の空気を入れ替えるように微笑めば、フィクタ様は僅かに目を見開いた後で、
「ご理解いただけて何よりです……私の聖女様」
と、心底嬉しそうに破顔したのだった。